いつの日か
翌日、アーロンは逃げるように仕事へ出た。リンはいつものように見送ってくれたけど、その顔をまともに見ることができなかった。
無理をして笑顔をつくるリンを見ているのが辛かった。
自分で自分が恐ろしくなる。
リンが怖がっていたのは知っていた。抱きしめたその体が、震えていたのも感じていた。
それでもリンが嫌だと叫ぶまで、止める事ができなかった。
―――もう、これ以上は無理だ…。
歩きながら、何も目に映らない。何も耳に聞こえない。ただ体が覚えている道のりを、淡々と辿るだけだった。
◆
ローランド王城、兵士寄宿舎の外で洗濯物をひとつ干し、ローラはまたぼんやりと物思いに耽った。
そしてハッと我に返るとまた洗濯物に手をのばす。先ほどから、それの繰り返しだった。我ながら何をしているのかと呆れつつ、ふと気を抜くと心は楽しかった昨夜へと飛んでいく。
今まで何度もキースと一緒に食事をしたけど、当然ながらそれは寄宿舎の食堂で、一緒に外出したことなど一度も無かった。
それなのに昨夜は王都に食事に誘ってくれた。
デイジーから逃げるためだったのかもしれないけれど、信じられないくらい幸せだった。
2人だけで王都を歩いて、食事をして、少しだけお酒も飲んだ。いつものような他愛も無い話が、昨夜はなんだか特別に感じた。
火照った体でお店を出ると、夜の風が心地良くて、振り仰いだ空には満点の星が光っていた。
気がついたらキースも空を見上げていた。そんな横顔を見ていたら、なんだか切なくて、苦しくて…。
抱きついてしまいたかった。そうできたらいいのにと、思っていた。
―――本当に”危険”だな、私…。
思わず一人赤くなる。そしてまた思い出したように洗濯物を広げた。
「ローラ」
不意に後ろから声をかけられ、ローラは手を止めて振り返った。
そこにはアーロンが立っていた。深刻そうな表情にローラは少し戸惑いつつ、「どうしたの?」と問いかける。
アーロンは言いにくそうに一度目を伏せたが、思い直して口を開いた。
「…頼みがあるんだ」
ローラは手にしていた洗濯物を籠に置くと、アーロンに向き直った。
「はい、なぁに?」
問いかけるローラにアーロンは困ったような顔で「仕事じゃないんだよ…」と言った。
アーロンから伝わるただならぬ空気に、ローラも自然と表情を引き締める。そして黙ったまま彼の言葉を待った。
「リンを、預かって欲しいんだ…」
「あぁ!」
アーロンの頼みに、ローラは張りつめた空気を消して破顔した。
「なんだ、そんなこと…もちろんいいわよ。喜んで!」
その頼みは初めてのことではなかった。
キャリーをそうしてもらうように、リンがローラの家に泊まりに来ることも今まで何度かあった。
ローラにとっては少しも難しい頼みではないが、アーロンはそれでもまだ険しい顔を変えようとしない。
ローラは不思議そうに「…どうしたの?」と問いかけた。
「何日になるか、分からないんだよ。リンが卒業するまで入れる寮を探そうと思ってて…。それが見つかって手続きが終わるまで…」
「…寮?」
目を丸くして聞き返す。
「リンちゃんを家から出すの?どうして??」
ローラの問いかけにアーロンは口を閉ざした。困ったように俯いたまま言葉が出ない。
2人の間にはしばらく沈黙が流れた。
「…いいわ」
不意にローラが口を開いた。
アーロンが顔を上げて彼女を見る。ローラはにっこりと微笑んでいた。
「分かった。任せておいて」
ローラの答えに、アーロンがやっと表情を緩める。どこか安堵の滲む笑顔だった。
「ありがとう。なるべく早く、寮を探すから…」
「そんな必要ないわよ。卒業まで、うちに居ればいいもの」
その言葉にアーロンは一瞬声を失い、直後に慌てて首を振った。
「そういうわけにはいかないよ!」
「どうして?大歓迎よ。キャリーだって喜ぶし、寮に1人で入るよりいいと思わない?」
「いや、それは…でも」
「アーロン」
困ったように口ごもるアーロンの言葉を遮って、ローラは一歩彼に近づくと、その手を両手で包むように握った。
そして真っ直ぐ彼の目を見つめる。
「私がそうしたいの。あなたの役に立ちたいの。私、今までどれだけあなたに救われたか分からない。こうやって何か返せる日が来るのを、ずっと待ってたのよ」
それはローラの切実な願いだった。
アーロンの目には戸惑いが滲む。背中を押すように、ローラは彼に語りかけた。
「…ね?そうさせて?」
ローラの真摯な瞳から伝わる想いが、アーロンの胸に広がる。心の奥にまで染み入ってくる。
自分のためにそうまで言ってくれる誰かが居ることを、この上なく幸せに思った。
「……ありがとう」
アーロンはその一言に全ての想いを託し、そっと目を閉じた。
◆
その夜、アーロンはリンに”話がある”と言って長椅子に座らせた。その隣に座り、翡翠色の瞳と向き合う。
リンはどこか不安気にアーロンの言葉を待っている。
彼の様子から、楽しい話ではないと察しているようだった。
その目を見ていると、胸が苦しくなる。誰よりも大事で、誰よりも愛しい人―――。
「リン」
アーロンは躊躇いつつ、口を開いた。
「お前は今日からローラの家に住むことになったから。学校を卒業するまで、そこから通って」
頭の中で何度も繰り返した言葉を一気に吐き出した。
リンが目を見開いて固まる。アーロンの言葉に衝撃を受けたのは明らかだった。
傷ついた瞳に、苦しい程の罪悪感が湧きあがる。それでも己を奮い起こし、アーロンは言葉を続けた。
「今から荷物まとめてローラの家に行くから」
リンの目が充血し、急速に涙が浮かぶ。胸の痛みを堪えながら、アーロンは無理やりな笑顔を作った。
「…泣くようなことじゃないよ」
「いや…」
リンはふるふると首を振った。その動きで涙が零れ落ちる。
「追い出さないで…。もう、困らせないから…。キスして欲しいとか、言わないから…」
必死の訴えに、アーロンの胸は苦しいほどに締め付けられた。他の誰が泣いていても、きっとこれ程辛くはならない。
「追い出すんじゃないよ…。ただ、今は一緒に暮らせないんだ」
「どうして…?」
リンが震える声で問いかける。
「私のこと、嫌いになった…?」
「違うって…」
アーロンは乾いた笑いを洩らした。
「そんなこと……有り得ない」
リンの涙が次から次へと頬を伝って落ちていく。目を逸らすことなく、アーロンは穏やかに語りかけた。
「逆なんだよ、リン。全く逆なんだよ…。もう妹としてなんて見れないんだよ。とっくに見れなくなってたんだ…」
言葉にならない想いが胸をしめつける。なんて言ったらいいのか分からない。
”好きだ”とか”愛してる”とか、そんな言葉では言い表せない。
この気持ちを、どうやって伝えたらいいのか分からない。
「私もだよ…」
リンが言った。
「お兄さんだなんて思ってないよ。…同じだよ?……それでも…だめなの?」
綺麗で真っ直ぐな瞳。
昨日、あんなことがあったのに。それでもまだ、そう言ってくれるんだ。そう思ったら、また胸が痛くなった。
もっと大人になれたらいい。こんなに純粋で綺麗な想いに、ちゃんと応えられるような…。
「ずっと離れるわけじゃないんだ」
アーロンは穏やかに微笑むと、そう言った。
「”兄妹”じゃなくて、”恋人”になるために離れるんだよ。いつか学校を卒業して、仕事について、その時まだリンの気持ちが変わってなかったら…」
アーロンはふと言葉を切った。
―――もしも、変わっていなかったら…。
リンは黙ってアーロンの言葉を待っている。その翡翠色の瞳を真っ直ぐ見詰め、アーロンは口を開いた。
「その時は…俺と、結婚して欲しい…」
用意もしてなかった言葉がこぼれ出た。けれども口にしたら、すんなりと心に落ちて行った。
―――あぁ、そうだ…。
恋人になりたいんじゃない。それではもう足りない。
いつかリンが大人になって、それでも自分を選んでくれたら…。
やっぱり、家族になりたいんだ。
「うん…」
リンが応える。また涙がこぼれてくる。けれどもその顔には、やっと穏やかな微笑みが広がった。眩しい程に綺麗な笑顔だった。
「絶対、変わらない…」
その言葉に、アーロンも微笑みを返す。
「いい男になって、待ってるよ」
リンはふるふると首を横に振った。そして両手を延ばして、アーロンの首に抱きついた。
「そのままでいい…」
耳元で聞こえた優しい声を、閉じ込めるように目を閉じる。
変われたらいい。心からそう思った。
何より大事なその温もりを、全て包み込んで護れるような、そんな男に――。




