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濡れ翅  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第一部
1/15

1.甘い蜜

『蜜吸い』から1年後の話です。


 窓を開けてみれば、外の爽やかな風が流れ込んできて、ずっと閉じこもっているあたしの肌を細やかに揺さ振ろうとした。

 そんな風に誘われて、あたしはちらりと視線を巡らせて、窓の向こう側に広がっている深くて美しい森の景色を脳裏に刻んでいった。

 あれは月の森と呼ばれる世界。

 あたしが卵として生まれ落ち、孵り、育った場所だ。そして、つい一年ほど前までは頻繁に足を運んだ故郷でもある。

 あの場所に行かなくなってから一年。

 晴れていようが、曇っていようが、雨が降っていようが、どんな日であっても、森はいつも美しい顔を見せてくれた。


 でも、あたしは知っている。

 あの森で生まれ育ったあたしは知っている。

 あれが美しいのは表面だけ。その中ではいつもおぞましい命のやり取りが繰り返されているのだ。今だって、あの森の何処かで誰かの命が奪われ、誰かの命が繋がれている。それが森と言う場所なのだ。

 今もきっとあの森で胡蝶と呼ばれるあたしの仲間が何者かに殺されている事だろう。

 あたしもかつてあの森で殺されようとしていた。

 思い出すだけで身体が震える出来事。

 あの時の傷は塞がった。傷痕は残ってしまったけれど、もう勝手に開いたりして血を流す事はない。傷痕もそんなに目立たない。衣服を脱いで裸になってみたところで、大抵の者の視線はあたしの腕にある刺青に視線を奪われることだろう。


 あたしは正式にこの城で一生を過ごすと決めた妾だった。

 言うなれば、女神の婢。

 ここは月と呼ばれる女神の城である。一年前に、死にかけていたあたしはこの場所に保護され、月の妾として大事にされてきた。

 でも、そんなあたしの不注意のせいで月の命は危機にさらされた。

 助かったのはいいけれど、あたしは苦しかった。

 月がもし死んでしまえば、月と名のつく大地は枯れてしまう。それは月の大地に住まう者達の殆どにとっては恐ろしいことだ。

 城の者達があたしに対して直接何か言う事はなかったけれど、あたしは責任を感じていた。

 あたしのせいで、月は殺されそうになった。

 月を殺そうとした謀反人の安否は一年経った今でも分からない。

 美しく、恐ろしい魔女だった。食虫花という名前を思い出すだけでも、あたしは背後を気にしてしまう。そんなわけがないのに、月の城に居ても何処かで彼女が忍び寄ろうとしている気がしてしまって、あたしは常に周囲を見渡した。


 彼女はきっとまだ死んでいない。

 そう思う以上、森にはもう行けなかった。


 あれから一年、あたしは常に疲労した状態で森を眺めて過ごしてきた。疲れているのはお腹が空いているからだ。胡蝶であるあたしは蜜を吸わねば生きていけない。けれど、その蜜が常に足りないのだ。

 毎日あたしが口にするのは、月があたしの為に買ってくれた人工花に貰う蜜と、町や森より集めた僅かな蜜飴。

 蜜飴は人間の手によって加工された花の蜜だ。お菓子のようなもので、これだけでは胡蝶の食欲は慰め程度にしか満たされない。

 今のあたしの命を繋いでいるのは、殆ど、あたしと同じくこの城に一生飼われる事となっている人工花のお陰だった。

 月下美人に近いという美しい銀髪の少女。

 華という名前の彼女は、一年前、あたしの妹のような存在だった。けれど、今ではすっかり彼女の方が姉のようにしっかりしている。

 不安定なあたしに飽きることなく、彼女は毎日必ずあたしに蜜を与えに来る。

 彼女との蜜吸いは、今の状況を少しだけでも忘れさせてくれる甘美なものだった。


 けれど、あたしは怖かった。

 かつて、あたしは華を枯らしそうになったことがある。


 蜜吸いは花にとってとても危険なもので、胡蝶が加減を間違えるだけで、あっさりと花は枯れてしまうのだ。

 枯れる事は死ぬと言う事。それでも、華は怖がらずにあたしに会いに来てくれた。

 彼女がいなくては、あたしは死んでしまう。けれど、華にばかり頼っていれば、彼女の方が参ってしまう。月もそれを分かっていたから、どうにかあたしの命を繋ぐ糧を使用人たちに探させているようだった。

 あたしは森を眺め、息を吐いた。


「せめて、あの森へ行けたら……」


 森へと足を踏み入れることが出来れば、華に無理をさせる事もないし、月を煩わせる事もない。あの森には沢山の野生花がいる。かつてのあたしは、その野生花達を探しては自分の力で蜜を集めていたのだ。

 胡蝶が生きていくためには沢山の蜜が必要だ。

 このままだとあたしの命は尽きる。その前に、月は最終手段に出るだろう。森に住む野生花達を誘拐して、有りっ丈の蜜を絞り取るという手段だ。

 勿論、そんな事をすれば、捕まった野生花達は死んでしまう。

 けれど、あたしはかつてそんな方法で命を繋いだ。ここに初めて保護された時、あたしの傷を癒すために複数の野生花達の命が消えた。

 華がいる今、そんな方法で生き長らえたくない。

 そんなあたしの気持ちを知っているから、月はそんな手段に出ないでいてくれている。それほどまでに、この城の女神はあたしを想ってくれるのだ。

 そのことが今のあたしの支えでもあった。


「蝶、何を見ているの?」


 声がしてやっと、あたしは部屋の扉が開かれているのに気付いた。

 音もなく入室し、愛らしい声を聞かせてくれたのは華だった。

 ここは月の寝室だ。あたしが一日の始まりから終わりまで大抵の時間を過ごしている場所だ。月と共に起き、月と共に眠る場所。

 華は度々此処を訪れる。あたしに会いに来るためだ。

 振り返り、間違いなく目に映った華の姿を見つめ、あたしは思わず微笑みを浮かべた。


「森を見ていたのよ」


 華は首を傾げる。

 刺青も入れられ、大人ぶってはいるけれど、やっぱり華はまだ子供だ。本当ならばあたしが他の虫から守ってあげなくてはいけないはずの人工花。

 月があたしにくれたかけがえのない贈り物。

 華はそっとあたしに近寄ってきた。


「ねえ、蝶、今日はまだ蜜を吸ってないでしょう?」


 近寄って来るだけで、甘い香りがあたしの脳を蕩かせる。

 華の蜜は、窓の外に広がる森中のどの野生花と比べても、濃くて甘いものだった。

 少し嗅がせるだけでも胡蝶の食指を動かし惑わしかねない、華自身にとっても危険なもの。彼女の蜜の香りを感じる度に、あたしは胡蝶に生まれた事に少しだけ罪悪感を覚えた。

 いつかこの子の蜜を飽きるまで吸ってみたい。

 そんな野蛮な願望が身体を疼かせるからだ。


「今日は止めておこうかしら」


 あたしは華から目を逸らし、再び森へと視線を戻した。

 もう一度、振り返る気にはならない。こちらに吹いて来る風は、華の蜜の香りを誤魔化してくれるものだった。

 けれど、当の華に背後から抱きつかれてしまえば、その誤魔化しも虚しいものとなる。


「駄目。ちゃんと蜜を吸わないと、蝶が死んじゃう」

「あたしはそのくらいで死んだりしないわ」


 あたしは視線を逸らさずに答えた。


「いいえ」


 華は引き下がらずに言う。

 その手はしっかりとあたしの身体を掴んで放さない。


「こんなに痩せてしまったのは、蜜が足りないからなのでしょう? 去年の蝶はもう少し健康的だったわ」


 一年とはこんなにも大きなものなのだろうか。

 ずっと子供だと思っていた華も、去年よりもずっとしっかりしている。まだ少女の華。けれど、出会った頃と今ではこんなにも違う。


「それはあたしがかつて太っていたってことかしら」


 からかうように言っては見たけれど、華から香る蜜の匂いは段々とあたしの理性を狂わせようとしていた。

 華もきっとわざとこうしているのだろう。


「お願い」


 あたしのからかいを無視して、華は言った。


「身体が疼いて仕方ないの。わたしの蜜を吸って」


 甘い声がすぐ傍で聞こえる。

 たった一年で悪い知恵がついたものだ。

 あたしは少しだけ溜め息を吐いて、静かに振り返った。向き直った途端、華の蜜の匂いに中てられて、目眩がしそうだったけれど、ぐっと堪えてあたしは華の両肩に手をかけた。


「分かったから」


 あたしは華に言った。


「そんな言い方は二度としないでちょうだい」


 冷静でいるつもりだったけれど、華の潤んだ深紅の目を見つめていると唾が喉を伝っていくのが分かった。

 もうすでにあたしの心身は華から蜜を貰う体制になっている。



 華の寝泊まりする温室の内鍵を閉めて、あたしは改めて自分の腕を眺めた。

 確かに痩せたのは自分でも分かる。蜜が足りない。常に足りない。あたしの健康を維持するためには、もっと必要なのだ。


 ――僕の蜜もあげるよ。


 つい先日、そう言ったのは、華の友人だ。

 度々城を訪れる野生花の少年。名前は無く、改めて考えるつもりもないようだ。華と同じ始祖を持つらしい彼は、胡蝶であるあたしの事も恐れず、話しかけてくる時さえある。

 彼に心配されるくらい、痩せてしまったのだろうか。

 あたしは彼の誘いを断った。彼がもし雌花だったら分からない。けれど、彼は雄花だ。年頃の雌花と雄花を引きあわせるのはよくない。胡蝶達による蜜吸いは、花達の実を結ぶ役目も担っているのだ。

 けれど、華に実を結ばせるのは早過ぎるし、あたしの勝手な判断でしていい事ではない。

 華の今後を決められるのは月だけだ。もらったと言っても、それは変わらない。

 あたしに許されているのは、こうして好きな時に華の蜜を吸う事だけ。


 そっと近寄ると、華の方もあたしに近寄ってきた。

 初めての蜜吸いからも一年ほど経てば、華も慣れてきていた。けれど、彼女はあたし以外の虫の誘いをきちんと拒否しているらしい。

 森遊びという悪習があたしから彼女に移ってしまったようだけれど、その際、華に寄り添ってくれる少年がきちんと見張ってくれる。華の都合を考えないような悪い虫が近寄る前に、少年は華を連れて逃げてくれるらしい。

 だから、そっと抱きしめた時、華は常に瑞々しい香りを漂わせる事が出来る。


「華」


 その柔らかな少女の身体と共に、あたしは床に座り込んだ。


「森でいつも何をしているの?」


 他愛もない会話だ。

 蜜を吸う時は、いつだって会話をする。華の声を聞き、温もりを感じ、鼓動を確かめていないと、限度を超えてしまいそうで怖いからだ。


「色々」


 華はぼんやりとした声で答えた。

 彼女の方も、既に蜜を吸われる体勢が整っている。


「綺麗なものを見たり、同じ野生花の子に噂を聞いたり」

「噂って?」

「森で起こる不思議な話とか、色々」


 やや困ったような表情で華はあたしを見上げた。

 この子は嘘が苦手だ。隠し事も苦手だ。この一年で、あたしは何度も教えられた。

 華はいつだって正直に生きている。それが当たり前過ぎて、隠したいことがあった時にうまく隠すことが出来ないのだ。

 きっとあたしには聞かれたくない噂でもあるのだろう。

 あたしはそれ以上追及するのを止めて、話題を少しだけ逸らした。


「危ない事はしないのよ?」


 問いかけながら、華の衣服をずらす。

 剥きだしになった白い肌をそっと撫でると、華は何かを我慢するように口を閉ざした。指の先からじわじわと華の蜜が伝わってきた。

 あたしが手を離すと、華はやっと口を開いた。


「勿論」


 泣きだしそうな声で華はどうにか答える。


「蝶以外の虫なんて嫌だもの」


 そう言うと、華は真っ直ぐあたしを見上げてきた。

 潤んだ目と紅潮した頬が色っぽくて、あたしは思わず惚けてしまった。その隙に、華はあたしの唇を奪っていく。

 蜜が流れ込んできた。

 いつの間にか、華は蜜を吸われるだけではなく蜜を流しこむ術を覚えていた。

 あたしが度々口にするのを拒むせいかもしれないけれど、とても厄介で、悩ましい行動に違いなかった。素晴らしい蜜を持つ花にこんな事をされて、逃れられる胡蝶なんているのだろうか。

 濃厚で痺れそうなくらいの蜜を味わいながら、あたしは華を抱きしめ、その身体の様子を確認した。

 鼓動が早まっている。

 去年ならば、ここで止めていたはずだ。

 けれど、華の方が唇を放してはくれなかった。あたしが抱きしめるよりも更に強い力で、華はあたしに抱きついていた。

 やがて、華はやっと口を離し、あたしの身体にもたれかかった。

 胸元から、くすりと笑う声が聞こえてくる。


「大好きよ、蝶」


 華はうっとりとした様子であたしの膝に寝そべった。

 あたしはその背中をただ撫でた。



 昼過ぎにもなれば、華はいつも少年と遊び始める。

 森へと向かってしまう事は既に城の者たちにも知れ渡っていたけれど、誰も彼女を阻もうとはしなかった。驚くべきは、この城で口煩い執事や女中頭でさえも華のしたいようにさせているという事だ。

 でも、あたしは知っている。

 華が自由に振る舞う分のしわ寄せが月に来ているという事を。

 月の部屋の隅にて、あたしは居座っていた。

 普段なら寝室の方で大人しくしているのだけれど、華の蜜を吸って少しだけ元気が出てきた途端、心細い気持ちが復活してきたのだ。


 窓際の長椅子に横たわりながら、あたしは机に向かう髪の長い美しい女を眺めていた。

 彼女こそが月。今年二十六歳になると聞いている。この世界で生き神と呼ばれる者で、その命を守るためにもうずっとこの城に閉じ込められている女神だ。

 月は気だるそうに手紙に目を通していた。

 城には度々来訪者がある。その来訪者の知らせだったり、遠くで同じように城を構える人間ではない者達からの電報だったりと様々らしいのだけれど、あたしにはよく分からないし、分からない方がいい。

 ただ月はいつも手紙を本当に面倒臭そうに整理している。

 来訪者の知らせは特に、気が乗らなさそうに確認する事が多い。誰がどんな目的で来るのかを確認してからやっと、ほっとしたように溜め息を吐く。


 ――会いたくない人がいてね。


 気だるそうに月がそう言っていたのは、今年に入ってからだったかもしれない。

 あたしもまだ会った事はないけれど、焦らずとも嫌でも会うことになるだろうと月はかつて言っていた。それはもう本当に嫌そうに。

 そして、今回も、その会いたくない人は来訪してこないようだった。

 手紙を片付け終わると、月はすっと立ち上がった。

 あたしの寝そべる長椅子に近寄り、じっと窓辺から森を眺め始める。あたしがそっと座りなおして空間を作ると、月は窓辺より視線を動かし、ちらりとあたしを見降ろした。


「今日はちゃんと蜜を吸ったようだね」


 月はそう言うと、あたしの頬にそっと手を当てた。

 温かなものが伝わってきて、あたしは黙ってその安心感を味わった。月の傍にいるだけで、穏やかな気持ちになれた。

 彼女のそばが一番安全だからかもしれない。

 もしくは、彼女に特別な思いを抱いているから、か。


「華がね、火をつけるのよ」


 あたしは月に教えた。


「いつの間に、あんなにいけない子になったのかしら。森でよくないお友達でも出来たんじゃないかって心配になるわ」

「へえ、華がねぇ」


 月は面白がって目を細める。

 柔らかな印象があたしの意識を夢心地に誘っていこうとする。


「今からそれじゃ、そのうち、沢山の虫を誑かすようなとんでもない女になるかもな。あの美しさと濃厚な蜜を持っているのだから」

「やめてよ。ただでさえ心配しているのだから」


 本当にそうなっては困る。

 花の蜜を狙う者の中には野蛮なものだっているのだ。


「冗談だよ」


 月は空虚に笑みを漏らし、あたしの頭を撫でた。

 彼女に撫でられるとふわりとした幸福感があたしの思考を遮っていく。


「心配せずとも、華の心は蝶のものさ。それに、素晴らしい守護者がついているのだし」


 柔らかな手に撫でられながら、あたしはじっと月の微笑みを見上げた。

 その微笑みの向こうには空っぽな感情が多く占めている。

 彼女は常に空虚な印象を引きずっている。それはおそらく彼女がおよそ四年後には女神として死んでしまうかもしれないと噂されているせいなのだろう。

 あたしは月にそっと身体を寄せて、その温もりを感じた。


 三十歳。それがこれまでの月の女神たちの殆どが命を落とした年齢らしい。

 月日が経つごとに、月もまたその年齢に近づいていく。

 三十歳になれば、女神は子を生み落とし、次なる女神の血を残す。そして、その多くはその場で命を落とし、新たな「月」の名を生まれたばかりの娘に託すのだという。

 子を生んでも死ななければ、月は月のまま。生まれた子は月の姫として幸せに育つ。


 ――月が産むのがどうか、月の姫でありますように。


 それはこの城に拾われて約一年、ずっと願ってきたことだった。

 あたしは月の姫を見たい。月の娘の成長を他ならぬ月と共に見守りたい。


「どうした、蝶?」


 ふと月に訊ねられ、あたしは思考の巡りを止めた。

 気付けば、月は心配そうにあたしの目を覗いていた。

 その深みのある色の目を見つめ返し、あたしはそっと首を横に振った。


「なんでもないの」

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