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ゴンドールの大陸  作者: 芹沢 まの
第三章
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本当に欲しいもの

 翌朝のローランド王城寄宿舎では、いつものようにローラが忙しく働いていた。

 朝食時間が終わって、片付けのため大量の食器を洗う。そんな中、「おはようございまーす!」というデイジーの元気な声が厨房に響いた。

 厨房の侍女達が口々に挨拶を返す。ローラも顔を上げて声のほうを振り返ると、満面の笑みで駆けて来るデイジーに「おはよう」と言った。


「おはようございます!お手伝いしますね!」


 デイジーはそう言うと腕まくりをし、ローラの隣で食器を洗い始めた。その姿に、ふと昨日のことが甦る。キースと2人でずっと話していたデイジーが。何を話していたんだろう。気にはなるが、そんなことは聞けない。

 自分は彼の何でもないのに…。

 ローラが諦めたようにまた食器に目を戻した時、デイジーが隣で声を落として言った。


「聞いてください!昨日、すごいことがあったんです!」


 ローラの手が止まる。デイジーは手を動かしながら、とっておきの秘密を打ち明けるように囁いた。


「キース様とお話して、そのままお部屋にお邪魔しちゃいました!」


 心臓が激しい音を立てた。ローラの手が硬直する。その瞳は宙を映して凍りついた。


「夢みたいでしたぁ~」


 デイジーが無邪気に話を続ける。恍惚の表情で。


「もうムードいっぱいで…とっても大人で…。なんかもうとろけそう、みたいな!”キース”って呼んで、なんて言われちゃいました!…私、恋人ってことでいいのかなぁ~?」


 突然、激しい音を立てて、炊事場の流しに落ちたグラスが割れた。デイジーが驚いたようにローラを振り返る。


「あ…」


 ローラは我に返り、とっさに自分の手から落ちたグラスに手を延ばした。


「触っちゃダメですよ!」


 デイジーが声を上げたときには、ローラは小さな悲鳴を上げていた。グラスの破片で切れた指から血が流れる。


「大変、大変、大変!!」


 デイジーが大慌てする。それと反してローラは騒ぐことなく、切れた指を近くにあった布巾で包んだ。


「救護室、行ってきてもいい…?」

「行ってきてください!」

「…ありがとう」


 デイジーの顔を見ることができない。

 ローラは逃げるようにその場を離れ、厨房を駆け出していった。



 誰も居ない救護室に入ると、ローラは大きく息を吐いた。心臓の音が体中に響いている。

 切れた指の痛みより、胸の苦しさで息ができない。ローラはそばにある椅子まで歩くと、そこにゆっくりと座った。

 布が赤く染まっている。治療しに来たはずなのに、動くことができない。

 ただ放心して、そこに座っていた。


「――あれ?」


 不意に背後から声が聞こえて、ローラは振り返った。

 アーロンが立っている。予想外のローラの存在に驚いたようだった。「どうした?」と問いかける。

 ローラは少しの間ぼんやりとそこに立つ彼を見詰めていた。怪訝な表情になるアーロンに「アーロンこそ…どうしたの?」と問いかける。


「…俺はちょっと包帯もらいに」

「包帯…。怪我?」

「いや隊員達の手に巻かせるんだ。まだ手の皮弱いからさ」

「……そう」


 目を伏せたローラの普通じゃない様子を気にしながら、アーロンは救護室に入った。やがてその目がローラの手元に留まる。

 赤く血で染まった布巾に、顔色を変えた。


「そっちが怪我じゃん!」


 ローラはそれでやっと思い出したというように自分の手を見た。


「あぁ…うん」


 アーロンは消毒液と包帯の入った箱を持ってくると、ローラの前に椅子を用意して向き合った。


「取ってみな、その布」

「割れた食器で、切っちゃって」


 言いながらローラが布を取る。

 アーロンは傷口を確認すると「あーあ、ザックリだよ」と呟きながら箱を開けた。手早く消毒して、布を当て、包帯を巻く。ローラはされるままになりながら、やはり心ここに在らずの様子だった。

 包帯を動かしながら、アーロンの目がちらりと彼女の顔を見る。


「…何かあった?」


 問いかけた言葉に、答えは無かった。ただ沈黙が流れる。


「アーロン…」


 質問に答える代わりに名を呼ばれ、アーロンが顔を上げる。ローラの目はまだ宙を彷徨っていた。


「明日の夜、キャリーをお願いしてもいい…?」


 アーロンはその言葉にしばらく黙って彼女を見ていたが、それ以上何も聞くことなく「いいよ、もちろん」と返した。


 ◆


 翌日は予定通り、リンがキャリーを連れて家に帰っていた。

 2人は例によって一緒に夕食を作って、アーロンを待っていてくれた。

 キャリーを交えて3人で食卓を囲む。リンが楽しそうにキャリーと話す姿を微笑ましく見守った。

 最近2人きりだと落ち着かない気持ちになっていたので、キャリーの存在は有難かった。


「姉さん、今日は泊まりの仕事なんですか?」


 何故かキャリーに問いかけられ、アーロンは「いや、知らないけど…」と答えた。

 事情は知らないが、とりあえず預かっている。キャリー自身も理由は聞いていないようだった。


「誰かと、会うとか?」


 リンがキャリーに問いかけた。”誰か”というのは当然特別な存在を示唆している。キャリーは「そういう人居るって聞いたこと無いけどなぁ」と首を傾げる。

 どうやらローラはキャリーにキースのことは何も話していないようだった。



 その頃、仕事は終えたローラは着替えを済ませ、1人更衣室で佇んでいた。

 今日はデイジーは休暇をとっている。だから、今日しかない。そう思いながら、ずっとそこから動けずにいる。


―――大丈夫…怖くない…。


 必死で自分を励ました。やがてローラは心を決めたように顔を上げると、ゆっくり更衣室を出て行った。



 震える手でドアを叩くと、中から「はい」という落ち着いた声が応えた。体が硬くなる。心臓が内側から胸を割ろうかという程激しい鼓動を鳴らしている。

逃げ出してしまいたい思いに駆られながら、ローラはそこに立っていた。

 やがてドアが開くと、中からキースが顔を出した。ローラの姿を認め、意外そうに眉を上げる。


「こん…ばんは…」


 震える声で、ローラは型通りの挨拶をした。そんなローラを静かな青い瞳がじっと見ている。


「…どうした?」


 不意にそう問いかけられ、ローラの喉は一瞬凍りついた。用意していたはずの言葉が出てこない。

 ローラは自分を落ち着かせようと、軽く深呼吸した。そして改めてキースを振り仰ぐ。


「今…お1人ですか?」


 キースはその質問に少し間をおいて「あぁ」と答えた。


「お部屋に…」


 ローラは振り絞るように声を出した。


「お部屋に…入ってもいいですか…?」


 言いたかったことを言い終えて、ローラはじっとキースを見詰めた。すがるようなその目を見返しながら、キースはしばらく黙っていた。


―――何か、言って…。


 沈黙が苦しかった。恥ずかしさと恐怖で、涙が出てきそうだった。体が震えるのを隠すのが精一杯で、立っているのもやっとだった。

 ローラを見ていたキースの視線が、ふと逸れた。


「――悪いけど、無理だ」


 キースの言葉にローラは凍りついたように固まった。全身に響いていた心臓の音が、一瞬消える。


「じゃ…」

「待ってください!!」


 ローラが声をあげる。ドアを閉じようとしていたキースの動きが止まる。

 その目がまたローラを映した。


「…待って…ください…」


 我慢していた涙が込み上げてくる。

 キースはしばらくそれを見ていたが、不意に閉ざしかけていたドアを開いて部屋の外に出た。部屋の外からドアを閉め、ローラと向き合って立つ。

 完全に閉ざされた扉を前に、ローラの目からは涙が零れて落ちた。


「どうして…私はダメなんですか…?」


 声が震える。

 何故受け入れてもらえないのだろう。デイジーなら、いいのに。他の子なら、いいのに…。

 どうして自分だけは…。


「そんなに、魅力、ないですか…?」


 頑張っても、頑張っても、自分ではだめなのだろうか。初めて会ったような子でも、彼の部屋に入れるのに。

 そう思ったら切なくて苦しくて、ローラの頬には止め処なく涙が伝った。


「ローラ」


 不意にキースが口を開いた。


「きみは俺に…何を望んでる?」


 その問いかけにローラはまた固まった。


―――”何”を…?


 質問を頭の中で繰り返し、彼の求める答えを必死で考える。けれども何も見付からず、ローラはただキースを見ていた。


「…抱けば、満足?」


 キースが重ねて問いかけた。その言葉が胸を貫く。


「きみが俺から欲しいのは、それだけ?」


 ローラの胸がドクンと大きな音を立てた。キースの瞳を見つめながら、ローラはふるふると首を振っていた。

 彼から欲しいもの…。口に出した事はなかった。望んでも叶わないものばかりだから。

 それでも、やっぱり…。


「全部です…」


 ローラの声が夜の廊下にぽとりと落ちる。


「あなたの全部が、欲しいです…」


 偽らざる本音が零れ出た時、自然と理解した。彼の部屋に入れない理由を――。


「うん…」


 キースが静かに頷く。ローラの想いに少しの動揺も見せずに。


「それに、俺は応えられないんだ」


 ローラは崩れるようにその場に座り込んだ。

 もう堪えきれなかった。顔を覆って嗚咽を漏らす。ただ激しく声を震わせてローラは泣いた。今まで溜め込んでいたものが、一気に流れ出すように。

 知っていたはずだった。彼の気持ちは。けれども想いを伝え続けていれば、いつか届くかもしれないと、そんな夢も見ていた。

 でも違う。想いは届いてなかったんじゃない。とっくに全て伝わっていた。その上で、彼の中ではもうずっと前に、答えは出ていたのだ。


 キースがローラの前に膝をついて座った。けれども何も声はかけない。そして触れることもしない。

 ローラは顔を上げると、目の前のキースを見た。近くに居ても、とても遠い人…。


「好きです…」


 想いが溢れ出すように、自然に零れ出た。それはずっと前にたった一度伝えたきりの言葉だった。


「うん…」


 キースが応える。


「好きなんです…」


 ローラは涙を流しながら訴えた。今までの長い想いが全て、堰を切ったように溢れ出す。


「体だけなんて嫌です…。心も全部欲しいんです。私だけのものになって欲しいんです。あなたじゃないとダメなんです。ずっとずっとそう思ってたんです…!」

「うん…知ってる」


 静かに応えるキースの言葉を聞きながら、ローラはその場に突っ伏して泣いた。

 その場所も、時間も、なにもかも頭に無かった。体中が壊れそうなほど、激しく泣いた。

 止め処なく泣き続けるローラの側で、キースはいつまでもただ黙って座っていた。

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