5.導
◇
日精の先導でわたし達は歩きだした。
訊けば、本当に蝙蝠に案内されながらこちらまで来られたらしい。どういうつもりなのか、わたしにはちっとも分からない。もしかしたら月でも分からない事なのかもしれない。
日精は迷うことなく森を進んだ。彼女は蝶を生かすために捕まったらしい。蝶の為に絡新婦によって殺されそうになっている所を、他ならぬ蝶に助けられたと言っていた。だからこそ、蝶を助けたいのは彼女も同じ。
やはり、蝶は優しい人なのだ。
恐ろしい胡蝶とは違って、花に対する思いやりがある。そんな彼女が恐ろしい魔女に捕まってしまっているなんて本当に酷い話だ。早く助けたい。取り返しがつかなくなる前に、一緒に月の城に帰らなければ。
「蝶は無事よ」
日精は先導しながら教えてくれた。
「ただ糸に捕まっているせいでちっとも動けないの。恐ろしい蜘蛛の魔女に、いつ、何をされるか分からない状況にいたの」
絡新婦の恐ろしくも美しい顔を思い出した。
まんまと蝶を手に入れてしまった彼女は、今、何を想っているのだろう。
きっと日精が逃げ出した事も知っているし、わたし達が段々と近づいて来ていることも分かっているだろう。だとすれば、わたし達の事をそっと観察しているかもしれない。
そうだ、観察していないわけがない。
絡新婦は独りではないのだ。既に隷属化してしまった胡蝶の蚕がいる。逃げ出した日精を監視していてもおかしくは無い。
その可能性に背筋が凍りそうになった時、日精の歩みがふと止まった。石にでもなってしまったかのように日精が一点を見つめたまま固まっている。
ふと月がわたしの手を握ったまま日精の傍へと寄った。引っ張られる形でわたしもそれに従う。少年もまた日精と同じように前を見つめていた。
間近で見て、気付いた。
日精が怯えている。見つめる先にはまだ何も見えない。けれど、野生花である彼女と、少年は、何かを悟っているようだ。漂う空気も何の匂いも運んで来ないけれど、警戒するような相手が確実に近づいて来ている。
月が聖剣を構えた時、ようやくその人物は現れた。
その姿を目にした瞬間、わたしもまた息を飲んだ。
「蚕……」
思わずその名を口にした時、蚕の表情が少しだけ変わった。
彼はまっすぐわたし達の元へ堂々と近づいてきた。睨むような視線の先にいるのは日精。そう、彼女がわたし達の元に辿りついてしまったから、きっと蚕は苛立っているのだ。
月が聖剣をちらつかせ、蚕へと声をかけた。
「止まれ」
蚕は少しだけそれに従い、視線を日精から月へと変えた。
やや笑みを浮かべて入るが、緊張が窺えた。そんな彼の様子は、わたし達のような花だけでは到底窺えないものだろう。
「初めまして女神様。僕の名は蚕。絡新婦様の命によりご挨拶に伺いました」
淡々とした口調で蚕は言い、ゆっくりと頭を下げた。
「ようこそ、我が主様の世界へ。ここは他の場所とは違う幻想的な世界です」
生まれ持った胡蝶の妖艶さとはかけ離れた何かが蚕の表情より溢れ出ていた。彼はもはや絡新婦の傀儡でしかないのだろう。だが、それにしては、随分と自我が残っているようにも感じられる。
もしかしたら彼は絡新婦の事を純粋に慕っているだけなのかもしれない。
だとすれば、相当に厄介だ。
「まさか我らが月の大地の命そのものである貴女様にお会い出来るとは思いもしませんでした……が、お引き取り願います。この先は我が主様の私有地。いかに女神様といえども、勝手に踏み荒らすことは許しません」
蚕の言葉に、月の表情が強張った。
「私に逆らうつもりか。この先に蝶がいることは分かっている。彼女はすでに月の城の印を受けている。返してもらおうか」
しかし、そんな月の強気の態度にも、蚕は引き下がらない。
「そのような刺青が通用するのは、人間相手の時だけですよ」
引きつった笑みを浮かべながら蚕は言う。
「蝶と主様の間に縁が結ばれてしまえば、いかに貴女でも踏み込む事は敵いません。魔術を前にすれば刺青など無意味なもの。わざわざ遠くからいらっしゃったところ申し訳ありませんが、この先は一歩も通せませんよ」
「それなら強引に通るだけだ、蚕とやら。黙って通してくれないのであれば、この剣でその美しい肌に傷をつけなくてはならないのだが……」
月の淀みない脅しに、蚕は目付きを変えた。
笑みを殺し、冷たい眼差しを月に送っている。それだけで十二分に意思が伝わってくるようだった。
わたしの手より月の手が離れていった。
やはり戦う気だ。わたしはすぐに不安を覚えた。一年経っても慣れない左手で聖剣を操ろうとしている。
「月……待って……」
「華、皆の傍にいなさい」
その強い口調にわたしは逆らえず、そっと少年の傍へと下がる。
月が前へと一歩出ると、蚕もまた前へと出た。どうやら蚕は引き下がるつもりが無いらしい。月の剣を恐れていないのだろうか。ともあれ、その整った胡蝶特有の顔立ちが、意図も分からないような笑みを深めた時、月がやや表情を変えた。
まるで憐れんでいるかのようなその表情。
「頼むから退いてくれ。無駄な殺生はしたくないんだ」
「戯れ事を」
蚕の短い言葉に、月が少しだけ目を伏せた。
わたしは震えを覚えた。月と蚕が戦おうとしている。月が負けるなんて思いもしないけれど、それでも恐ろしくて仕方ない。そもそも不慣れな左手で彼女が何処まで戦えるのかわたしは知らない。
声を押し殺して怖がるわたしの手を、少年がそっと握ってくれた。
『大丈夫。僕に考えがあるんだ』
花特有の声を使ってそう言うと、少年は傍にいる日精に目を向けた。
『蝶が捕まっている方向は、あの胡蝶の後ろ?』
日精は黙ったまま頷いた。彼女も花であるから、声は通じているのだ。
『何をするつもりなの?』
わたしの問いに、少年は視線を逸らさないまま答える。
『月様と戦えばきっと奴に隙が生まれる。その隙を突いて向こうまで行くんだ』
少年の提案に、わたしも日精も怖気づいた。
それはつまり、蚕の――あの恐ろしい胡蝶の傍をすり抜けて走っていかなくてはならないという事だからだ。
『そんな事をして大丈夫かなあ……』
日精が控えめな声が頭に響いてきたが、少年は力強く頷いた。
『大丈夫。何も考えずに走るんだ。絶対に止まっちゃ駄目。僕達だけでも蝶の捕まっている場所に辿り着いたら少しはマシなはず』
蝶。その名を聞いて、わたしの怯えが少しだけ薄れた。
今頃彼女はもっと恐ろしい目に遭っているかもしれない。そう思えば、こうして怖がっている場合ではないと思えてならない。
早く蝶の顔を見たい。
彼女が無事であることを確認したい。
そんな願いがわたしの中で一気に増大していった。
『分かった。貴方の言うとおりにする。お願い、日精も協力して』
わたしの言葉に日精は戸惑いを顕わにした。
怯えが強く迂闊に頷く事は出来ないらしい。だが、そんな最中に、月と蚕は動き出した。慣れない左手に握られた聖剣が、蚕の命を狙って空を斬る。その刃を避けながら、蚕はじっと月の動きを観察していた。
何かを企んでいる。そんな気がした。
単なる時間稼ぎだろうか。それとももっと深くて恐ろしい考えでもあるのだろうか。ともかく、絡新婦の加護を受けている彼の動きはとても素早く、月の操る聖剣はなかなか彼を捉えることが出来ないらしい。
その上、月には迷いがある。わたしには分かった。本当に彼を斬っていいのか、否か、彼女は迷っている。
『本当に、あの向こうに行くの?』
日精が震えた声が響いた。
その気持ちも分からないでもない。けれど、ここから先も日精がいなければ困ってしまう。蝶に辿り着くには、彼女の協力が不可欠なのだ。
『大丈夫よ。蚕は月ばかり気にしているわ』
本当にそうだった。
まさか、か弱い花に過ぎないわたし達がこんな計画を企てているとは思いもしないだろう。蚕はただ月の攻撃を避けつつ、月の行く手を遮るのみだ。
日精もそれを見て、しばし唸った。
だが、すぐに決断を下し、わたし達を真っ直ぐ見つめてきた。
『分かった。貴方達に託す。タイミングは貴方達で決めて。あたしはそれに合わせてがむしゃらに走るわ』
『それで十分だよ』
少年がややほっとしたように表情を緩めた。
月と蚕は戦いに夢中になっている。月は斬ろうと必死で、蚕は避けようと必死だ。攻防が続けば続くほど、二人にはお互い以外のものが見えなくなっていくようだ。
これなら少年の作戦も上手くいく。
そして、その時は訪れた。月の聖剣の猛追に、蚕が思わずその場を大きく離れたのだ。その瞬間、日精が先程指し示した道が開けた。
あの向こうに蝶がいる。
「今だ」
少年の合図と共にわたし達は走り出した。
日精が行くべき道を目指して一目散に駆け込み、わたしと少年もそれに続く。蚕と月が攻防を辞め、いきなり動き出したわたし達へと視線をやっているのが見えた気がした。
だが、そちらを振り返っている暇なんてなかった。
蚕が塞いでいた場所へと辿り着くや否や、少年が叫んだ。
「月様、こっちです!」
振り返って様子を見れば、月が我に返ったようにわたしの顔を見つめていた。だが、すぐに状況を理解して月が走り出そうとしたその時、蚕もまた動き出した。
何か持っている。
小刀のようなものだ。
斬りつけられかけて、慌てて月が身を引いた。
「いけませんね、女神様。戦いはまだ終わっていませんよ」
軽やかに蚕が攻め始め、わたし達と月との間に立ちはだかる。わたし達には目もくれず、彼は月を通さないことだけを考え始めたらしい。
蚕の後姿の向こうで、月が唇を噛んだのが見えた。
「先に行ってくれ」
月がよく通る声で言った。
「絡新婦の邪魔をするんだ。私もすぐに追いかける」
その力強い声に、日精と少年がほぼ同時に走り出した。
わたしはすぐには動けなかった。月を残していくことが不安で仕方なかった。この先、月なしで蝶を助けることが出来るのだろうか。
蚕は侮れない。
月を通さないと決めた彼ならば、そう簡単には負けたりしないだろう。
そんな彼と月とを二人きりで残していいのだろうか。月がもしも追いかけられなかったら、わたし達はどうなってしまうのだろう。
しかし、そんな考えに縛られるわたしに向かって、月は叫んだ。
「早く行け。彼らとはぐれては駄目だ」
強い口調に押され、わたしは戸惑いつつそれに従った。
◇
日精の記憶は正確だった。
絡新婦に魔法をかけられているといわれても、ついさっきまで捕まり、蝙蝠の怪しげな誘導で掻い潜った彼女には無効だったらしい。
実際がどうなのかは分からないけれど、日精が蝙蝠に案内された通りの道を思い出しながら辿って行った結果、わたし達は本当に極あっさりと、蝶の捕まっている場所へと辿り着くことが出来たのだ。
その場所が目に入った瞬間、わたしはしばし状況を忘れて惚けてしまった。
糸が木々を繋ぎ、広大な揺りかごのようなものが紡がれている。わたしを縛っていた糸よりもずっと頑丈な糸で足場が組み合わされ、地上からやや離れた位置に彼女はいた。
「蝶……」
思わずか細い声が漏れた。
美しい物を人間が飾るように、彼女は飾られていた。
わたしの声かけにやや瞼が動いたが、はっきりと目を覚ましてはいない。顔色はとても悪く、肌はこの上なく青白い。
だが、意識がないわけではないらしい。
「華……?」
聞き心地のいい声がわたしの耳に届く。思いの外、はっきりとした声だった。薄っすらと開けられた瞼の向こうで、澄んだ瞳が他ならぬわたしを探している。
わたしは思わず足場へと駆け寄った。
登るのは大変そうだ。でも、登らなければ蝶に近づけない。
「待って、華!」
だがその時、少年に呼び止められ、わたしはそのまま凍りついた。蝶の傍の足場に何かがいる。糸と糸の間に隠れるようにしているが、わたしは見つけてしまった。
絡新婦だ。
蝶の傍でわたしが来るのを待ち伏せていた。
わたしに見つかった事に彼女も気付き、そっと目を細めた。糸と糸の隙間より、こちらを覗く目が恐ろしい。
「お帰り、華。また会えて嬉しいよ。日精もね。そっちの坊やはおまけかな」
そう言って絡新婦は姿を現した。
身動き一つ取れない蝶の傍へと身を乗り出し、わたし達を真っ直ぐ見下ろしている。その手が蝶の頬に触れる。
「女神は一緒じゃないんだね。君達だけで私の目を盗めるとでも思ったの?」
蜘蛛の目に見降ろされて、わたしは凍りついたまま動けなくなってしまった。
乱暴な胡蝶よりもずっと恐ろしいその目は、わたしだけではなく少年や日精をも怯えさせている。
絡新婦の後ろで蝶が青ざめた顔を見せている。
意識がはっきりと戻ったらしい。今すぐに優しい蝶の胸に飛び込みたい。そんな気持ちを抑えながら、わたしは絡新婦の動きを観察した。
「蝶、君は動けないから彼らを助ける事なんて出来ないねえ」
絡新婦がわざとらしく声を強め、蝶に向かって言う。
「可憐な花が私に勝てるって君は思うかい? 彼らはやる気満々だけれど、さて、私はどうするべきだろう」
その視線がそっと蝶へと移った。
「動けない君の目の前で、あの高価な白い花の少女を豪快に散らしてやるのも面白いかもしれないねえ」
その言葉を聞いた瞬間、わたしの額に汗が浮かんだ。
ただの脅しだ。そうは思っても、実際に絡新婦に散らされてしまう光景が容易く浮かんでしまう。きっと彼女は容赦なんてしないだろう。どんなにわたしが苦しいと泣いたところで、彼女にとって、胡蝶でないわたしは慈悲なんて与える資格もないのだ。
蝶もまたその事が分かっているらしい。
「やめて」
息を詰まらせつつ、彼女は必死に絡新婦に訴えた。
「お願い、華に手を出さないで」
「私だって無駄な事はしたくないさ。でも、他ならぬ彼らが私の邪魔をするなら、容赦なく潰してしまった方が楽だ」
「お願い、それだけは……」
蝶の必死の願いにも、絡新婦の表情は全く変わらない。
わたしも少年も、そして日精も、全く動けないまま絡新婦を見つめているしかなかった。せめて、彼女の魔法に勝る武器でもあれば――。
「君の態度次第だね、蝶。今すぐに私の隷属になるのなら、華とその友達には何もしない。どんなに邪魔をされても命までは奪わないであげてもいい」
取引だ。
わたしは思わず身を乗り出した。その瞬間、絡新婦が素早くこちらを睨んだ。動くな、という事だろう。見えない圧力に、わたしの身体が再び止まった。
代わりに動いたのは口だった。
止めなければ……止めなければ蝶は絡新婦の条件を呑んでしまうかもしれない。そんな気がしたのだ。
「駄目、蝶。月がすぐそこまで来ているの。だから、隷属になんかなっちゃ駄目。貴女は月の城の者なのよ」
「月が……」
蝶の目付きが変わった。
同時に、絡新婦の表情も同じく変わったような気がした。絡新婦が真っ直ぐわたしに向き直り、深く溜め息を吐いた。
「華、君は殺されたいのかい?」
その目には一切の冗談も含まれていない。
胡蝶に見つめられているかのように、わたしは逃げる事も出来ないままただその絡新婦の目を見つめ続けていた。
「いいよ、それなら殺してあげる。お友達と蝶が見ている前で、無様に辱めてあげるよ」
絡新婦が近づいて来る。
周囲では少年や日精の声が上がっている気がしたけれど、わたしの意識はすっかり絡新婦の姿に囚われてしまっていた。
これは魔術か何かなのだろうか。
真っ直ぐ彼女が近づいて来るのを、わたしは恐ろしいほどに大人しく待ち続けることしか出来なかった。絡新婦が連れてくるのは死の影だ。その恐怖だけが狭まっていくわたしの意識の中で鮮明に輝いている。それなのに、逃げることが出来ない。
そして、絡新婦はとうとうわたしの目の前に降り立ってしまった。




