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濡れ翅  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第三部
14/15

4.取引


 蜘蛛の糸に絡まる蝶は本当に目だった傷を負っていなかった。

 何かを含まされてはいるが、それが招いているのは意識の混濁のみで、乱暴のままに酷く傷つけられているような事は全くない。

 どうやら本当に絡新婦はこのまま蝶を食べる気がないらしい。


「蝶」


 声をかけてみてやっと、蝶は私の姿を捕えることが出来た。

 虚ろな目が次第にはっきりとした光を宿し始めている。

 絡新婦の見張る中で、私はそっと蝶に身を寄せた。

 触れてみれば蝶の頬はとても冷たかった。けれど、血色が悪いわけではない。寧ろ、私の傍にいた時よりもよくなっている気さえする。蝶の身体は蜜の香りに包まれているのだ。絡新婦がきちんと栄養を与えていたのだろう。


「月……」


 蝶の声が聞こえ、私は思わず蝶を抱き寄せようとした。だが、糸にそれを阻まれた。

 強すぎる糸はきっと絡新婦にしか千切れないのだろう。私の持つ聖剣が通用するのかも分からない。試してみたいところだが、華を人質に取られている今はそんな事が出来るわけもない。


「これは、夢なの?」


 蝶がぽつりと声を漏らした。


「夢じゃない」


 私は即答した。


「現実だよ。迎えに来た」


 私の言葉を聞いて、蝶の身体が震え始めた。糸に絡まった身体をどうにか動かそうともがき始めた。


「無理に動いては駄目」


 だが、私の言葉に対して、蝶は首を横に振った。


「会いたかった。もう会えないって思ってたわ」


 次第に蝶の口調がはっきりとしてきた。

 混濁からも覚めてきているのだろう。蝶は真っ直ぐ私の顔を見つめ、しとしとと涙を流した。本当に恐ろしかったのだろう。私が出来るだけ身を寄せてやると、蝶は可能な限りもたれかかってきた。


「帰りたいの、月、助けて」


 ふらふらとしたその言葉は、はっきりと耳に届いた。

 胸に伝わってくるのは、毎夜のように感じている温もりだ。

 一歩間違えばとっくに失っていたかもしれないと思うと、それだけでこのままずっと手放さずにいたくなる。

 けれど、それではいけない。私がしっかりしなければ、彼女を取り返す事は出来ないのだから。そっと蝶の頭を撫でながら、私は小声で語りかける。


「遅くなってすまない。辛いかもしれないけれど、このまま少し待っていてくれ」


 すぐに蝶の不安そうな目が私を見つめてきた。


「大丈夫。蝶も華も置いて行ったりしない。だから私を信じて」


 その私の言葉を聞くと、開きかけた口を閉じて、蝶は静かに頷いてみせた。恐ろしくて堪らないはずなのに、彼女は私を信じてくれるらしい。私もその繊細な頷きに応え、名残を惜しみながら蝶から離れた。

 さあ、ここからどうするか。

 聖剣を握りしめて、地上より見張る絡新婦へと視線をやった。彼女は華を盾にすることを忘れない。胡蝶に対しては見せる慈愛のようなものも、人工花に対しては向ける気すら起こらないらしい。胡蝶の美しさに心を奪われる彼女だが所詮は蜘蛛。花の持つ美しさと人間達が執着する価値を理解してはいないのだろう。

 彼女はこの大地の敵ではない。

 だが、私個人の味方でもない。

 寧ろ、蝶と華を奪おうとしている彼女は限りなく敵に近い何かだ。

 この大地の為、女神である私の命を守るためという言葉の傘に隠れ、私の心をこの上なく揺さ振り混乱させる彼女は、食虫花と何も変わらない。


「女神様」


 絡新婦が声をかけてきた。

 その眼差しは地上から私を見上げているにも関わらず、まるで遥か高くから見下ろしているかのような威圧さを含んでいた。


「そろそろ御決断を」


 相手を持ち上げつつ、相手の選択肢を密かに狭めていく。彼女の手に乗ってはいけない。

 蝶も華も連れて帰る。その目的が変わる事なんてあるわけがない。そう、迷っているだけ無駄なのだ。何が蝶の幸せかなど、私が決める事ではない。蝶ははっきりと帰りたいと口にしたのだ。それだけで十分だ。

 問題は華の事だ。

 ここで私がすぐに答えれば、敵は容赦なく華に手を出すだろう。少年や日精を当てにすることは出来ない。彼らの動きは蚕一人で十分止められてしまうだろう。

 ならば、私が何とかするしかない。

 糸の階段を降りながら、私は無言で地上へと降りた。

 そんな私の様子を見て、絡新婦はさり気なく華の身体を引き寄せた。華の目がじっと私を見つめている。助けて欲しい等とは一言も口にしない。彼女は諦めているようだった。死が怖くないわけはない。それでも、人工花の彼女は、自分の心情など捨てて、主人である私の決断に従うつもりでいるのだろう。

 それが高貴な血を継ぐ人工花としての誇りなのかもしれない。


「御決断を」


 絡新婦が再び口を開いた。

 その手をそっと華の首筋へとまわし、鋭い視線で私の動きを止める。華が目を閉じた。覚悟を決めての事だろう。だが、死なせるわけにはいかない。

 私は剣を見せ、そのまま大地に突き刺した。


「絡新婦。お前に聞きたい。お前は、私が華を諦めて蝶を連れ帰るか、蝶を諦めて華を連れ帰るかの二択しか用意していないのか?」

「お望みならば、華をこの場で惨殺して、蝶も返さないという事も出来ますよ」


 強張った声で絡新婦は脅しをかけて来る。


「私は蝶が欲しいのです。貴女が穏便に蝶を下さるのならば、華だけは無事にお返ししますよ」

「どうして蝶なんだ。胡蝶はもっと沢山いるのに」


 無駄な質問だろう。しかし、言わずにはいられなかった。

 どんなに説得しても通用しない。そんな雰囲気が嫌でも伝わってくる。理屈ではないものが私の前に立ちはだかっている。

 そんな絶望を前にすると、無駄な足掻きだってしたくなる。


「簡単な事です」


 絡新婦は淡々と答えた。


「あの子が好きだから。それだけのことです」


 わざわざ聞かずとも分かっていた。

 私だって胡蝶なら誰でもいいとは言えない。

 私が蝶を助けに来たのと同じ類の感情を、絡新婦もまた本当に抱いているのだろう。どうやら彼女の言葉に偽りは無いようだ。食虫花や余所の肉食虫とは違って、絡新婦は獲物としてではなく、心ある生き物として、蝶を欲しているのだろう。

 だが、危険な関係には変わりない。

 隷属化すれば食欲も失せるかもしれないが、本来、女郎蜘蛛にとって胡蝶は食べ物に過ぎないはずなのだ。本能に刻まれた食への欲求が簡単に消えるはずもない。現に、彼女は胡蝶を食べたことがないとは言えないと告げた。

 もしも絡新婦に蝶の全てを託したならば、最悪の未来が訪れないとも限らない。


 ――いや、こんな想像はそもそも言い訳に過ぎない。


 私には絡新婦と対立する明確な理由がある。


「好みが合うな、絡新婦」


 聖剣を揺らし、私は言った。


「私も同じだ」


 蝶は渡せない。渡すものか。

 あの優しい胡蝶の娘は刺青を入れる道を選択し、孤独な私の傍にずっと居てくれると誓ってくれた。胡蝶ならば誰でもいいわけではない。蝶でなければ駄目だ。この一年で、それほどまでに彼女に対する感情は膨らんでいた。

 渡すわけにはいかない。

 易々と引きさがりたくは無い。

 どちらも引かないのならば、どちらかが力で捩じ伏せるだけ。だが、この状況は私に不利なものだ。

 絡新婦はまだ華を盾にしているのだから。


「残念でしたね、女神様。でも、ご安心を。貴女の分まで私が蝶を可愛がって差し上げましょう。こちらには蚕もいる。栄養となる蜜だって沢山与えてあげられる。華一人では重荷でしょうが、こちらには沢山の野生花がいるのですよ?」

「そうだろうな。私の元にいても蝶は痩せ細るばかりだ。だからと言って華一人に補わせていれば、彼女まで衰弱してしまうだろう」

「そこまで分かっていて、貴女はご自分の私情だけの為に蝶を取り返しにきたのですか」


 まるで煽るように絡新婦が私を見た。


「寂しいからと言って痩せ細る蝶を傍に置いて、それで満足なさるのですか? 貴女が跡継ぎを残して御隠れになった後は、蝶はどうなるのです? そんなに先の事ではないのですよ。貴女は、御自身の立場をお忘れになられているのではないのでしょうか?」


 私は静かに黙し、絡新婦に捕まったままの華を見つめた。不安げな表情が常に私を見つめている。私の動きを期待し、同時に恐れているのだろう。或いは、絡新婦の言葉に怯えているのかもしれない。

 そう思うとすぐにでも反論したいところだが、焦ってはいけない。


「確かに私は女神としての自覚が足りないようだな」


 気だるさが急に甦ってきた。

 執事の叱責に女中頭の小言。二人とも揃って口にするのは、母の代は良かったという言葉。私が月自身ではなく、月の姫として生まれていればどんなに良かったかという言葉。

 私だって母に会いたかった。月の姫に生まれたかった。記憶にすら残らなかった母を恋しがった。それでも、あの二人にはその気持ちが伝わらない。


 ――月様は勝手すぎます。


 耳にタコが出来るくらい、女中頭に言われてきた。今更、絡新婦に言われたくらいで、何も感じる事は無い。


「だが、私の元にいるよりも、お前に託す方が不安だ。絡新婦。お前は今までどんな方法で胡蝶の命を奪ってきた? 大切にすると言ったその口で、一体、どのくらいの胡蝶の悲鳴を味わってきたんだ?」

「それはもう数え切れないくらいですよ、女神様」


 絡新婦は即答した。


「私だって辛いのです。捕まえるのは気に入った子ばかり。それなのに、ずっと拒まれ続ければ、いつの間にか限度を超えてしまう。私だって嫌なのです。蜘蛛に生まれなければよかったのにと何度も思ったほどに。けれど、私は蜘蛛であり、胡蝶に心を奪われているのは変えられない事実なのです」


 自分でもどうしようも出来ない。

 彼女が持っている私への信仰よりも、絡新婦という存在として生まれ持った欲望の方が大きくて、本当にどうにもならないのだろう。


「残念だ。絡新婦。お前とはもう話し合える状況にないようだな」


 私の言葉に絡新婦は目を細めた。


「ええ、ですが、お忘れなく。私の手元には常にこの子がいるのですよ」


 そう言って華の柔らかな首筋を絡新婦はそっと撫でる。

 しかし、私はふと華の表情に気付いた。何かを訴えたがっているその目。恐れや不安を訴えているわけでも、助けを求めているわけでもない。何か合図をしたがっている。

 さり気なく視線を動かせば、少年と日精が蚕に睨まれつつも、私を見つめていた。

 ああ、そう言えば、花同士は会話が出来るのだ。絡新婦に支配されているこの空間においてもその能力が生きているのかは分からないが、少なくとも今、少年と日精、華は何らかのやり取りをしているようだ。

 今のこの瞬間だけ、自分が花でない事が悔やまれる。

 だが、私がわざわざ行動を起こさずとも、彼らは何かを企んでいるらしい。

 私がさり気なく花達に向かって目配せをすると、少年と日精が同時に動き出した。蚕が釣られて動き出す。二人の花達を捕まえようと意識を集中させだした。

 動き出したのが少年と日精。誘き出されたのが蚕。


 なるほど。

 なんとなく分かった。


 それが上手くいくのかどうか分からない。それでも、少年と日精、そして恐らく華も捨て身の覚悟でいるのだろう。それに応えない訳にはいかなかった。

 私は少年と日精を助けに行くように見せかけて、絡新婦の傍を離れた。

 絡新婦はすぐには動かなかった。

 じっと私の動きを目で追うと、華を抱えたまま大きく叫んだ。


「蚕!」


 その声が響く頃には、もう私は蚕の傍まで迫っていた。少年と日精の二人に気を取られていた蚕は、直前まで私に気付かなかった。

 ここまで来れば、もう大丈夫だ。

 聖剣をその喉元に突き立てると、蚕の動きがぴたりと止まった。その隙に、少年と日精が怯えを振り払って蚕を捕まえる。


「取引だ、絡新婦」


 私は叫んだ。


「二人の命とこいつの命を交換だ」


 私は知っている。隷属と主人というものは他者が思っている以上に強い執着心で繋がっている。特に魔術によって隷属化された者は、主人となる者に逆らえなくなる代わりに絶対に見放される事はない。魔術師にとって、己の隸属の命を他者に奪われるなど、耐えられないほどの屈辱であるからだ。他人に殺されるくらいならば自ら殺して独り占めしてしまう。そのくらい、主人の独占欲は強い。

 案の定、絡新婦は一歩も動けなくなった。

 華に危害を加えることもできずに、青ざめた表情で私を見ている。いや、私ではなく、私と花達に囚われる蚕を見ていた。


「絡新婦様……!」


 蚕が刃を恐れつつもどうにか声を上げた。


「どうか私を御見捨てください……!」


 それは隷属としての言葉だろう。

 どうやらこの男はすっかり個々の命であった頃の感覚を思い出せずにいるらしい。それでも、絡新婦はきっとその言葉通りにはしないだろう。出来ないものなのだ。そういうものだと私は聞いている。

 絡新婦は息を吐くと、素直に、大人しく、華を手放した。

 解放された華は真っ先に私達の元へと逃げてきた。後は蝶だけだ。あの蜘蛛の糸を千切れば、全てが終わる。


「どうやら私の負けのようです」


 絡新婦は力なく言うと、片手をあげた。

 その動作によって蝶を縛っていた糸があっさりと消えてしまった。細く弱々しい身体が糸で出来た足場の上に横たわるのが見える。


「約束は守ります。蚕を放してくださいませ」

「蝶をこちらに連れてきたら返してやる」

「なるほど、最後まで気を抜かない所はさすがと言うべきでしょうかね」


 そう言って絡新婦は背を向けた。蝶の横たわる場所へと歩んでいく。

 これでやっと終わる。

 安心感の欠片が顔を覗かせ始めていた。そんな時だった。蝶の元へと向かいかけていた絡新婦の足が止まった。私もすぐにその異変に気づかされた。

 絡新婦の支配するこの世界にて、侵入者が現れた。

 その侵入者は蝶の横たわるすぐ近くから私達を見下ろしている。蝙蝠だ。日精を案内し、私達と引き合わせたあの蝙蝠。食虫花の隷属に過ぎない、取るに足らない存在。彼だけならば、まだよかった。しかし、現れたのは彼だけではなかった。

 絡新婦の身体に力が籠った。


「お前、何処から……」


 蝙蝠と共に私達を見下ろしているのは女。

 その姿を目にした瞬間、私の背筋が凍った。塞がったはずの傷が妙に疼いている。目にするのは一年ぶりだ。

 もう二度と目にしたくなかった女がそこにいる。あろうことか、蝶のすぐ傍に。


「久しぶりに見る顔ばかりね」


 一年ぶりに聞くその声は、恐ろしいほど耳に沁み込んできた。

 食虫花。

 その名前は今も私を震えさせる。

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