本当に欲しいもの
翌朝のローランド王城寄宿舎では、いつものようにローラが忙しく働いていた。
朝食時間が終わって、片付けのため大量の食器を洗う。そんな中、「おはようございまーす!」というデイジーの元気な声が厨房に響いた。
厨房の侍女達が口々に挨拶を返す。ローラも顔を上げて声のほうを振り返ると、満面の笑みで駆けて来るデイジーに「おはよう」と言った。
「おはようございます!お手伝いしますね!」
デイジーはそう言うと腕まくりをし、ローラの隣で食器を洗い始めた。その姿に、ふと昨日のことが甦る。キースと2人でずっと話していたデイジーが。何を話していたんだろう。気にはなるが、そんなことは聞けない。
自分は彼の何でもないのに…。
ローラが諦めたようにまた食器に目を戻した時、デイジーが隣で声を落として言った。
「聞いてください!昨日、すごいことがあったんです!」
ローラの手が止まる。デイジーは手を動かしながら、とっておきの秘密を打ち明けるように囁いた。
「キース様とお話して、そのままお部屋にお邪魔しちゃいました!」
心臓が激しい音を立てた。ローラの手が硬直する。その瞳は宙を映して凍りついた。
「夢みたいでしたぁ~」
デイジーが無邪気に話を続ける。恍惚の表情で。
「もうムードいっぱいで…とっても大人で…。なんかもうとろけそう、みたいな!”キース”って呼んで、なんて言われちゃいました!…私、恋人ってことでいいのかなぁ~?」
突然、激しい音を立てて、炊事場の流しに落ちたグラスが割れた。デイジーが驚いたようにローラを振り返る。
「あ…」
ローラは我に返り、とっさに自分の手から落ちたグラスに手を延ばした。
「触っちゃダメですよ!」
デイジーが声を上げたときには、ローラは小さな悲鳴を上げていた。グラスの破片で切れた指から血が流れる。
「大変、大変、大変!!」
デイジーが大慌てする。それと反してローラは騒ぐことなく、切れた指を近くにあった布巾で包んだ。
「救護室、行ってきてもいい…?」
「行ってきてください!」
「…ありがとう」
デイジーの顔を見ることができない。
ローラは逃げるようにその場を離れ、厨房を駆け出していった。
誰も居ない救護室に入ると、ローラは大きく息を吐いた。心臓の音が体中に響いている。
切れた指の痛みより、胸の苦しさで息ができない。ローラはそばにある椅子まで歩くと、そこにゆっくりと座った。
布が赤く染まっている。治療しに来たはずなのに、動くことができない。
ただ放心して、そこに座っていた。
「――あれ?」
不意に背後から声が聞こえて、ローラは振り返った。
アーロンが立っている。予想外のローラの存在に驚いたようだった。「どうした?」と問いかける。
ローラは少しの間ぼんやりとそこに立つ彼を見詰めていた。怪訝な表情になるアーロンに「アーロンこそ…どうしたの?」と問いかける。
「…俺はちょっと包帯もらいに」
「包帯…。怪我?」
「いや隊員達の手に巻かせるんだ。まだ手の皮弱いからさ」
「……そう」
目を伏せたローラの普通じゃない様子を気にしながら、アーロンは救護室に入った。やがてその目がローラの手元に留まる。
赤く血で染まった布巾に、顔色を変えた。
「そっちが怪我じゃん!」
ローラはそれでやっと思い出したというように自分の手を見た。
「あぁ…うん」
アーロンは消毒液と包帯の入った箱を持ってくると、ローラの前に椅子を用意して向き合った。
「取ってみな、その布」
「割れた食器で、切っちゃって」
言いながらローラが布を取る。
アーロンは傷口を確認すると「あーあ、ザックリだよ」と呟きながら箱を開けた。手早く消毒して、布を当て、包帯を巻く。ローラはされるままになりながら、やはり心ここに在らずの様子だった。
包帯を動かしながら、アーロンの目がちらりと彼女の顔を見る。
「…何かあった?」
問いかけた言葉に、答えは無かった。ただ沈黙が流れる。
「アーロン…」
質問に答える代わりに名を呼ばれ、アーロンが顔を上げる。ローラの目はまだ宙を彷徨っていた。
「明日の夜、キャリーをお願いしてもいい…?」
アーロンはその言葉にしばらく黙って彼女を見ていたが、それ以上何も聞くことなく「いいよ、もちろん」と返した。
◆
翌日は予定通り、リンがキャリーを連れて家に帰っていた。
2人は例によって一緒に夕食を作って、アーロンを待っていてくれた。
キャリーを交えて3人で食卓を囲む。リンが楽しそうにキャリーと話す姿を微笑ましく見守った。
最近2人きりだと落ち着かない気持ちになっていたので、キャリーの存在は有難かった。
「姉さん、今日は泊まりの仕事なんですか?」
何故かキャリーに問いかけられ、アーロンは「いや、知らないけど…」と答えた。
事情は知らないが、とりあえず預かっている。キャリー自身も理由は聞いていないようだった。
「誰かと、会うとか?」
リンがキャリーに問いかけた。”誰か”というのは当然特別な存在を示唆している。キャリーは「そういう人居るって聞いたこと無いけどなぁ」と首を傾げる。
どうやらローラはキャリーにキースのことは何も話していないようだった。
その頃、仕事は終えたローラは着替えを済ませ、1人更衣室で佇んでいた。
今日はデイジーは休暇をとっている。だから、今日しかない。そう思いながら、ずっとそこから動けずにいる。
―――大丈夫…怖くない…。
必死で自分を励ました。やがてローラは心を決めたように顔を上げると、ゆっくり更衣室を出て行った。
震える手でドアを叩くと、中から「はい」という落ち着いた声が応えた。体が硬くなる。心臓が内側から胸を割ろうかという程激しい鼓動を鳴らしている。
逃げ出してしまいたい思いに駆られながら、ローラはそこに立っていた。
やがてドアが開くと、中からキースが顔を出した。ローラの姿を認め、意外そうに眉を上げる。
「こん…ばんは…」
震える声で、ローラは型通りの挨拶をした。そんなローラを静かな青い瞳がじっと見ている。
「…どうした?」
不意にそう問いかけられ、ローラの喉は一瞬凍りついた。用意していたはずの言葉が出てこない。
ローラは自分を落ち着かせようと、軽く深呼吸した。そして改めてキースを振り仰ぐ。
「今…お1人ですか?」
キースはその質問に少し間をおいて「あぁ」と答えた。
「お部屋に…」
ローラは振り絞るように声を出した。
「お部屋に…入ってもいいですか…?」
言いたかったことを言い終えて、ローラはじっとキースを見詰めた。すがるようなその目を見返しながら、キースはしばらく黙っていた。
―――何か、言って…。
沈黙が苦しかった。恥ずかしさと恐怖で、涙が出てきそうだった。体が震えるのを隠すのが精一杯で、立っているのもやっとだった。
ローラを見ていたキースの視線が、ふと逸れた。
「――悪いけど、無理だ」
キースの言葉にローラは凍りついたように固まった。全身に響いていた心臓の音が、一瞬消える。
「じゃ…」
「待ってください!!」
ローラが声をあげる。ドアを閉じようとしていたキースの動きが止まる。
その目がまたローラを映した。
「…待って…ください…」
我慢していた涙が込み上げてくる。
キースはしばらくそれを見ていたが、不意に閉ざしかけていたドアを開いて部屋の外に出た。部屋の外からドアを閉め、ローラと向き合って立つ。
完全に閉ざされた扉を前に、ローラの目からは涙が零れて落ちた。
「どうして…私はダメなんですか…?」
声が震える。
何故受け入れてもらえないのだろう。デイジーなら、いいのに。他の子なら、いいのに…。
どうして自分だけは…。
「そんなに、魅力、ないですか…?」
頑張っても、頑張っても、自分ではだめなのだろうか。初めて会ったような子でも、彼の部屋に入れるのに。
そう思ったら切なくて苦しくて、ローラの頬には止め処なく涙が伝った。
「ローラ」
不意にキースが口を開いた。
「きみは俺に…何を望んでる?」
その問いかけにローラはまた固まった。
―――”何”を…?
質問を頭の中で繰り返し、彼の求める答えを必死で考える。けれども何も見付からず、ローラはただキースを見ていた。
「…抱けば、満足?」
キースが重ねて問いかけた。その言葉が胸を貫く。
「きみが俺から欲しいのは、それだけ?」
ローラの胸がドクンと大きな音を立てた。キースの瞳を見つめながら、ローラはふるふると首を振っていた。
彼から欲しいもの…。口に出した事はなかった。望んでも叶わないものばかりだから。
それでも、やっぱり…。
「全部です…」
ローラの声が夜の廊下にぽとりと落ちる。
「あなたの全部が、欲しいです…」
偽らざる本音が零れ出た時、自然と理解した。彼の部屋に入れない理由を――。
「うん…」
キースが静かに頷く。ローラの想いに少しの動揺も見せずに。
「それに、俺は応えられないんだ」
ローラは崩れるようにその場に座り込んだ。
もう堪えきれなかった。顔を覆って嗚咽を漏らす。ただ激しく声を震わせてローラは泣いた。今まで溜め込んでいたものが、一気に流れ出すように。
知っていたはずだった。彼の気持ちは。けれども想いを伝え続けていれば、いつか届くかもしれないと、そんな夢も見ていた。
でも違う。想いは届いてなかったんじゃない。とっくに全て伝わっていた。その上で、彼の中ではもうずっと前に、答えは出ていたのだ。
キースがローラの前に膝をついて座った。けれども何も声はかけない。そして触れることもしない。
ローラは顔を上げると、目の前のキースを見た。近くに居ても、とても遠い人…。
「好きです…」
想いが溢れ出すように、自然に零れ出た。それはずっと前にたった一度伝えたきりの言葉だった。
「うん…」
キースが応える。
「好きなんです…」
ローラは涙を流しながら訴えた。今までの長い想いが全て、堰を切ったように溢れ出す。
「体だけなんて嫌です…。心も全部欲しいんです。私だけのものになって欲しいんです。あなたじゃないとダメなんです。ずっとずっとそう思ってたんです…!」
「うん…知ってる」
静かに応えるキースの言葉を聞きながら、ローラはその場に突っ伏して泣いた。
その場所も、時間も、なにもかも頭に無かった。体中が壊れそうなほど、激しく泣いた。
止め処なく泣き続けるローラの側で、キースはいつまでもただ黙って座っていた。




