幸せの絵
学校から離れ、ぼんやり歩いたリンの足は、自然にアーロンと暮らした部屋へと辿り着いていた。
今夜2人で会うはずの場所…。
まだ夜までには沢山時間がある。でもここで待とうと思った。もう最後なら、少しでも長くここに居たい。”幸せ”を絵に描いたら、自然と浮かび上がるような、そんな場所だから。
いつものように鍵を開けて、中に入る。朝の光が差し込む部屋が自分を迎えてくれる。
数日離れただけなのに、なんだか懐かしい。
優しい温もりの残る部屋―――。
リンは玄関に立ったまま、しばらくただその光景を眺めていた。
初めてこの部屋を見た時には、自分専用の部屋だと思った。
アリステア城での自分の部屋より、小さかったから。
”俺らの部屋はここだけ。他の部屋は他の人が借りてるんだよ。他人の家、勝手に開けるな!!”
お隣の家を開けようとして、アーロンに怒られた。その時のことを思い出して、リンは1人クスッと笑った。
あの時は意味が分からなかったけど、今なら分かる。ずいぶんおかしな子だと思ったに違いない。
靴を脱いで家に入る。ここで毎日アーロンを出迎えた。
”お帰りなさい”と言う誰かが居るのが、なんだかとても楽しかった。
片手で壁に触れながら、居間へと向かって歩く。
ここを歩きながら、アーロンはその日あったことを色々話してくれた。そういえばキースの話も何度も聞いていた。”気取ってる”とか”偉そう”だとか。あの時はまさかそれがキースのことだなんて、思いもしなかったけど。
居間に着くと、こちらに背をむけて長椅子が置いてある。それもいつもの景色。
アーロンにとって、それは椅子というよりベッドだった。すぐ横になっちゃって、気付いたら眠っちゃって。起すのを諦めて、そのまま毛布をかけて置いといたこともあった。
そんなことを思い出すとまた笑みがこぼれる。リンはその目をゆっくり巡らせた。
奥に行くと、炊事場。
一緒に並んで何度も料理した。最初は野菜の剥き方も知らなかったけど。
”野菜の皮むいたことない奴が、料理ができるとか言うな”
そんなこと言って怒られたっけ。あれももっともな言葉だった。
でも初めて夕食を1人で作ってみせたときには、大袈裟なくらい驚いて、そしていっぱい褒めてくれた。
”すげぇ、リン!うまい!天才!”
”そんなこと言って、また作らせようとしてるんだ…”
”あ、バレた?”
記憶の中のアーロンが、楽しそうに笑顔になった。
いつしかまた、自然に涙がこぼれていた。
どこを見ても、どこに触れても、止まらない。
楽しかった思い出が。優しい記憶が。幸せに包まれた、毎日が――。
頬を伝う涙が、雫となって床へ落ちる。
リンの足はゆっくりと部屋に向かった。
2人の部屋へ。
そこに入った瞬間、リンは堪えきれずその場に崩れ落ちた。
胸の奥から込み上げる何かに体中が支配される。もう立っていられなかった。
震えながら、叫ぶように、リンはただ声を上げて泣いた。誰も居ない部屋に、その声だけが哀しく響いて消えていく。
顔が見たい、声が聞きたい。最後ならば、一目でも。
でも無理だ。とても会えない。
会ってしまえば、泣いてしまうから。泣いてすがって、助けて欲しいと叫んでしまうから。離れたくないと、帰りたくないと、言ってしまうから。
―――アーロン…。
あなたに向かって、”さようなら”なんて、絶対に言えない――。
◆
「――おい、アーロン!!」
上級兵士会議が終わって部屋を出ようとした時、アーロンはバッシュ隊長に呼び止められた。
彼の用事を想像して思わず顔をしかめる。会議の後呼び止められる時には、たいてい飛び込みの仕事が入るのだ。
今日は早く帰りたいのに。
「なんだその顔は」
アーロンの分かりやすいしかめっ面に、バッシュが文句を言う。
彼は書類を数枚手にしていた。
それが目に入った瞬間、アーロンは呼び止められた理由に思い至った。
「お先に」
なんとなく一緒に足を止めていたキースが歩き出そうとする。
とっさにその腕を掴んで引き止めた。キースが顔をしかめて振り返る。
「――なんだ!」
「手伝って!」
「嫌だ!」
アーロンの言葉は予想出来ていたらしい。キースは即座にそう答えた。
バッシュはそんな2人の様子を楽しそうに笑みを浮かべながら眺めている。
バッシュ隊長の手の中にある書類は、予算会議に使われる予算案資料を作るための、各備品の購入記録だった。相変わらずその資料作成の仕事は下っ端の雑用である。
また苦手な計算をやるハメになる。それも最近は”持ち帰り禁止”となってしまったので、終わるまで帰れない。
キースは腕を掴むアーロンの手を振り払おうと試みつつ「離せ!」と怒鳴った。
「まさか忘れてるんじゃないだろうな!前回は俺が1人で作ったんだ!お前が、”次は俺が全部やるから、今回はよろしく”とか言って丸投げしたから!」
「次はやるから!1人でやるから!今日だけ!!お願いしますっ!!」
アーロンの切実な叫びに、キースの動きが止まる。
不機嫌そうに睨みつつ、「ふぅん」と呟いた。
「今日だけ、ね」
意味深なその言葉にアーロンは思わず固まった。
リンがキースに嘘を言って出てくると言っていたことを思い出し、ぱっと掴んでいた腕を離す。そして諦めたようにバッシュに向き直った。
バッシュは「頼んだぞ」と言って持っていた書類をアーロンに手渡した。それを受け取って、はぁっと重いため息を洩らす。
「今日中な」
バッシュはそう言って、キースとアーロンの前を通りすぎて去っていく。
アーロンは書類の枚数を数えつつ、またため息をついた。
その時ふと目の前にキースの手が差し出された。その手を見て、顔を上げる。
不思議そうな顔のアーロンに、キースはぶっきらぼうに「半分」と言った。
「手伝ってくれるの?!」
「今回だけだ。次回は絶対、何がなんでも手伝わない」
「ありがとぉ~~!!」
気が変わらないうちにと、アーロンはいそいそと書類を半分手渡した。キースはそれを受け取って、やれやれとため息をついた。
「…別に、お前のためじゃない」
背を向けながら小さく呟いた言葉に、アーロンは思わず固まった。
キースは先にさっさと歩いて去っていく。
その背中を見送りながら、アーロンはふっと笑みを洩らした。
◆
出航の準備を整えさせつつ、カールは港で王女を待っていた。
”夜までには戻る”と言っていた。まだ日は高い。王女の行き先は予想がついていた。あの商人が言っていた、男の所。
最後の別れを言うのだろう。
残酷なことをしていることは自覚している。だからせめて、いつまでも待つつもりだった。
きっと戻ってきて下さると信じて。
カールがふっとため息をつきながら、その目を遠くへ向ける。
何気なく見たその先に、カールは少女の姿を見た。
思わず目を見張る。何度もその姿を確認するように瞬きを繰り返した。
「リンティア様…」
こちらに歩いてくるのはリンティア王女だった。
ゆっくり歩く王女の顔に表情は無く、凛としたその顔に今朝の涙の痕は見えない。
―――こんなに早く、戻ってきてくださるとは…。
感激に胸が熱くなる。
その想いに突き動かされるように、カールは近づいてくる王女に向かって、ゆっくり、深く頭を下げていた。




