幸せをくれる人
アリステア王城の王女の部屋では、今朝もリンが医師の診察を受けていた。
熱が下がっていることを確認し、医師は笑顔で問いかける。
「昨夜は眠れましたか?」
「はい」
リンは頷いて答えた。
「お薬飲んで、久し振りに朝まで眠れました。起きたら、頭もすっきりしてて…」
「それはなによりです」
側でイライザが様子を見守っている。その顔はいつもの通り無表情だった。医師は道具を片付けながら、話を続けた。
「今日も一応お薬をお渡ししておきます。眠れないときは、またいつでも飲んでくださいね。それから食事の方も、少しずつ増やしていきましょう」
そう言ってイライザに視線を送る。イライザは了解の意を示すように頷いた。
リンティア王女の状態は、診察後毎回カーラ皇太后に報告されていた。戻ってきた時にはすっかり病人だった王女も少しずつ回復しているらしい。その知らせに、カーラはほっと安堵していた。
元気でいてもらわないと困る。大事な体なのだから――。
カーラはいつものように宰相を呼び出すと、彼に指示をした。
「あの子が元気になり次第、結婚させます。ロイエンタール家にそう伝えて頂戴。近く、紹介しないと」
宰相は皇太后の言葉に幾分動揺した。
リンティア姫の結婚相手としてロイエンタール伯爵が選ばれたということは知っていた。伯爵位を継いだばかりの20代の青年である。
だが体調が回復し次第結婚というのは、あまりにも性急だった。
「ですが、婚儀の準備が間に合いません。それにまだリンティア王女様のご帰還を国民に知らせてもおりませんので…」
「そういうのは、いらないわ」
皇太后は突き放すように言った。
「儀式は簡単でいいのよ。結婚後もあの子をアリステア王家から出す気はないもの。結婚なんて形だけ。夫となる伯爵には結婚後、城へ通ってもらうということで了解を得ているはずよ」
胎内を駆け巡る不快感を堪え、宰相はぐっと息を呑む。
「…リンティア様は、ご承知の事でしょうか?」
答えなど分かっているのに、そう問いかけずにはいられなかった。
「直前に知らせればいいわ」
カーラはそう言って冷笑を浮かべた。
「可哀想だといいたいのかしら?王族では普通のことよ。私だって、結婚前に一度だって前王に会ったことは無かったわ」
反論を封じる、重い言葉だった。宰相とて、目の前の皇太后が王族としての苦しみを味わっていることなど、充分に承知している。それを彼女に対してだけ義務や運命だなどと言うつもりはないが…。
宰相はそれ以上何も言えず、ただ「かしこまりました」と頭を下げた。
◆
やがて王女の部屋には、侍女ミーナが現れた。
「おはようございまーす」
元気な挨拶に、リンは微笑んで応え、イライザは”煩いわね”というように眉をひそめた。
イライザがミーナに指示を出している。申し送りが終わったのか、やがてイライザはリンに対して丁寧に礼をし、退出して行った。
イライザを見送ったミーナがリンを振り返る。そして早速リンの寝台に駆け寄った。
昨日より体調が良いリンは、体を起こし、柔らかい枕を背に座っていた。
「熱が下がられたんですってね!」
ミーナの言葉に、リンは「うん」と応えた。
「良かったです~!……それじゃ、案外近いうちに来れるかもっ」
「近いうちに…?」
「うふふふっ」
首を傾げたリンに、ミーナは意味深な含み笑いをして言った。
「もしかしたらリンティア様がもっと元気になっちゃう話を、持ってきちゃったかもしれません、わたしっ」
「え?」
その言葉に、リンは目を瞬く。
「元気になる話?」
「昨夜、私、王都の酒場で人に会ってきたんです。――誰に、だと思います?」
ミーナは勿体ぶった調子でそう言った。
なぜか質問形式になっている。けれども到底分かるわけがない。リンは一応少し考える素振りをしてみたが、降参というように首を振った。
「分からない…」
その答えに満足したのか、ミーナは嬉しそうに笑顔になる。そしてリンに対し、人差し指を立てて見せた。
「リンティア様の、こ、い、び、と、です!!」
その解答に、リンは時が止まったかのように固まった。
耳から入った音ははっきり届いているのに、理解が追いつかない。それほど、あまりにも予想外な言葉だった。
目を見開いて硬直するリンの顔を、ミーナはただじっと見つめていた。その反応を見逃すまいとするかのように。
そんな顔を茫然と見返していると、ミーナはやがて堪えきれなくなったようにぷっと吹き出した。
「…”誰だそれ”って感じですか?」
リンは素直に「うん…」と返す。アリステアの何処を探しても、そんな人物は居るはずが無かった。
「ですよねぇ~~~!!」
物凄く嬉しそうにミーナが手を叩く。話が見えず、リンは呆然と「どういう事?」と問いかけた。
ミーナは口元に浮かぶ笑いを、片手で抑えて言った。
「自称”恋人”から伝言預かってるんですけど」
「伝言…?」
ミーナの言葉をオウム返しする。ミーナはまた人差し指を立てると、芝居がかった調子で続けた。
「”必ず迎えにいく。俺は絶対諦めない”だそうです!」
その言葉に、リンは胸を貫かれるような衝撃を受けた。
体の奥で心臓が震え、全身に響くほどに鼓動が高鳴る。その音を聞きながら、リンは目を見開いたまま、凍りついた。
そんな王女の反応に、流石にミーナの顔からもふざけたような笑みが消えた。何も映していない翡翠色の瞳を、覗き込むように見つめる。
「あの…リンティア様…?」
名前を呼ばれ、リンは我に返った。ミーナに対し身を乗り出して言う。
「ミーナ…!…ミーナが会った人って…」
名前を口にしようとして、声が出なくなった。まるで喉を塞がれたかのように。
そんなはずない。
そんなはずない。
頭の中では同じ否定の言葉がぐるぐると巡った。
体が微かに震え、呼吸すらままならない。込み上げる感情が、涙となって視界を曇らせる。
そんなはず、ないのに。
別れも言わず、お礼も言わず、ひどい手紙だけを残して勝手に去った。こんな自分を…。
――必ず迎えに行く。
堪えきれずに、リンの口からは嗚咽が漏れた。
「…リンティア様っ」
ミーナが心配そうに声をかける。けれども止められなかった。
他に居ない。他にどこにも居ない。
そんな言葉を、くれる人は…。
ここがアリステアで、あの人から遠く離れているはずで…。それなのに、こんなにも揺ぎ無い確信がある。
他に、誰も居ない――。
部屋にはしばらくリンの泣き声だけが響いた。ずっと溜め込んでいた何かが堰を切り、リンは声を上げて泣き続けた。
ミーナはそんなリンを前に、ただ呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。
そのままどれ程の時間が過ぎただろう。
リンの涙が漸く落ち着き始めた頃、放心していたミーナはやっと我に返った。リンの様子を気遣いながら、おそるおそるというように声を掛ける。
「あの…大丈夫ですか…?」
リンはまだ涙に濡れる顔を上げ、頬を拭った。
「大丈夫…ごめんね。ありがとう、ミーナ」
そう言って穏やかに微笑んだ。
「元気、出た…」
「――まだ早いです!話終わってませんから!」
慌てたミーナの様子が可笑しくて、リンは小さく笑う。錘を詰めたように苦しかった胸が、軽くなっているのが分かる。
リンはミーナを振り仰ぎ、囁くように問いかけた。
「私のこと”恋人”だって、言ってくれたの…?」
「え…?」
ミーナはその質問の意味を解釈すると「あぁ、はい…」と頷いた。
「…そうなんだ…」
喜びを噛み締めて目を閉じる。そんなリンの表情を見ながら、ミーナは思わず「嬉しいですか…?」と問いかけていた。
リンはこっくりと頷いた。
「信じられないくらい、嬉しい…。こんなこと思っていいのか分からないけど、でも嬉しい…」
何も言えずにリンを見ているミーナの前で、リンは独り言のように語った。
「いつでもどこに居ても、私を幸せにしてくれる人は、やっぱり……アーロンなの…」
初めて出た”アーロン”という名前に、ミーナは目を見開いた。
ぼんやりと虚空を見詰める王女の儚げな横顔に目を奪われる。
憂いを帯びたその顔はぞっとするほど美しく、もうかつてのあどけなさは少しも残っていない。立派な1人の”女性”だった。
そしてその目線の先に彼女は、”恋人”の面影を見ているに違いなかった。
ミーナは時も忘れ、ただしばらくそんな王女を眺めていた。
◆
ミーナやカッシュと会って5日が経過した。
カッシュからの連絡はあの後1度きりだったが、内容はとても嬉しい知らせだった。リンは徐々に回復しているとのことだった。
食事も普通に食べれるようになって、一時期やつれていたけど、顔色も良くなったとのことだ。ただ、自分達が迎えに行くと言う話も伝わっているはずだが、それについてリンがどう言っていたのかは伝わって来ない。間接的に少しずつ届く情報に、じれったさは募っていた。
リンは自分達が来たことを聞いてどう思ったのだろう。
喜んでくれたのだろうか。それとも、迷惑なのだろうか。同じくらい、不安も募る。
ただ情報を待つだけの日々は、アーロンの中の焦燥を確実に煽っていた。
そんなある日の午後、キースとグレイスは王都を歩いていた。パン屋でいくつか毎日の朝食にするパンを買い、店を出る。
「あと、何か必要な物は…」
パンの袋を抱えてそう呟いたグレイスは、商店街を見回した。
「持つよ」
そう言ってキースは、グレイスの持つパンの袋に手をかけた。けれどもグレイスは袋を離さない。ふとその横顔を見ると、紫色の瞳は遠くを見詰めて固まっていた。
「グレイス…?」
キースが声をかけると、グレイスは我に返ってキースを振り返る。
そして彼を押しながら「店に戻って!」と言った。
慌てた様子のグレイスに気圧されるようにキースは今出たばかりのパン屋に戻った。グレイスも後に続いて入ってくる。
扉の開閉に合わせ、そこに付けられている鈴が綺麗な音を奏でた。
パン屋の主人が「いらっしゃいませぇ~」と、のどかな調子で言うのを聞きながら、キースは驚いたようにグレイスに問うた。
「どうした?」
「近衛騎士隊の騎士が居たわ」
グレイスが小声で囁く。キースは目を見張った。
「…ローランドの?」
「えぇ…」
グレイスは店の窓からこっそりと外を伺う。そして改めて窓に背を向けると、パンの袋を抱きしめ、はぁっとため息をついた。
「何しに来たのかしら」
顔をしかめるグレイスを見ながら、キースは「きみを迎えに…?」と問いかけた。
実際、他に考えられなかった。グレイスは目を伏せ、小さく呟いた。
「1ヶ月は、自由にさせてくれる約束だわ…」
少しの間、2人は沈黙した。
俯くグレイスの顔に影がかぶる。顔を上げると同時に、その唇にキースの唇が優しく触れた。
不安気なグレイスの瞳に、キースはふっと微笑んだ。
「俺達だけ、少しの間王都を離れよう。決行の時、アーロンに知らせてもらえばいい」
「…逃げるの?」
「そうなるね」
「そんな必要ないわ。だって、国王の許可をもらってるのよ?」
言いながらも、グレイスの胸から不安は消えなかった。”やはり連れ戻せ”という指示が出たとしても、なんら不思議は無い。
何も言わないキースの目を、グレイスはしばらく見つめていた。そしてそっと目を伏せた。
「…分かったわ。そうしましょう」
キースは黙ったまま、グレイスの頭をそっと胸に抱き寄せた。




