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ゴンドールの大陸  作者: 芹沢 まの
第四章
75/88

旅立ち

 翌朝、アーロンはいつものように自分の部屋に居た。朝の光の中、仕事へ行く準備をすすめる。

 最後の仕事へ――。

 今日で、上級兵士として退役を申し出る。それが昨夜、キースと2人で決めたことだった。


 アリステアに行くことを決めた昨夜、アーロンはその足でアリステアに連れて行ってくれる船を捜しに港へと行くつもりだった。けれどもそれはキースによって止められた。

 キースはアリステアに行く前に軍を退役して、ローランドとの関わりを断つべきだと主張した。

 彼の言葉の意味するところはアーロンにも理解出来た。アリステア王家を敵に回す立場になる前に、ローランドの上級兵士としての肩書きは捨てなければならない。

 万が一の場合、ローランドに責任を負わせないために。

 納得しながらも、アーロンはすぐに頷くことが出来なかった。アリステアに着いてしまったらリンはどうなるのか。それを考えると居ても立っても居られなかった。

 かつて処刑された王女…。生きていたことが分かった今、まさかまた再び…。

 そんなアーロンの懸念を、キースはきっぱりと否定した。


 ”殺したいなら、わざわざ連れ戻す必要は無い。人知れず殺せばいい。どうせ処刑されたことになっている王女なんだ。連れ戻す目的は違う所にある”


 そう言われ、アーロンはやっと落ち着きを取り戻した。

 焦燥が消えたわけではない。だが闇雲に飛び出しても、結局何もできないだろう。自分1人では、なおさら…。

 キースの存在を、改めて有難く思った。誰よりも、心強い味方を――。


 アーロンは剣と皮の袋を持つと、一旦居間を振り返った。間もなく別れることになる、住み慣れた部屋が自分を見送っている。

 アーロンは再び部屋に背を向けると、足早に玄関へと歩いて行った。


 ◆


 アリステアに向かう船は、順調に海を渡っていた。無事に任務を終え、誰の胸にも安堵感が広がっている。

 ”商人に逃げられ、手がかりを失った”などという報告では到底許されないことは分かっていた。


「それにしても…」


 甲板で海を見張りながら、騎士の1人が口を開いた。


「綺麗になったな、リンティア姫…」


 彼の隣に立つ騎士が「あぁ」と同意する。

 かつて処刑されたと聞いたとき、王女はまだ12歳の少女だった。その時の感覚で出迎えたので、美しく成長した姿には誰もが息を呑んだ。

 弱冠15歳で国王を魅了して止まなかったという伝説の姫、アイリス様…。当時の彼女を見たことなど無い騎士達も、その話に納得せざるを得なかった。


「どうして連れ戻すんだろう…」

「そうだな、処刑しておいて…」


 騎士達はそんな会話を交わしつつ、自然と頭の中では同じ予想を立てていた。


「ジークフリード国王の妃として、か…?」


 ぽつりと呟いた言葉に、隣で聞いていた騎士が不愉快そうに顔をしかめた。



 船室のベッドでうつ伏せに横になったまま、リンはぼんやりと船の動く音を聞いていた。

 丸い窓から光が差し込む。いつの間にか夜が明けている。何を見るでもなく、光の射す床を瞳に映していた。

 食事が何度か運ばれてきたけど、あまり喉を通らない。近衛隊長が心配そうに様子を見に来るたび必死で食べようとするが、体が受け付けない。

 一度吐いてしまってから、食事は食べ易いスープになっていた。

 皆が自分を気遣ってくれている。分かっているのに、それに応えられない。リンはまたゆっくりと目を閉じた。

 昨日書いた手紙を、アーロンはもう読んだはずだった。

 あんな手紙一つで出て行った自分を、どう思っているだろう。


―――怒ってるかな…。


 ふと思い、けれども心はすぐに否定する。アーロンは怒ったりしない。キースは怒ってるかもしれないけど…。

 瞼の裏に2人の顔が浮かぶ。

 リンは目を閉じたまま、穏やかに微笑んだ。


 ◆


 ローランド王城の訓練場で、上級兵隊長バッシュは凍りついたように固まっていた。

 朝礼後、いつものように訓練開始の指示をして去ろうとしたところを、キースとアーロンに呼び止められて話をしている。彼等の口から発せられた言葉をとっさに理解できず、バッシュは言葉を失くしていた。

 そんな隊長を、目の前の2人の落ち着いた瞳が見返している。ただ彼の言葉を待つように。


「…退役?」


 しばらく間をおいて、バッシュはやっとそう問いかけた。


「はい」


 2人が同時に答える。その返事に、少しも迷いは無かった。バッシュは思わず乾いた笑いを洩らした。


「何、言ってんだ突然…。お前等、何歳だと思ってんだか…」


 ”退役”というのは、軍人として歳を取りすぎた者が現役を離れる時に使う言葉だとバッシュは思っていた。

 上級兵士として一番若く、しかも将来有望とされている2人が揃って軍を離れる意味は全く分からない。


「突然のことで、申し訳ありません」

「――ふざけるな!!」


 キースの言葉に、バッシュは思わず声を上げた。


「突然上級兵士として転がり込んでおいて、また突然2人揃って辞めるだと?!調子に乗るな!!遊びじゃねぇんだぞ!!」


 バッシュの言葉に、2人は反論しなかった。その冷静な目が、余計にバッシュを苛立たせる。自分を落ち着かせるために一度大きく息を吐き、改めて2人を睨みつけた。


「理由を言え」

「一身上の都合です」


 即座にそう答えるキースに、「そんな言葉が通用するか!!」と怒鳴り返す。


「キース、お前バーレン公爵の顔をつぶす気か?!お前を推薦した公爵の立場を考えろ!お前もだ、アーロン!!お前だって推薦してもらって入った身分だろうが!!」

「バーレン公爵には、直接謝罪に伺います」


 キースがあくまで冷静に答える。アーロンは口をつぐんだままだ。

 流石のバッシュも、自分が何を言っても無駄だということは理解できた。2人の意志は固い。けれども簡単に退くわけにはいかない。他の誰かならばまだしも、目の前の2人がめったにいない人材であることは嫌というほど知っている。

 バッシュは少しの間考えていたが、やがて「わかった」と頷いた。


「近衛隊長に報告する。近衛隊長の許可がおりたら、俺は何も言わない」


 バッシュの言葉に、キースとアーロンは「はい」と応えた。


 ◆


「なぁんだとぉ~~???」


 突然現れたバッシュ上級兵隊長の知らせに、アルベルトは間抜けな声を上げた。気に入らないというように顔をしかめる。バッシュは弱り切った様子で眉を下げていた。


「引き止めてください、お願いします。あいつら自分の言う事は聞かなくて…」


 図体がでかいくせに泣き言を言っているバッシュを前に、アルベルトは思わず吹き出した。


「情けないぞ、バッシュ」

「申し訳ありません…」


 バッシュはきまり悪そうに呟いた。


「ですが、理由を聞いても言わなくて、とにかく”辞める”の一点張りなんです。よりによって2人一緒にですよ。まったくどこまで仲良しなんだか」

「”仲良し”か!」


 アルベルトが豪快に笑う。

 バッシュは、「本当に困ってるんです…」とすがるように言った。その切実さは確かに伝わってくる。


「あいつらはそれぞれ隊を持ってますから。残された兵士達が可哀想です」

「そんな理由だけで引き止めたいわけじゃないだろ?」


 意味深な笑みを浮かべる近衛隊長に、バッシュは何も言わずに目を伏せる。アルベルトは思わず苦笑した。


「わかった。午後、2人を騎士の館の”暁の間”に来させろ」



 ローランド王城の王女の部屋で1人の昼食を終えたグレイスは、食後をのお茶を飲んでいた。今日は特に予定が無い。ユリアンでも巻き込んで午後は剣の稽古をしようと考えていると、不意に侍女が彼女の前に現れた。


「グレイス様、近衛騎士隊長アルベルト様がいらっしゃっておりますが」

「あら」


 父がわざわざ自分から訪ねて来たらしい。

 グレイスは不思議に思いつつ「どうぞ、入ってもらって」と告げた。


 やがて侍女の案内で鎧に身を包んだアルベルトが現れた。


「グレイス、ちょっと付き合え」


 顔を見た瞬間即座にそう言われ、グレイスは目を丸くした。


「どこに?」

「キースとアーロンを呼び出してある。話をしに行くから、お前も来い」


 グレイスは一瞬硬直した。けれどもすぐに我を取り戻し、手に持っていたカップを、そっとテーブルに置く。そして改めて紫色の瞳を父に向けた。


「…何の話?」

「2人が退役したいと言い出したらしい。理由を聞きに行く」

「退役…」


 予想もしない言葉に、グレイスは目を見張った。


「寝耳に水だろ」


 アルベルトが苦笑する。


「バッシュが聞いても理由は言わないらしい。引き止めてくれって泣きつかれてさ。あいつらがつまらない理由でそんな事言い出すとは思えないからな。とりあえず事情を聞きにいく。お前も、聞きたいだろ?」

「聞きたいわ」


 グレイスは立ち上がった。その真剣な目に、アルベルトはふっと笑みを洩らす。


「あいつらはお前のお気に入りだからな…。まぁお前が言えば、たぶんキースは引き止められる」


 からかうように言いながら背を向けるアルベルトに、グレイスは何も応えずに黙って付いて行った。


 ◆


「なにが”暁の間”だよ。普通の部屋じゃん」


 隣でぼやくアーロンの言葉に、キースは苦笑した。

 2人が呼び出された暁の間は、騎士の館の中にある広い応接室だった。

 ゆったりとした上等な長椅子が向き合って置かれている。その間に大きな白いテーブルがどっしりと構えている。床は足音を吸収できるベージュ色の絨毯が敷かれており、高級感を増していた。壁にはなにやら景色画が飾っており、海から顔を出す太陽が描かれている。その絵が、この部屋の名前の由来になっているのかもしれない。

 とりあえず部屋に入ってみたが、まだ誰も居なかった。長椅子に腰をかけて待つ。そんな時間ももどかしく、アーロンは苛立ちを感じていた。


「こんなことしてる場合じゃないのに…」

「落ち着け。引き止められるのは当然だろ?そもそも無理を言ってるのはこっちなんだ」

「分かってるけど…」


 不意に部屋の扉の開く音で、2人は同時にそちらへ目を向けた。キースが立ち上がるのに合わせて、アーロンもその場で立つ。それと同時に、近衛騎士隊長の大きな体が入ってきた。

 ダークブラウンの鋭い目が2人を見つける。ニッと笑みを浮かべると、白い歯を見せた。


「よっ」

「お疲れ様です」


 2人は同時にそう言うと、頭を下げた。そして顔を上げた瞬間、キースが動きを止めた。


「あれ?!」


 隣でアーロンが声を上げる。


「グレイス!!」


 キースは何も言えず、目を見張って固まっていた。近衛隊長の後ろから現れたのは、懐かしいグレイス王女だった。



「軍を退役したいそうだな」


 目の前の長椅子に座って話を切り出したアルベルトの隣で、グレイスは黙って座っていた。

 当たり前のように並んで座る2人を見ながら、アーロンは納得いかない想いを感じていた。何故、王女を連れて来たのか。こんな時に…。

 隣でキースが「はい」と応える。その落ち着いた声に、迷いは無かった。

 今、軍を抜けてアリステアに行くことは、この王女との永遠の別れになるだろう。今更その事実に気付き、アーロンの胸に複雑な想いが渦巻く。


 ”ローランドとの関係を断ち切ろう”


 そう言ったのはキースだった。

 キースにとってこの国を護りたい想いは、自分がリンを救いたいと思う気持ちと同じくらい大きいに違いなかった。


「理由は?」


 アルベルトの問いかけに、キースはとっさに何も答えなかった。そんな躊躇いを許さないアルベルトの言葉が畳み掛ける。

 

「グレイスも聞きたいらしい。お前等に期待してたからな」


―――卑怯だな…。


 アーロンは内心そう思っていた。わざわざこんな形で、キースの弱いところを突いてこなくてもよさそうなものだ。


「俺の都合なんです」


 アーロンが口を開いた。アルベルトの視線がアーロンに移る。


「妹が、居なくなったんです。アリステアに連れて行かれたことは確かなので、アリステアに向かおうと思っています。どれだけ国を離れるか分からないし、もう戻って来れない可能性もあります」


 少しの間、部屋には沈黙が流れる。アルベルトが首を傾げた。


「アリステアに連れて行かれたことが確かだと、何故言える?」


 その問いに、とっさに答えることができない。アーロンは困惑し、目を泳がせた。


「アーロン…」


 グレイスが口を開いた。


「私は、力になれない?」

「――なれないよ」


 答えたのはキースだった。グレイスの目が驚いたようにキースを見る。


「適当なことを言っても仕方が無い。近衛隊長が相手なら、話したほうがいい」


 キースが思い切ったように、そう言った。



 結局、グレイスを前にキースは全てを話した。

 自分達が、もとはアリステアの騎士と兵士であったこと。アーロンが”妹”として一緒に暮らしていた少女がアリステアの王女であり、キースの姪であること。 彼女はゴンドールに流刑となったが、アーロンに偶然救われローランドで住んでいたこと。それが知れてしまい、アリステア王国へ連れ戻されたこと。

 アルベルトとグレイスはただ黙ってその話を聞いていた。

 話を終えた部屋には、また重い沈黙が流れた。


「アリステアの、軍人だったとはな…」


 現在敵国ではないにしろ、他国の軍人を自分の懐深く招きいれている事実にアルベルトは思わず苦笑した。これが密偵だったとしたら、好き放題やられるところだった。


「それで…」


 アルベルトが口を開いた。


「アリステアに行って、どうするんだ」

「王女を連れ出します」


 淀みなくキースが答える。


「誘拐か?」

「そうです」


 あっさり認めるキースにアルベルトは顔をしかめた。


「…馬鹿だな、お前等」

「馬鹿なことを言っているのは承知の上です」


 キースはそう言うと、真っ直ぐアルベルトの目を見据えた。


「だからこそ、ローランド軍から離れたいんです。自分達のことは切り捨てて、忘れて下さい」


 グレイスが目を見開いてキースを見ている。その目に気付いているはずなのに、キースはあえて彼女を見ようとはしなかった。そうすることで自分の意志を、押し留めるかのように。


「とても”力になる”とは言えないぞ」


 アルベルトの言葉に、キースは「当然です」と返した。


「もし成功して王女を連れ出せたとしても、ローランド軍に戻って来ることはできないぞ。一生逃げ回るつもりか?」

「…はい」


 アルベルトは援護を求めるように、グレイスを振り返った。


「何か、言う事は…?」


 その言葉に、キースの目がやっとグレイスを映す。グレイスは言葉も無く、ただ凍りついたようにキースを見詰めていた。

 閉じた唇は小さく震え、何も言葉は出そうにない。紫色の瞳は、微かに潤んで見えた。

 キースはその目をただ見つめていた。


「…グレイス?」


 隣でアルベルトが不思議そうに問いかける。そんな呼びかけにもグレイスは何も応えなかった。


「――それでは、失礼します」


 そう言って、キースが立ち上がった。まるで全ての迷いを振り切るように。

 アルベルトは何も言わない。深く頭を下げるキースを見ながら、アーロンも立ち上がった。


「失礼します…」


 同じように頭を下げる。

 キースは足早に部屋を出て行った。アーロンもそれを追いながら、グレイスを振り返る。一瞬見たグレイス王女の目に、何かが光って見えた気がした。


 アーロンが目を逸らした瞬間、グレイスが弾かれたように立ち上がった。

 ドアの前で固まるアーロンの前を通り、部屋を出る。


「――え?」


 アーロンは思わず間抜けな声をあげた。その目がとっさに近衛隊長に向けられる。彼もアーロンと同じような顔をして固まっていた。


「なんだ、なんだ!」


 アルベルトが我に返って立ち上がる。そしてアーロンの前を通り、慌ててグレイスの後を追った。

 一番最後まで部屋に残される形となったアーロンは、隊長の背中まで見送り、やっと彼について部屋を出た。出てすぐに、目の前の光景に再び固まった。

 廊下の真ん中で、キースとグレイスが固く抱き合っていた。

 グレイスはキースの首に両腕を回して抱きついている。その体を、キースの腕がしっかりと支えていた。昼の光の差し込む廊下で照らし出される2人の姿は、言葉を失うほどに美しかった。

 アーロンの目が隣に居る隊長を見る。彼はただ凍りついたように、抱き合う2人を見つめていた。



 腕の中で、グレイスが泣いている。初めて彼女を抱いた、あの夜と同じように。

 キースは耳元のグレイスの泣き声を聞きながら、その黒い髪を撫でた。


―――最後まで俺には、泣かせることしかできなかった…。


 誰よりも誰よりも愛おしい人…。


「キース…」


 グレイスが小さく囁く。


「引き止めないわ…。でも、これだけは言わせて…」


 グレイスの声が暖かく耳に届く。


「…貴方を、愛していたの」


 その言葉に、キースは固く目を閉じた。そしてまた腕の中のグレイスを強く抱きしめる。


「だと、思ったよ…」


 グレイスが耳元で小さく吹き出した。キースもつられて笑う。そしてやがてどちらからともなく、そっと体を離した。

 キースはしばらくグレイスの瞳を見詰めていたが、やがてその目をアーロンに向けた。

 彼は近衛隊長と並んで、茫然と自分達を眺めていた。


「…行こう」

「えっ」


 アーロンが我に返ったように声をあげる。


「あ、うん」


 そう応えたアーロンを置いて、キースはもう歩き出していた。

 一度も振り返らずに歩いていくキースの背中を、グレイスは黙って見送っていた。


 ◆


 近衛隊長と話を終えたことを報告すると、バッシュはもうそれ以上何も言わなかった。そっけなく「さっさと行け」と言っただけだった。


「お世話になりました」


 そう言った2人の言葉に何も応えず、バッシュは足早に去って行った。



 その夜、アーロンとキースは港で落ち合った。

 二度と戻らないことを想定して、借りていた部屋は解約した。揃えた家具や生活用品は、全て置いてくることになってしまった。持って出るのは剣とお金と荷物を少し。

 暗くなった港では、商船や客船がまだ動いていた。


「…アリステアに行く船なんてある?」

「普通は無い」


 キースが答える。


「でも金を出せば連れて行ってもらえる。個人の船を捜そう」


 アーロンは納得したように頷いた。

 そういえば毎回ゴンドールに連れて行ってもらっている船は、個人の船だった。いくら出して頼んでいるのかは、流石に知らないが。

 船着場に向かい、二人は歩き出した。


「キース…」


 隣を歩きながら、アーロンが声をかける。キースは「ん?」と応えた。


「本当に、いいのか…?」

「何が?」

「何がって…」


 リンをアリステア王家から連れ出したいと願う自分の気持ちに、結果的にキースを巻き込んでいる。

 けれども、昼に見た光景が頭に焼き付いて離れそうになかった。


「俺、1人でも大丈夫だぜ」


 アーロンの言葉に、キースが吹き出した。


「なんだよ…」


 意外な反応に思わず目を丸くする。


「別にお前のためじゃない。なに言ってるんだ」


 馬鹿にするような言い方に、ついつい顔をしかめる。キースはそんなアーロンを見ながらふっと笑みを浮かべた。そして目を伏せると、小さく呟いた。


「俺は、アリステア王家に一度あの子を奪われている。一度目は諦めたけど、二度目は諦めない。もう、好きにはさせない」


―――二度目…。


「分かった…」


 アーロンはそれ以上何も言わなかった。

 自分が知らないだけで、キースとリンの間にも長い時間と絆がある。自分がリンを想う気持ちと形は違っても、重さは何も変わらない。


「あの一番端の船は、個人の船だと思う」


 キースが指差す先に、小さな船が停まっている。


「行ってみよう」


 2人はそれに向かって歩き出した。


 その時ふとキースは誰かに背中を叩かれた。とっさに足を止めて振り返る。それに気付いたアーロンもつられるように振り返った。


「こんばんは」


 そこに立っている人物の姿に、2人とも目を見開いて固まった。

 長い黒髪を首の後ろで纏めている。つばのついた帽子に顔は半分隠れている。白いシャツに、ベージュ色のズボン、焦げ茶色のベルトとブーツ。立派な剣。

 紫色の瞳――。


「えぇぇぇ!!!」


 アーロンが素っ頓狂な声を上げた。キースは声も出せずに凍り付いている。

 そこに居たのは、昼間別れを告げたはずのグレイス王女だった。


「待ってたの」

「ぬ、抜け出して来た?!?!」


 アーロンが慌てて問いかける。彼女は以前城を抜け出して王都の酒場に来た時と、変わらない格好だった。

 片手に持っている大きな皮の袋以外は――。


「とんでもない!」


 グレイスが目を丸くして反論する。


「ちゃんとお父様の許可をもらってきたわ」

「…国王、の…?」


 キースがやっと口を開く。何が起こっているのか、さっぱり理解できなかった。


「そうよ」


 グレイスがにっこり微笑んだ。


「あなたたちがアリステアで何をするのか、見届けたいって言ったの。条件付きだけど、許しが出たわ。絶対、手伝わないこと。どういう結果になっても、決着がついたら戻ること。期間は最大1ヶ月。それ以上戻ってこなかったら、貴方達に誘拐されたとして捜索隊を出すそうよ」

「…信じらんねぇ」


 アーロンは思わず呟いた。国の王女をたった1人で1ヵ月も旅させるなんて、国王として正気の沙汰とは思えなかった。


「お父様はなんだかんだ言いつつ、私には…甘いのよ。今頃後悔してるかもしれないけど」


 グレイスが目を伏せて、ふっと笑みを漏らす。そんな彼女をキースはただ黙って見つめていた。

 キースの横顔を見るアーロンの口元に、笑みが浮かぶ。


「俺、ちょっとあの船借りに行ってくるよ」


 船を親指で指しながらキースにそう告げる。彼から何の反応もない事に苦笑しつつ、アーロンは「待ってて」と言って去って行った。

 残された2人は、お互いを見つめたまま向き合って立っている。

 グレイスが穏やかに微笑んだ。


「連れて行って。少しの、間だけど」


 不意にキースの腕がグレイスを抱き寄せた。グレイスが目を丸くして、驚いたように声を上げる。


「キース…!」

「――なに?」

「1ヶ月で、戻るのよ…?」

「まさか」


 キースがふっと笑みを浮かべる。


「帰さないよ」


 グレイスは目を見張った。

 それ以上何も言わせないようにするかのように、グレイスの唇がキースの唇に塞がれる。強引に割り込みながら、キースの想いが熱となってグレイスに届く。 グレイスは目を閉じてそれを受け入れながら、キースの背中に手を回した。

 すがるように抱きしめる。二度と触れられないと思っていたその人に――。


 眩暈がしそうな深いキスを繰り返し、意識が遠のきかけた時、やっとキースはグレイスの唇を解放した。けれどもその腕はまだしっかりとグレイスを抱きしめている。


「きみが悪いんだ。大人しく諦めようと思ってたのに。悪いけど、もう無理だよ」


 はっきりとそう言ったキースの目をグレイスは瞬きをしながら見つめ返す。


「戻ってこなかったら、誘拐されたと判断するって言ってたわよ?」


 キースがクスッと笑った。


「俺とあいつが何しに行くのか知ってるだろ?アリステアの王女と一緒に、ローランドの王女も誘拐することにする」

「…冗談でしょ?」

「どうだろうね」


 キースの腕がグレイスの体を軽く持ち上げた。


「行こうか、とりあえず」


 キースの青い瞳が自分を見ている。グレイスはそれを見下ろしながら、ふっと微笑んだ。


「そうね、先の事は、先で考えましょう。とりあえず」


 2人は少しの間見つめあい、またそっと唇を重ね合った。



 静かな暗い夜の港で、王女と兵士が口付けを交わしている。けれどもそれは傍から見れば、ただの恋人同士だった。

 離れた場所から2人の姿を眺めながら、アーロンは穏やかな微笑みを浮かべていた。

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