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ゴンドールの大陸  作者: 芹沢 まの
第四章
83/88

王女奪還作戦

 深夜になり、アリステア王城はいつもと変わらぬ夜を迎えていた。

 城壁の四方には”見張り塔”と呼ばれる塔が存在し、今夜も不寝番が眠気と闘いながら詰めている。

 その目をかいくぐり、城の裏庭に2つの影が降り立った。

 今夜もまた、兵士が付けた鎖による侵入だった。


「南の塔はあれだ」


 暗闇の中、アーロンが見張り塔のひとつを指差す。


「知ってる」


 キースはそう言って、周囲を素早く窺った。


「行って来る」

「あぁ」


 2人は短く言葉を交わし合うと、それぞれの方向へと素早く駆け出して行った。



 キースが南の塔に辿り着くまでには、少なくとも3人の見張りと出くわすはずだった。

 辺りに気を配りながら進んだキースは、やがて武器庫の傍まで辿り着いた。身を隠しながら様子を窺えば、アーロンに聞いた通り、そこには兵士が2人見張りとして立っていた。談笑する彼等に、緊張感など欠片も見当たらない。


「平和すぎるのも考え物だ…」


 キースは思わず独り言をもらした。

 塔へ行くには武器庫の前を通る必要がある。つまりはこの見張りの目は避けられない。キースは腰を上げると、少しずつ間合いをつめて行った。

 彼等が自分に気付く様子はまるで無かった。

 充分に距離を縮めたところで、キースは辺りに注意を払った。彼等以外、近くには誰も居ない。それを確認した瞬間、キースはその場から駆け出した。

 突然聞こえた足音に、兵士達が弾かれたように振り返った。

 だがキースを認識するより早く、1人目は延髄を打たれて昏倒した。白目を剥いて倒れた仲間を前に、もう1人の兵士が侵入者と対峙する。


「キース・クレイド…!?」


 兵士が声を上げる同時に彼の声も途切れる。鳩尾への痛烈な一撃で、やはりその場に倒れ伏した。

 キースは足元に転がった男を見下ろしながら、眉を顰めた。


「なんで俺を知ってるんだ…」


 キースはもう答えない兵士に対して独り言のように問いかけながら、素早く縄とナイフを取り出した。



 塔の入り口で最後の兵士を寝かせて縛り上げ、キースはやれやれとため息を洩らした。

 いちいち縛って口を塞いでおかないといけないので時間がかかる。作業を終えるとキースは薄暗い塔に入り、点在するランプの灯りを頼りに階段を昇り始めた。

 この上に居る見張りは2人――。

 1人は城内を、1人は城外を向いて座り、それぞれ背を向けて見張りをしているという。

 足音を殺しながら登り、やがてキースは螺旋階段の終着点を認めた。どうやら頂上に辿り着いたらしかった。

 階段を昇りきると壁に添って立ち、中に広がる空間を覗く。部屋は広く円形をしていた。

 その丸の対角線上の両側で、兵士が2人窓の外を窺っている。

 聞いた通り背を向けあっており、距離があるため会話も無い。

 城内を見張る兵士は窓枠に突っ伏しており、その背中は規則的に上下している。どうやら完全に夢の中だった。噂のロンディではないはずだが、ここにも怠慢な兵士が居た。わざわざ来たのに拍子抜けだと思いながら、キースは熱心に外を見ている兵士の背後からゆっくり近寄った。

 兵士が気配に気付いた時にはキースはもう背後に立っていた。

 慌てて振り返った兵士の背後から口を塞ぎ、首に腕を廻して締め上げる。

 完全に不意を衝かれた兵士は低く呻き、堅く締め上げるキースの腕に多少の抵抗を試みる。だが振り払うには至らず、ほどなく気を失った。

 それを確認して解放すると、キースはまた腰に付けている縄を取り出した。

 キースが兵士を縛り上げる間、もう1人の兵士はずっと夢の中だった。

 どうやら自分が広く顔を知られていることも分かったので、手遅れながら今度は口だけでなく目も布で塞ぐ。全て終えると、キースは最後の仕上げにと、眠っている兵士へと近づいて行った。



 南の見張り塔の窓で、明かりが揺れる。それは円を描くようにゆっくりと動き、身を隠して待っていたアーロンの目にはっきりと届いた。

 キースの合図だ。

 思ったよりずっと早い。流石だなと思いつつ、アーロンはすっと立ち上がる。

 南の館の庭園への入り口はすぐ近くだった。そこに立つ兵士は確か1人。――かつての仲間。


―――ごめんな。


 アーロンは胸の中で謝りつつ、足を進めて行った。


 ◆


 暗闇の中、ジークフリードはその目を開いた。

 体を起こし、辺りを見回す。そこはいつもと同じ自分の部屋の、寝台の上だった。

 起きて初めて、自分が寝ていたことに気付いた。一体、いつ寝たのか記憶に無い。慌てて自分の隣を見たが、リンティア王女の姿は無かった。


「…なんだ?」


 状況が見えない。混乱する頭を静めようと髪に手を潜らせ、ゆっくりと記憶を辿った。

 夜更けにリンティアが部屋に来た。そして自分の妃になると、確かにそう言った。

 この腕に抱き、口付けた。その感触はまだはっきり腕に残っている。

 その、後…。


”部屋に戻りなさい”


 信じがたい記憶に、ジークフリードは愕然とした。だが間違いない。自分でそう言ったのだ。


「…なにを、しているんだ俺は」


 自分の行動が理解できない。ジークフリードは呆然としつつ、暫く暗闇を見つめていた。ふと我に返り、頭を巡らす。


「リンティアは…」


 慌てて寝台を出た。


「リンティアは、どこだ…」


 ジークフリードはうつろな目でそう呟くと、ふらふらと部屋の扉へと歩いて行った。


 ◆


 南の館の庭園に入り、アーロンは端から二番目の部屋のテラスに辿りついた。

 この部屋にリンが居る。

 アーロンはそこに立ちはだかる大きな窓をざっと眺めた。窓の内部は赤い幕が下りていて、中の様子は窺えない。

 リンは今、ここで眠っているはずだった。

 金色の立派な取っ手に手をかけると、それを慎重に押し下げた。鍵がかかっていることを予想していたが、取っ手はは抵抗なく降りる。同時にカチリと小さな金属音が鳴った。

 予想外のことに、アーロンは一瞬手を止めた。


―――開いてる…。


 思わず眉根を寄せる。戸惑ったが迷う間は無い。アーロンはそっと窓を開け、その隙間から素早く部屋に滑り込んだ。

 そして重い幕の内側に身を潜め、部屋の中を窺う。その瞬間こちらを向いて立つ人影を認め、アーロンは全身を強張らせた。

 誰かが居る。自分が来るのを見越していたかのようにそこに立っている。

 部屋の微かな明かりがその人影を照らし出し、やがてアーロンの目にもはっきりと映し出される。

 その顔を認め、アーロンは目を見張った。


「――リン…!」


 そこに居るのがリンだと気付いた瞬間、アーロンは幕を払いのけて姿を現した。


 

 目の前に現れたアーロンの姿に、リンの胸は激しく揺さぶられた。今夜来ることは知っていたはずなのに、覚悟していた以上に強く…。

 癖のある赤い髪、釣り目がちな茶色い瞳。日に焼けた肌。

 何度も何度も、夢に見た姿がそこにある。

 懐かしくて、恋しくて、会いたくて、たまらなかった人――。


「リン…!」


 アーロンが名前を呼ぶ。いつもと同じように、同じ声で。

 それだけで、リンの胸は苦しいほどに締め付けられた。


―――アーロン…!!!


 アーロンがリンへと一歩近付く。その手がリンに届きそうになった時、リンはさっと身を退いた。

 延ばした手が空を掴み、アーロンはその目に戸惑いの色を浮かべる。


 苦しい。苦しくて息が出来ない。

 胸が千切れそうに痛い。

 リンは両手で胸を抑えながら、ゆっくりと首を振った。


「…帰って」


 必死の想いで絞り出したその声は、音にならない程に掠れていた。

 リンを見ながら立ち尽くすアーロンの姿が遠ざかる。

 こんなに近くに居るのに。手を延ばせば、届くくらい。

 やっと、会えたのに――。


 自失した瞳でリンを見詰めるアーロンが、やがて我に返り首を振った。


「……嫌だ」


 そして、とっさにリンの腕を掴む。


「行こう、リン」


 強引に引き寄せようとする力に抗い、リンはその場に膝をついて座り込んだ。


「だめなの…!」


 悲鳴のような声が辺りに響いた。


「だめなの…行けない…だめなの…!!」

「――だめでもいい!」


 アーロンがリンの言葉を遮って声を荒げる。自分の声の大きさにハッとして辺りを窺ったが、部屋には静けさが広がっていた。

 アーロンは改めてリンに向き合い、その両腕を掴んで引き上げた。


「絶対連れて行く!…立って」


 俯くリンはふるふると首を振り、決して立とうとはしない。

 アーロンはその体を抱きかかえるべく、腰に腕を廻した。


「お願い…やめて…!」


 哀願する声に、アーロンは動きを止めた。リンがアーロンの胸を押す。必死の抵抗に、アーロンはただ動転した。


「リン…どうして…!」

 

 責めるかのような声が出た。

 顔を伏せたリンの表情は見えない。けれどもその抵抗が本気であることは、嫌でも伝わってきた。


「どうして…ダメなんだよ…」


 何も答えないリンに、アーロンは再び問いかけた。

 リンの体が震えている。

 声を殺して泣いている。

 やがて、消え入りそうな声でリンが呟いた。


「他に…好きな人が居るの。……結婚、するの」


 暗い部屋の中に、リンの言葉が哀しく響く。そしてまた、冷たい静寂が戻った。

 重い沈黙に押しつぶされそうになりながら、アーロンはそっと、リンの腕を離した。

 力が抜けたようにリンは解放された手を床についた。

 俯いたままのリンの細い肩が、小さく震えている。


―――リン…。


 リンが泣いている。

 苦しんでいる。

 苦しみながら、それでも自分を突き放そうとしている。


―――変わらないね…。


―――お前は本当に昔から、嘘をつくのが下手なんだから…。


 アーロンは目を閉じた。

 それでも、ここに残るのか。残らなければ、ならないのか。結婚しなければ、ならないのか。

 一体、誰のために…?

 幸せになれないと、知りながら…。


「何も、できない…?」


 アーロンは囁くように問いかけた。


「俺は、お前のために何もできないの…?」


 リンは何も答えず、ただ泣き続けていた。そしてそれこそが答えなのだとアーロンに告げる。


 こんなつもりじゃなかった。

 縋って欲しかった。助けて欲しいと。連れて逃げて欲しいと。

 こんな風に苦しめたかったわけじゃないんだ――。


「――誰だ!!!」


 不意に辺りの空気を引き裂くような鋭い声が響いた。

 リンがハッとして振り返る。アーロンも弾かれたように声の方を見た。

 そこには、背の高い黒髪の男が立っていた。その姿に、リンが息を呑んだのが分かった。


「衛兵、出合え!!!――曲者だ!!!」


 アーロンの全身に衝撃が走りぬける。

 この時間、部屋に来る人物など想定していなかった。そもそも誰も入れないはずだった。

 衛兵が素早く部屋に走りこんでくる。


「逃げてーーー!!!」


 リンの悲鳴に意識を引き戻され、アーロンは入ってきた窓から部屋を飛び出した。


「追え!!逃がすな!!」


 男の声が背中に聞こえる。駆け出した庭園に大きな笛の音が鳴り響いた。

 それは、”侵入者、発見”の合図。



「――な…」


 見張り塔の窓から眼下に庭園を見下ろし、キースは小さく声を上げた。

 緊急事態の笛の音が響く。これが聞こえると、その音を目指して騎士達が一斉に動く。部屋を飛び出してアーロンの姿が、その目に入った。

 いつ見付かったのか。リンティアの部屋に、こんな時間に、誰かが居たということなのだろうか。

 その意味を考え、キースの顔は険しくなった。

 キースの眼下で騎士が動き、アーロンの姿を認める。声を掛け合いながら、追って行った。


―――囲まれる…。


 キースはやがて訪れる状況を先読みし、目を閉じて壁に額を付けた。

 今援護に駆けつけても間に合わない。むしろ共倒れだ。

 キースは窓から離れると、塔の出口へと向かってまた長い螺旋階段を駆け降りて行った。



 夢中で走っていたアーロンの目の前には、やがて数人の騎士が立ちはだかった。

 とっさに剣を抜く。しかし既に背後からも、おびただしい足音が近づいて来ていた。

 進まなくてはならない。捕まるわけにいかない。そう思った瞬間、頭の中にまたリンの声が響いた。


 ”だめなの…行けない…だめなの…!!”


 ”他に…好きな人がいるの。……結婚、するの”


―――リン…!


 泣いていた。悲しんでいた。苦しんでいた。

 ここを突破して、逃げ出せたとして、どうするのだろう。その後自分は、どうするのだろう。

 動かないアーロンに向かって、騎士が何かを言っている。けれども何の音も、彼の耳には聞こえない。

 

 どうやって、生きていけというのだろうか。

 リンを、失って――。


 次の瞬間、アーロンの手から剣が離れて落ちて行った。


「――よし、捕らえろ!!」


 騎士が一斉に自分に向かって走ってくるのを、アーロンは他人事のように、ぼんやりと眺めていた。



 侵入者の身柄を拘束したという報告に、庭園に出ていたジークフリードは満足気に頷いた。

 そしてその目をリンティアの部屋に向ける。

 男の目的は明らかだった。王女を連れ出そうとしていたに違いない。どういう関係なのかは分からないが、存在するべきでないことははっきりしていた。


「明日、その男も皇太后と一緒に処刑する。リンティア王女の部屋は外だけでなく、中にも見張りを付けるように。仲間が居ないとも限らないからな」


 国王の指示に、騎士は「かしこまりました!」と応えた。

 ジークフリードは小さく頷き、開け放たれたテラスの窓を振り返った。

 明日処刑が完了したら、リンティアの部屋は最上階に移動させよう。自分の、隣に。

 そうすれば、二度とこんなことも起こらない。



 見慣れた地下牢の入り口へと連れて行かれながら、アーロンはまだ自分に起きている事態をはっきり認識できないでいた。

 地下牢に辿り着くと、兵士が見張りとして立っている。

 緊急事態の笛の音が聞こえたせいか、その顔は緊張気味だった。

 不意に、兵士とアーロンの目が合った。その瞬間、兵士が大きく目を見開いた。


「アー…!!!」


 口を大きく開けたまま言葉を止める。彼はかつての兵士仲間だった。アーロンは何も言わず、彼から目を逸らした。


―――知り合いが居るって、嫌だな…。


 アーロンはそんなことを考えながら、地下牢へと連れられて行った。


 ◆


 その頃、グレイスは宿の部屋で1人キースとアーロンの帰りを待っていた。

 眠っていてもいいと言われたけど、全く眠気が来ない。ベッドに座ったまま、ただ宙を見つめていた。

 うまくいっただろうか。うまくいったとしても、これで終わりではない。

 これから長い、逃亡生活が始まる。

 不意に部屋のドアを叩く音で、グレイスは我に返った。


―――帰ってきた…!


 グレイスは急いで腰を上げると、ドアへと駆け寄った。相手も確認せずにそれを開ける。

 目の前に立つ人物に、グレイスは目を見張って固まった。


「よっ」


 そう言うと、彼は目を細めて白い歯を見せた。


「――お父様!!!」


 そこに居たのは、彼女の父親であるアルベルト近衛騎士隊長だった。



「…どういう事よ」


 グレイスの不機嫌な様子に、アルベルトは頭を掻いた。怒らせるのは予想通りだったが、やはり可愛い娘に睨まれると小さくなってしまう。2人は並んで置いてある2つのベッドのそれぞれに腰をかけ、向かい合っていた。


「そんな顔するなよ…」

「一ヶ月は好きにさせてくれるって言ったわ!!どうして後をついてくるような真似するのよ!!」

「いや、それはぁ…」


 アルベルトは答えに窮して視線を泳がせた。

 実際本当の理由を言うわけにもいかない。とりあえず娘をなだめるため、「言っておくけど、連れ戻しに来たわけじゃないぜ」と言ってみた。

 グレイスの表情が少しだけ和らぐ。


「…そうなの?」

「そうだよ!俺はお前が心配だから様子を見に、だな!」

「いらないわよ!」


 叩き返されてしまった。アルベルトはしょんぼりと肩を落とした。


「お父様は、国王なのよ?国王がそんな簡単に国を離れたらいけないに決まってるでしょ?!」

「アルフォンスに任せてあるから…」

「無責任よっ!」


 また怒られる。アルベルトはどんどん小さくなっていった。


「王都で近衛騎士隊の騎士を見かけたわ。来ているのは知っていたけど、まさかお父様まで…」


 グレイスはそう言うと、やれやれとため息をついた。


「…で?こんな時間に何の用?」


 確かに今は深夜だった。娘を訪ねて来る時間として適切ではない。


「いや、なんかちょっと心配になって…。お前、ちゃんとここに居るのかなぁと」

「居ますけどっ」

「はい…」


 彼のくちぶりだとキースとアーロンが出ていることは知っているのだろう。わざわざ王都から離れたけれど、ちゃんと見つけられてしまっている。

 全てお見通しなのが、なんだか悔しかった。


「今、行ってるのよ、2人は」

「おぉ、そうなのか!」


―――白々しい…。


 グレイスは呆れつつ「お父様は先に国に戻ってらして下さい」と言った。


「なにを言う!あいつらが今王女を連れに行ってるなら、もうお前も戻るだろ。一緒に戻ればいい。そういう約束だったよな?」


 その言葉に、グレイスは口をつぐんだ。逃げるように目を伏せる。そんな娘の表情にアルベルトは眉を顰めて身を乗り出した。


「おい、今更”帰りたくない”とか言わないだろうな」


 グレイスは目を伏せたまま首を振った。


「言わないわよ…」


 そして目を閉じる。


「言えないもの…」

「そういう顔、するなって…」


 アルベルトが困ったように呟く。


「だったら、国で待っていてくれればいいのに…」


 グレイスはとっさにそう返した。


「信じて待っていて欲しかった。自分で戻ってくるのを、待っていて欲しかったわ…!」


 グレイスの目が充血し赤くなる。それは紛れも無く、恋をする女の目だった。

 アルベルトは逃げるように顔を伏せると、小さく呟いた。


「…すまん」


 部屋にはまた、苦しいほどの沈黙が流れた。

 不意に部屋の鍵が外される音が聞こえた。

 キースが戻ってきたのだろう。グレイスはまたベッドから立ち上がった。



 目の前の光景に、キースは部屋に入りかけた足を止めて立ち尽くした。

 グレイスの側に居る思いがけない存在に息を呑む。

 グレイスはキースを認めると、足早に駆け寄ってきた。


「キース…!」


 キースは我に返り、グレイスに目を遣った。

 そしてその目をまた部屋の中の男に向ける。

 ローランド近衛騎士隊長――。

 茫然とするキースの視線を追うようにグレイスもアルベルトを振り返った。そしてキースに目を戻す。


「気にしないで。あの人の事は。すぐ国に戻るから。それより…どうだった?」


 アルベルトも立ち上がる。その顔には緊張が見て取れた。


「連れて、来たのか…?」


 キースはしばらくアルベルトを見ていたが、やがてゆっくりと首を振った。アルベルトの眉根が寄る。


「…失敗したのか」

「はい」


 キースは静かに応えた。


「アーロンが、捕まりました」


 ◆


 冷たい地下牢の中、アーロンは土の地面に座りながらぼんやり宙を眺めていた。

 捕まってしまった。今更その現実を実感する。

 一瞬何も考えられなくなった。全ての力が抜けてしまったようで。気がついたら、ここに居た。

 けれどもよく考えたら、キースはどうしたんだろうか…。

 無事に逃げ延びていたら、いいのだけれど。

 冷静になった頭で、先ほど起こったことを振り返る。


 リンの部屋の入り口から誰かが入ってくることは、全く考えていなかった。むしろそこは衛兵が見張っていて、誰も入れない場所だったはずだから。

 あの男は、一体誰なのか――。

 リンの部屋に自由に入れる身なのだろうか。そう思ったら、腹の底から不快感が湧いて来た。


「何やってんだ、俺…」


 アーロンは小さく呟くと、頭を抱え込んで顔を伏せた。

 牢の中は、恐ろしいほど静寂に包まれていた。

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