二人の決意
その夜、アーロンは必死に頑張ったおかげでなんとか予定通りの時間に仕事を終えることができた。
キースは自分よりかなり早く終えてしまったらしい。バッシュには「結局手を借りただろ」と笑われてしまったが、とりあえず出来上がった資料には合格点を貰え、無事解放された。
さっさと着替えて帰途につく。リンはもう家で待っているはずだった。
家の建物に近づいた時、アーロンはふと違和感を覚えた。自分達の部屋の窓に灯りがともっていなかった。
リンはもうとっくに学校を終えているはずなのに。
「どうしたんだろう…」
独り言を呟きつつ、アーロンはとりあえず部屋へと向かった。
家に入ると、やはり思った通り明りはついていなかった。誰かが居る気配も無い。
アーロンは靴を脱ぎつつ、怪訝な顔で部屋の奥を覗いた。もしかしたら眠ってしまっているのかもしれない。そんなことを考えながら部屋に上がる。居間に入ると、ランプに灯りをともした。
居間も、寝室も、風呂場も、家中を探したが、リンの姿は無い。
アーロンの胸の中には言い知れない焦燥が沸き上がってくる。
―――何か、あったんじゃ…。
そう思ったら居てもたってもいられなくなる。
キャリーが何か知っているかもしれない。いつも一緒に学校へ行って、一緒に帰ってくるのだから。聞きに行こうと決めて踵を返した時、ふとアーロンは足を止めた。その目が机の上の白い紙に釘付けとなった。
折りたたんで置いてある紙には、何かが書いてある。
近づくにつれ、紙に書いてある文字の形がはっきりと見えてくる。
その字を認識した瞬間、アーロンの体の中でドクンと大きな音が響いた。
『アーロンへ』
見慣れたリンの字が、そこにあった。
静かな部屋の中、そっとその紙を手に取る。何か用事ができたんだ。だから手紙を残して帰ったんだ。まるで言い聞かせるように内心で呟きながら紙を開く。
リンから手紙をもらうのは初めてだった。
『アーロンへ
お帰りなさい。お仕事お疲れ様です。今日は家で待ってるって約束したのに、ちゃんとお迎えできなくてごめんなさい。
実は、突然のことで驚かせてしまうと思うのだけれど、私はこれから本当の自分の家へと帰ることになりました。
アーロンには今までずっと私の家のこと、何も話してなかったから、本当の家なんて言われても何処だろうって思うよね。
私の本当の名前は、リンティアっていいます。リンティア・メイル・アリステア。
アリステア王国の第一王女です』
「――え…?」
誰も居ない部屋で、思わず声を洩らした。
手紙を読むアーロンの瞳が硬直する。心臓の音が大きくなり、体に、頭に、全身に響く。
―――アリステア王国の第一王女…?
「まさか、そんな…」
可笑しくもないのに、乾いた笑い声を洩らした。
何を言っているのか分からない。全く理解できない。書いてあることは分かるけど、頭が受け付けない。
暫く茫然と宙を見詰めていたアーロンの目は、やがて我に返ったようにまた手紙に戻った。
手紙の続きには、まるで近くでリンが見ているように、『驚いたでしょ』と書いてあった。
『驚いたでしょ。本当は、これでも王女様なんです。
12歳の時に国王に逆らって、私は一度国を追放されました。このままもう二度と、アリステアには戻れないと思っていたけど、今日、国からお迎えが来たんです。
国王陛下は私のことを許してくれるそうです。皇太后様も、戻っておいでと言ってくれてるそうです。
皆私を待っていてくれてます。
だから、ごめんなさい。アーロンのお嫁さんには、なれません。
お父様が愛したアリステア王国は、私にとっても大事な国です。お父様やお母様に代わって私にできることがあるのかどうか分からないけど、でもまた祖国に戻れること、とても幸せに思います。
王族として、頑張って、アリステアの平和を護れたらいいな。
どうか、応援してください。
私のわがままを、許して下さい。
キースには、アーロンから伝えてもらっていいですか?さようならを言う時間が無さそうなので。
キースは心配するかもしれないけど、私はもう子供じゃないんだから、大丈夫だって言ってください。
アーロンとキースは、これからも、ローランド王国で頑張ってね。いつかアリステアとローランドが、仲良くなれる日がくるといいね。
2人の未来が、ずっとずっと幸せで満たされますように。
――リンより』
手紙を握ったまま、アーロンは弾かれたように駆け出した。
乱暴に家を飛び出す。鍵をかけることも忘れ、ただ夢中で夜の中へと走って行った。
◆
夕食を食べようとしていたローラとキャリーは、乱暴に家の扉を叩く音でビクリと体を震わせた。
二人して目を見張ってそれを見詰める。不意に扉の向こうから、「ローラ!」と呼ぶ声が聞こえてきた。
「アーロン!」
その声を確認して、ローラは驚いたように立ち上がった。間違いなくアーロンの声だった。
「どうしたんだろう」
ただならぬ様子を怪訝に思いながら立ち上がる。何故かキャリーも不安気な顔で、ローラについてきた。
扉を開けると、思ったとおりアーロンが立っていた。走ってきたのだろうか。肩で息をしている。その深刻な色の瞳がローラを通り越し、キャリーの姿を捉えた。
「リンを…」
息を弾ませながら、アーロンが口を開いた。
「リンを、知らない…?」
アーロンの言葉にキャリーが目を見張る。ローラは不思議そうに「リンちゃん…?」と問いかけた。
不意にキャリーがローラの前に進み出た。
「リン、居ないの?!――今朝学校に変な男の人が2人来て、リンのこと呼び止めたの。私、ずっと気になってたんだけど…」
アーロンが目を見開く。
「それで?!リンは?!」
アーロンの勢いに少し戸惑いつつ、キャリーは「”先に行ってて”って言われたから…」と答えた。
「リン、その後学校に来なかったの。その人達、リンの前で跪いたりしてて、リンもなんだか様子がおかしくて…」
キャリーはそこまで言うと、何かを思いついたように言葉を切った。
「そういえば、”リンティア様”って呼んでた…」
アーロンの目が凍りついたように固まった。手紙に書いてあった一文が甦る。
『今日、国からお迎えが来たんです』
「…ありがとう」
アーロンは不安気に自分を見遣るキャリーとローラに背を向けると、また猛然と駆け出して行った。
◆
食事を終えて部屋に戻りながら、キースはリンの部屋の前を通った。
当然まだ帰っていないだろう。あまり遅くならないといいけど。そんなことを考えながら廊下を歩く。
やがて自分の部屋の前に立ち、そのドアのノブに手をかけた。
「――キース!!」
突然、切羽詰まった声で名前を呼ばれ、キースは驚きながら振り返った。そしてその視線の先に居る男の姿に、また改めて驚く。
「アーロン…」
何故こんな所に居るのか。今2人で会っているはずなのに。
息を切らすアーロンの乱れた赤い髪が、額に張り付いている。そこから伝う汗が、彼の焦燥を物語っていた。
「…どうした?」
自ずと表情を引き締め、キースは問いかけた。
「リンは…?」
「…え?」
「――リンの部屋は?!」
その問いに、キースは目を眇める。
「一緒じゃないのか?」
「一緒じゃない!部屋はどこだよ!!」
「…こっちだ」
聞きたいことはあったが、アーロンにそれを説明する余裕は無さそうに思えた。とりあえず誘導すると、後から付いてくる。リンの部屋の前に2人で立つと、キースがそのドアを叩いた。
けれども返事は無い。
キースは怪訝な顔でアーロンを振り返った。
「…居ないけど?」
アーロンの目が茫然とドアを映している。
そしてやがてゆっくりと動いた。キースの体をどけるようにして、ドアの前に行く。そのノブに手をかけ、部屋を開けた。
鍵はかかっておらず、抵抗無く開く。誰も居ない部屋の中に、アーロンはゆっくりと入って行った。
キースは呼び止めることもできずその背中を見ていたが、やがて自分もついて入った。
部屋には綺麗に整えられたベッドが一つ。小さな机と椅子が一つずつ。窓辺には、小さな鉢植えが置かれている。
やはり誰も居ない。
アーロンはその部屋の真ん中で、ただ立っていた。暗闇の中、背を向けて。
「…アーロン、どうした?」
キースの声に、アーロンがゆっくりと振り返る。先ほどの勢いとは別人のように、その目にはまるで生気が無かった。
何か重大なことがあったのだと、その表情だけで伝わってくる。キースの体が緊張で硬くなる。
「どう…した?」
改めて問いかけた声に、アーロンの右手が動いた。
キースに向かって、ゆっくりと何かを差し出す。アーロンの手の中で握りつぶされていたが、それは白い紙だった。
何も言わないアーロンの茶色い目がキースを見ている。廊下から差し込む光だけが彼の顔を微かに照らす。
何の表情もない、その顔を。
不気味な静寂が、ただ2人を包んだ。
キースはしばらく差し出された紙を見ていたが、やがてアーロンのもとへと歩み寄った。キースの手が紙を受け取る。アーロンは自然とそれから手を離し、その腕を力なく体の横に戻した。
その紙が手紙であることは、すぐに分かった。手の中で広げてみると、小さい綺麗な字が並んでいた。
わずかな明かりの中、それを読むキースの目の前でアーロンはただ静かに佇んでいた。
しばらく手紙に目を落としていたキースの目が、やがてゆっくりまたアーロンに戻った。
その目が凍りついたように固まっている。大きく見開かれ、青い瞳が震えるように揺れていた。
何も言葉は出なかった。お互い、ただしばらくお互いを映したまま、動かなかった。
「…王女だなんて…嘘だろ?」
苦しいほどの沈黙を、最初に破ったのはアーロンだった。
小さく呟いたその言葉に、キースは何も答えない。アーロンは力無く、笑みを洩らした。
「お前の…姪っ子だって…言ったじゃん…」
苦しい息を吐き出すように、ぽつりぽつりとアーロンが呟く。彼のこめかみから伝う汗が、まるで涙のように頬を流れ、落ちていく。力の無いその目は、縋るようにキースに向けられていた。
キースはゆっくりと目を伏せた。
「嘘じゃない…」
その声はまるで独り言のように微かに洩れただけだった。けれども暗い部屋の中、妙にはっきり響いてアーロンの耳に届く。
「俺の姉は、前国王の妃の1人だった…」
キースの言葉に、アーロンはまた凍りついたように固まった。呼吸すら止まったかのように、息も漏らさない。
「リンティアは…もう居ないのか…?」
聞くまでもないことと知りつつ、キースは問いかけた。
アリステアからの迎えが…。
予想もしていないことだった。なぜ生きていると分かったのか。なぜこの場所が分かったのか。
アーロンは何も答えない。けれどもその目が全てを物語っている。
あの子は、もう居ない――。
部屋はまた静寂に包まれた。暗闇の中向き合いながら、お互いその目は何も映していなかった。
まるで時が止まったように、ただ立ち尽くす。
「…そっか…」
不意にアーロンが小さく呟いた。全身を虚脱感に襲われ、その場に膝をつく。冷たい床が熱くなっていた体を芯から冷していくのを感じながら、アーロンは胸の奥に溜まっていた息を大きく吐き出した。
『また祖国に戻れること、とても幸せに思います』
「そう、か…」
目の前に立つキースは微動だにしない。そんな彼の気配を感じながら、アーロンはふっと笑みを洩らした。
「帰る家が…本当の家が、あの子にはあったんだ…」
お互い1人なのだと、勝手にそう思っていた。けれどもリンの口から、そう聞いたことは一度も無かったことを思い出す。
「帰れなかっただけなんだ…。本当は、帰りたかったんだ…」
自分に言い聞かせるように、アーロンは呟いた。
「なら、良かった…」
―――”良かった”
なんて白々しい言葉だろうと思わずにいられない。我ながら可笑しくて笑えてくる。もう立ち上がる気力も、無いくせに…。
「…冗談じゃない」
頭の上から、不意にキースの声が落ちてきた。
アーロンの目がその声に反応するように、キースを振り仰いだ。キースは独り言のように、苦しげに呟く。
「あんなところに戻って、幸せになれるはずがない。あんなところに、戻りたいはずがない…」
「あんな…ところ…?」
力なく問いかけたアーロンの声は掠れていた。
「父親も母親も居ないんだ。”国王陛下が許してくれる”?”皇太后が戻っておいでと言っている”?――冗談じゃない!!」
キースが不意に声を荒げた。その叫びに、抑えきれない感情が溢れ出す。
そんな彼を見たのは初めてで、アーロンはただ目を見張って絶句する。
キースが片手を髪に潜らせる。どうにもならない自分を、その手で抑え付けようとするように。
「あの子をゴンドールに置き去りにしたのは、その国王だ!!俺の姉を手に入れたいがために、邪魔なあの子を流刑にした!姉はそれを知って、絶望して命を断った!あの子には、もう誰も居ないんだ…!!」
アーロンの目は凍りついたようにキースを映している。
頭の中に、突然記憶が甦った。ゴンドールに行く直前、アリステアの王女が処刑となったと聞かされた。その母親とともに…。
「流刑…」
忘れていた疑問。初めてリンに会った時、彼女はたった1人でゴンドールに居たのだった。
たった、1人で――。
考えるまでもないことだった。リンがあの場で生きていられたのは、奇跡だった。誰かに連れて来られたなら、目的は1つだった。
殺す、ため…。
「逆らうことなんてできないんだ。王族といっても、しょせんは側室の娘なんだから…。この手紙に、あの子の本当の気持ちなんて書いてない…」
言いながら、キースが手に持っている手紙をアーロンの顔の前に差し出した。
「最後の1文以外は…」
『2人の未来が、ずっとずっと幸せで満たされますように』
胸の奥から突き上げるものを堪え、アーロンは顔を伏せた。遣り切れない想いを、噛み潰すように歯を食いしばる。
―――お前の、幸せは…?
―――リン、お前の幸せは…?
息が苦しい。自分を苛むこの想いが、怒りなのか悲しみなのか分からない。
「キース…」
振り絞るように、アーロンは目の前の彼を呼んだ。
「…なに?」
感情の無い声が、静かに応える。重い暗闇の中、2人の声だけが部屋に響く。
「俺、アリステアに行く」
アーロンの言葉に、また静寂が戻る。
俯いたアーロンの目に、キースの姿は映らない。
愚かなことを言っているのは知っている。アリステアの王族から王女を奪うための大義名分など何も無いことも。
それでも何もかも忘れて生きることなど、絶対にできない。
あの子が幸せになれないと知りながら…。
「分かった」
キースが静かに呟いた。
「――俺も行く」




