交わらない想い
ローラは一日の仕事を終えると、いつもより急いで着替えを済ませた。
今日は後半、どうやって仕事をしたかよく覚えていない。頭の中はキースとの約束のことで一杯だった。
期待と不安の入り混じった複雑な想いがローラの胸を駆け巡る。
―――何だろう、話って…。
とても予想がつかない。”もう付きまとわないで”と言われるのかもしれない。いい加減に、諦めて欲しいと。
考えれば考えるほど悪い方へ思考が走ってしまう。ローラはそれを追い出そうと頭を振った。考えても仕方がない。行くしかないのだ。
ローラは覚悟を決めて更衣室を出ると、寄宿舎の出口へと急いだ。
キースはすでにそこで待っていてくれた。壁によりかかるようにして立っていたが、ローラに気付いてそこから離れる。
「お待たせして、すみません…」
謝るローラに「呼び出したのは俺だよ」と言って微笑んだ。そんな笑顔に、ローラの胸はまた高鳴った。
キースに連れられるままに、ローラは城を出た。隣を歩く彼は、何も語らなかった。
付いて歩きながら、彼の存在を感じる。こうして仕事場から離れて2人で歩くのは二度目だった。あの夢のような幸せな夜が甦って、胸を支配していた苦しいほどの不安は、いつしか穏やかな気持ちへとすり替わっていく。
こんな時間が、ずっと続いてくれればいいのに…。
やがてキースは王都に入る前の橋の上で足を止めた。欄干に手をかけ、川に向かって立つ。ローラも彼に合わせて足を止めた。
「ローラ」
キースが口を開く。
「はい」
”話”が始まる予感に、ローラの体は緊張で強張った。自然と胸の鼓動が速くなる。
そんなローラと相反するキースの落ち着いた声が、耳に届いた。
「誰にも言うつもりはなかったことを、君に話すよ。君はそれを聞く権利があるから」
ドクンと心臓が大きな音を立てた。忘れかけていた不安な想いがまた急激に押し寄せて、喉が塞がる。
―――誰にも言うつもりはなかったこと…。
目を伏せたまま、キースは静かに口を開いた。
「俺には、どうしても忘れられない人が居る」
水音だけが響く橋の上で、その小さな声ははっきりとローラの耳へ届いた。
息が止まる。ローラの体も、声も、心も、一瞬のうちに凍りついた。
動かないローラの瞳に映ったキースが、目を伏せたまま柔らかく微笑した。
「ずいぶん前に、とっくに振られてるんだけどね…」
独り言のように呟くキースの言葉を聞きながら、ローラは声を出すことが出来なかった。
―――忘れられない、女性…。
今までどれだけ拒まれても、絶望せずに済んだのは、きっと彼の心に、自分だけでなく、他の誰も棲んでいないと思っていたから。特別な誰かは居ないと思っていたから。
どうしてそう、思い込んでいたのだろう…。
「ずっと前から長いこと、俺の中には常に彼女が居たんだ。けれども手に入らないことは知っていた。だからいつか消える存在だと思っていた」
淡々と語るキースの瞳は、どこか遠くを映している。ローラではない誰かの面影を、そこに探すかのように。
「でも…」
言葉を切って、少しの間キースは沈黙した。川のせせらぎが、穏やかに優しく二人の間を埋める。
いつになく近いはずの彼との距離が、本当は少しも近づいてなどいないということを、ローラに思い知らせるように。
キースは目を閉じ、軽く吐息を洩らした。
「だめなんだ。消えてくれない。手に入らなくても、それでもいい。俺は彼女を……愛してるんだ」
キースが想いを吐き切ると、2人の間には重い沈黙が流れた。
ふとキースの瞳がローラに戻る。綺麗な青い瞳。けれども、その目に自分は映らない。――永遠に。
「私…」
ローラは懸命に声を絞り出した。泣いてはいけないと言い聞かせながら、ぎこちない笑顔を張り付ける。
「私、どこかでずっと思ってました。キース様は誰にも本気になったり、しないって。だから、誰のものにもならないって…」
それなのに…。
何を見ていたんだろうと思った。長い間側で彼を見ていたはずなのに、何も気付けなかった。
彼は誰も愛さないと決めつけて…。それはきっと単なる自分の願望だったに違いなかったのだけれど。
どうしても自分のものにならないのならば、いっそ誰も愛さないで欲しいと、身勝手なことを願ったのだ。
「俺もそう思ってた」
キースはそう言って苦笑した。
「初めてのことで、ずいぶん戸惑った。彼女を前にすると自分を見失って、何度も情けない姿を見せてる。自分で自分が嫌になる」
”自分を見失って…”
キースのそんな姿は一度も見たことがない。とても想像がつかない。
それこそが答えなのかもしれないと、ローラは自嘲的な笑みを洩らした。
「私もそんな貴方を、見てみたかったです…」
何故笑ったり出来るのだろうと、不思議に思った。こんなにも絶望しているのに。
”もう付きまとわないで”と言われた方がずっと良かった。それならまたどうしようもないほど泣いて、それでもまた頑張ろうって思えたかもしれないのに。
キースの目がローラを見ている。惹かれて止まない青い瞳。こうして見上げるのも最後なのかもしれない。
「キスして、いいですか…?」
考えるより先に、言葉が口から零れていた。その瞳に引き出されたかのように。キースは何も答えなかった。
「それで、最後にしますから…」
縋るように訴えたローラに、キースは小さく「いいよ」と呟いた。
その言葉に、堪えきれず涙が湧いてきた。彼の顔が霞んで揺れる。それでも一歩近寄ると、手をのばしてその頬に触れた。
ずっとずっと好きだった人…。そんなふうに触れることを、何度も夢見た。
こんな形じゃなくて…。
ローラはキースの肩に手をかけ、背伸びをした。目を閉じて、そっと顔を寄せる。キースもそれに合わせるように目を閉じた。
唇が軽く触れ合うと、暖かい温もりが伝わった。その瞬間、ローラの頬を涙が零れ落ちて行った。
唇を離すと、ローラはキースの首に腕をまわして彼を抱きしめた。その肩に顔を埋め、嗚咽を噛み殺す。
キースの腕は抱き返してはくれないけれど、ローラを引き剥がすこともしなかった。ただ黙って、そこに立っていてくれた。
「キース様…」
「…なに?」
耳元で、キースの囁く声が聞こえる。
「好きでもない子に触らせるのは、これで最後にしてください…」
その言葉に、キースは軽く吹き出す。ローラは彼を抱きしめたまま訴えた。
「そうしないと、また私部屋に行きますから。もう追い返そうとしても、帰りませんから」
「……分かったよ」
キースの声に、ローラは目を閉じた。このまま時間が止まればいいのにと、叶わぬことを願いながら。
「好きです」
想いが溢れて、自然に言葉になる。
「貴方に出会えて、よかった…」
いまは苦しいけど。とても苦しいけど。
こんなに誰かを好きになれたのは幸せなことだったと、いつかきっと想う日が来るから。
「ありがとう、ローラ」
キースの声を閉じ込めるように目を閉じたら、また涙が押し出されて彼の服を濡らした。
一生好きなんだろうと思った。一生忘れることはないだろう。
いつか他の誰かをまた好きになっても、彼のことはきっと忘れられない。彼の愛する誰かが、同じように彼の中に棲み続けるように。
川の流水音が二人を包む。その優しい音色を聞きながら、ローラはしばらく身動きもせず、ただキースの体を抱きしめていた。
◆
ゴンドールでの仕事帰り、アーロンは陸へ戻る船の上で海に沈んでいく夕日を眺めていた。
真っ赤に焼けた日が水平線に消えていく。暖かい風が頬や髪を撫で、潮の香りが体中を包む。
「兵士の仕事は順調なのか?」
隣に居るバルジーが、不意に問いかけてきた。アーロンは彼の方には目を向けずに、「おかげさまで」と答えた。
「それはなによりで」
バルジーは肩を竦め、気の無い返事を返した。
「アリステアは、今どうなってる?」
アーロンはふと問いを返した。そんなことが気になったのは、長年住んでいた祖国の話題が先ほど出たせいだろうか。特別な愛着があるというわけではないが、もう二度と戻らないと思うと少し寂しい気もする。
アリステアで一緒に飲んだり遊んだりした兵士仲間達、皆どうしているだろう。
アーロンが居なくなって誰かが困るということは無い筈だが、心配はしてくれたかもしれない。
同室だったカッシュとか…。
「変わりねぇよ。なんか税金が上がるかもなんて噂あるらしいけど、俺関係ねぇし。まぁ商売しづらくなったら困るけどさ」
税金が上がる…。
そういう噂の出所はたいてい城内だ。城で働く者達の給料が下がったのかもしれない。
国王が変わったことで、政治の方針も変わって行っているのだろうか。
「ちょくちょく行ってんの?」
「いや、たまにだよ。3,4ヶ月に1回くらいかね」
「ふぅん…」
アーロンはそれ以上は問わずに、黙って海を見つめていた。
海を赤く染める夕日を受け、彼の赤毛も燃えるように輝いていた。




