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ゴンドールの大陸  作者: 芹沢 まの
第三章
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交わらない想い

 ローラは一日の仕事を終えると、いつもより急いで着替えを済ませた。

 今日は後半、どうやって仕事をしたかよく覚えていない。頭の中はキースとの約束のことで一杯だった。

 期待と不安の入り混じった複雑な想いがローラの胸を駆け巡る。


―――何だろう、話って…。


 とても予想がつかない。”もう付きまとわないで”と言われるのかもしれない。いい加減に、諦めて欲しいと。

 考えれば考えるほど悪い方へ思考が走ってしまう。ローラはそれを追い出そうと頭を振った。考えても仕方がない。行くしかないのだ。

 ローラは覚悟を決めて更衣室を出ると、寄宿舎の出口へと急いだ。



 キースはすでにそこで待っていてくれた。壁によりかかるようにして立っていたが、ローラに気付いてそこから離れる。


「お待たせして、すみません…」


 謝るローラに「呼び出したのは俺だよ」と言って微笑んだ。そんな笑顔に、ローラの胸はまた高鳴った。

 キースに連れられるままに、ローラは城を出た。隣を歩く彼は、何も語らなかった。

 付いて歩きながら、彼の存在を感じる。こうして仕事場から離れて2人で歩くのは二度目だった。あの夢のような幸せな夜が甦って、胸を支配していた苦しいほどの不安は、いつしか穏やかな気持ちへとすり替わっていく。

 こんな時間が、ずっと続いてくれればいいのに…。


 やがてキースは王都に入る前の橋の上で足を止めた。欄干に手をかけ、川に向かって立つ。ローラも彼に合わせて足を止めた。


「ローラ」


 キースが口を開く。


「はい」


 ”話”が始まる予感に、ローラの体は緊張で強張った。自然と胸の鼓動が速くなる。

 そんなローラと相反するキースの落ち着いた声が、耳に届いた。


「誰にも言うつもりはなかったことを、君に話すよ。君はそれを聞く権利があるから」


 ドクンと心臓が大きな音を立てた。忘れかけていた不安な想いがまた急激に押し寄せて、喉が塞がる。


―――誰にも言うつもりはなかったこと…。


 目を伏せたまま、キースは静かに口を開いた。


「俺には、どうしても忘れられない人が居る」


 水音だけが響く橋の上で、その小さな声ははっきりとローラの耳へ届いた。

 息が止まる。ローラの体も、声も、心も、一瞬のうちに凍りついた。

 動かないローラの瞳に映ったキースが、目を伏せたまま柔らかく微笑した。


「ずいぶん前に、とっくに振られてるんだけどね…」


 独り言のように呟くキースの言葉を聞きながら、ローラは声を出すことが出来なかった。


―――忘れられない、女性(ひと)…。


 今までどれだけ拒まれても、絶望せずに済んだのは、きっと彼の心に、自分だけでなく、他の誰も棲んでいないと思っていたから。特別な誰かは居ないと思っていたから。

 どうしてそう、思い込んでいたのだろう…。


「ずっと前から長いこと、俺の中には常に彼女が居たんだ。けれども手に入らないことは知っていた。だからいつか消える存在だと思っていた」


 淡々と語るキースの瞳は、どこか遠くを映している。ローラではない誰かの面影を、そこに探すかのように。


「でも…」


 言葉を切って、少しの間キースは沈黙した。川のせせらぎが、穏やかに優しく二人の間を埋める。

 いつになく近いはずの彼との距離が、本当は少しも近づいてなどいないということを、ローラに思い知らせるように。

 

 キースは目を閉じ、軽く吐息を洩らした。


「だめなんだ。消えてくれない。手に入らなくても、それでもいい。俺は彼女を……愛してるんだ」


 キースが想いを吐き切ると、2人の間には重い沈黙が流れた。

 ふとキースの瞳がローラに戻る。綺麗な青い瞳。けれども、その目に自分は映らない。――永遠に。


「私…」


 ローラは懸命に声を絞り出した。泣いてはいけないと言い聞かせながら、ぎこちない笑顔を張り付ける。


「私、どこかでずっと思ってました。キース様は誰にも本気になったり、しないって。だから、誰のものにもならないって…」


それなのに…。

 何を見ていたんだろうと思った。長い間側で彼を見ていたはずなのに、何も気付けなかった。

 彼は誰も愛さないと決めつけて…。それはきっと単なる自分の願望だったに違いなかったのだけれど。

 どうしても自分のものにならないのならば、いっそ誰も愛さないで欲しいと、身勝手なことを願ったのだ。


「俺もそう思ってた」


 キースはそう言って苦笑した。


「初めてのことで、ずいぶん戸惑った。彼女を前にすると自分を見失って、何度も情けない姿を見せてる。自分で自分が嫌になる」


 ”自分を見失って…”


 キースのそんな姿は一度も見たことがない。とても想像がつかない。

 それこそが答えなのかもしれないと、ローラは自嘲的な笑みを洩らした。


「私もそんな貴方を、見てみたかったです…」


 何故笑ったり出来るのだろうと、不思議に思った。こんなにも絶望しているのに。

 ”もう付きまとわないで”と言われた方がずっと良かった。それならまたどうしようもないほど泣いて、それでもまた頑張ろうって思えたかもしれないのに。

 キースの目がローラを見ている。惹かれて止まない青い瞳。こうして見上げるのも最後なのかもしれない。


「キスして、いいですか…?」


 考えるより先に、言葉が口から零れていた。その瞳に引き出されたかのように。キースは何も答えなかった。


「それで、最後にしますから…」


 縋るように訴えたローラに、キースは小さく「いいよ」と呟いた。

 その言葉に、堪えきれず涙が湧いてきた。彼の顔が霞んで揺れる。それでも一歩近寄ると、手をのばしてその頬に触れた。

 ずっとずっと好きだった人…。そんなふうに触れることを、何度も夢見た。


 こんな形じゃなくて…。


 ローラはキースの肩に手をかけ、背伸びをした。目を閉じて、そっと顔を寄せる。キースもそれに合わせるように目を閉じた。

 唇が軽く触れ合うと、暖かい温もりが伝わった。その瞬間、ローラの頬を涙が零れ落ちて行った。

 唇を離すと、ローラはキースの首に腕をまわして彼を抱きしめた。その肩に顔を埋め、嗚咽を噛み殺す。

 キースの腕は抱き返してはくれないけれど、ローラを引き剥がすこともしなかった。ただ黙って、そこに立っていてくれた。


「キース様…」

「…なに?」


 耳元で、キースの囁く声が聞こえる。


「好きでもない子に触らせるのは、これで最後にしてください…」


 その言葉に、キースは軽く吹き出す。ローラは彼を抱きしめたまま訴えた。


「そうしないと、また私部屋に行きますから。もう追い返そうとしても、帰りませんから」

「……分かったよ」


 キースの声に、ローラは目を閉じた。このまま時間が止まればいいのにと、叶わぬことを願いながら。


「好きです」


 想いが溢れて、自然に言葉になる。


「貴方に出会えて、よかった…」


 いまは苦しいけど。とても苦しいけど。

 こんなに誰かを好きになれたのは幸せなことだったと、いつかきっと想う日が来るから。


「ありがとう、ローラ」


 キースの声を閉じ込めるように目を閉じたら、また涙が押し出されて彼の服を濡らした。

 一生好きなんだろうと思った。一生忘れることはないだろう。

 いつか他の誰かをまた好きになっても、彼のことはきっと忘れられない。彼の愛する誰かが、同じように彼の中に棲み続けるように。


 川の流水音が二人を包む。その優しい音色を聞きながら、ローラはしばらく身動きもせず、ただキースの体を抱きしめていた。

 

 ◆


 ゴンドールでの仕事帰り、アーロンは陸へ戻る船の上で海に沈んでいく夕日を眺めていた。

 真っ赤に焼けた日が水平線に消えていく。暖かい風が頬や髪を撫で、潮の香りが体中を包む。


「兵士の仕事は順調なのか?」


 隣に居るバルジーが、不意に問いかけてきた。アーロンは彼の方には目を向けずに、「おかげさまで」と答えた。


「それはなによりで」


 バルジーは肩を竦め、気の無い返事を返した。


「アリステアは、今どうなってる?」


 アーロンはふと問いを返した。そんなことが気になったのは、長年住んでいた祖国の話題が先ほど出たせいだろうか。特別な愛着があるというわけではないが、もう二度と戻らないと思うと少し寂しい気もする。

 アリステアで一緒に飲んだり遊んだりした兵士仲間達、皆どうしているだろう。

 アーロンが居なくなって誰かが困るということは無い筈だが、心配はしてくれたかもしれない。

 同室だったカッシュとか…。


「変わりねぇよ。なんか税金が上がるかもなんて噂あるらしいけど、俺関係ねぇし。まぁ商売しづらくなったら困るけどさ」


 税金が上がる…。

 そういう噂の出所はたいてい城内だ。城で働く者達の給料が下がったのかもしれない。

 国王が変わったことで、政治の方針も変わって行っているのだろうか。


「ちょくちょく行ってんの?」

「いや、たまにだよ。3,4ヶ月に1回くらいかね」

「ふぅん…」


 アーロンはそれ以上は問わずに、黙って海を見つめていた。

 海を赤く染める夕日を受け、彼の赤毛も燃えるように輝いていた。

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