懐かしい紫色の瞳
翌朝、ローランド王城の寄宿舎では、バッシュがローラを呼ぶ声が響いていた。
仕事中だったローラは手を止めると、慌てて声のする方へ向かった。
バッシュのもとへ駆け付けると、彼は笑顔で「おう」と片手を上げる。その隣には長い黒髪の少女が立っていた。
「ローラ、この子今日から入った新しい上級兵士付きの侍女だ。色々と教えてやってくれ」
ローラは「はい」と応えて、少女に目を向けた。
少女は恐らく卒業したてでまだ若いだろう。けれどもどこか大人びた雰囲気を纏う、とても綺麗な子だった。
艶やかな漆黒の髪は腰近くまでの長さある。綺麗な切れ長の目に、澄んだ紫色の瞳がよく似合う。
少女はにっこり明るい笑顔を浮かべ、ローラに挨拶をした。
「デイジー・ケイルです!」
「ローラ・ワルイダーです。よろしくお願いしますね」
「16歳なんだ。若いんだぞ」
バッシュの言葉にローラは「すみません、もう若くなくて」とおどけて見せる。
「いやいや、ローラも若い若い!」
そう言って豪快に笑う隊長の笑顔に、ローラもつられるように微笑みを浮かべた。
◆
その日の昼前、アーロンとキースはバーレン公爵家を訪れていた。
それぞれの隊員達にはムーサ山付近で適当に時間をつぶすよう指示をしてある。
バーレン公爵家は歴史を感じさせる厳かな雰囲気を纏った立派な館だった。荘厳な門に阻まれ、その全貌は見えない。それでも充分に財力を誇示した建物を前に、アーロンは「ほえー」と感嘆の声を洩らした。
「…すげぇな。お前、どういう知り合いなの?」
見上げながら隣のキースに問いかける。
「俺を上級兵士に推薦してくれた恩人だ」
「あぁ~…」
「行こう」
躊躇いも無く門に向かうキースの後を、アーロンは呆けたままついて行った。
身分を明らかにし、無事門をくぐることが出来た。
その後バーレン公爵家の扉に辿り着き、使用人の応対を受ける。
キースの姿を認めた瞬間、出迎えた女性は目を大きく見開き、両手で口を覆った。
「――キース・クレイド様!!!」
その反応から、彼女がキースを覚えていることが分かった。内心誰だと思いながらも、「どうも、久し振り」と微笑んで応える。この屋敷で”様”付けをされるような身分だった覚えはないのだが、名乗る手間が省けたのは喜ばしい。
アーロンは目を丸くし、女性とキースに交互に視線を向けていた。
「お、お久し振りでございます…!」
動揺を抑えきれない様子の女性に対し、キースは「突然訪ねて来て申し訳ないんだけれど」と用件を切り出した。
「バーレン公爵に、個人的に相談したい件があるんだ。すぐにすむ話なので、取り次いでもらえるかな。もし今が無理なら、都合のつく時間を指定してもらえれば出直すことも可能だ」
キースの言葉を聞いているのかいないのか、女性はしばらく口を覆った格好のまま放心していた。
言われた言葉が脳に届くのに時間を要したらしい。やがてその手を取ると「あの…」と申し訳無さそうに口を開いた。
「旦那様は、今日はご不在で…」
「あぁ…」
残念ながら留守らしい。出掛けているならば約束を取り付けるのも不可能だ。キースは肩を竦めて言った。
「それなら出直すしかない」
「申し訳ありません…」
全く落ち度は無いのだが、女性は眉を下げて謝った。そんな彼女に柔らかく笑みを返す。
「いや、有難う。また来させてもらうよ」
「はいっっ!!」
目を輝かせてそう言った女性に背を向けると、「行こうか」とアーロンに声をかけて歩き出した。
黙って付いてきたアーロンはふと振り返り、もう使用人の姿が見えないのを確認して言った。
「あれにも手出したのか、お前」
アーロンの問いかけにキースは首を傾げる。
「いや、どうかな…」
「”どうかな”ってなんだよ!」
隣で呟くアーロンには構わず歩きながら、キースはふと前から来る人の気配に目を上げた。
同時に足が凍りつく。
突然立ち止まったキースを、アーロンが怪訝な顔で振り返った。
驚きの滲んだキースの目線を追って、アプローチの先に視線を戻す。
そこを歩いてくる女性の姿を捉え、アーロンは同じように目を見張った。
遠い昔に見た、紫色の瞳、漆黒の長い髪――。
「グレイス!!」
アーロンが声を上げる。名を呼ばれ、グレイスが足を止める。目の前の2人に気付くと同時に、丸くなった瞳が微かに揺れた。
彼女の隣には、かつてと同じように従者のような騎士が付いていた。
「グレイス、うわ、久し振り!」
アーロンは笑顔を浮かべ、彼女に駆け寄った。
キースは足を止めたまま、ただその場に立ち尽くす。その目は相変わらず、見開かれたままだった。
側に来たアーロンに対し、放心していたグレイスも我に返ったようだった。その顔に、記憶のままの落ち着いた微笑を浮かべる。
「…久し振りね」
「うん。覚えてる?俺のこと」
「もちろんよ、アーロン」
アーロンは「おぉ、すげぇ」と呟くとまじまじとグレイスを観察した。膝丈のドレスに身を包んだ彼女は、今日は普通の女性に見える。
「今日は鎧着けてないんだ」
「えぇ」
隣に居るのは、以前公務にも同行した騎士だ。彼は武装し、剣も携えている。
2人の格好の差異を不思議に思うアーロンに、グレイスは答えるように言った。
「私、近衛騎士隊はぬけたのよ」
「なんで?」
アーロンが意外そうに問いかける。グレイスはふっと肩を落とした。
「そうね、もう言ってもいいかしら。私、この国の王女なの」
あまりに軽い調子で発せられたその言葉は、アーロンの耳に入ったものの、即座に理解できなかった。瞳を凍らせるアーロンに、グレイスがにっこりと微笑みかける。
「――おうじょ?!?!」
アーロンが素っ頓狂な叫び声を上げる。
その声は、離れた場所で立ち尽くすキースの耳にも届き、その脳裏に、火花が弾けるような衝撃を与えた。
―――王…女…。
聞こえた言葉を、茫然と繰り返す。激しい混乱を覚えながら、頭の奥の灯りは、闇の向こうにあった疑問の答えを浮かび上がらせる。
”護ってもらうばかりの立場は嫌だったから。自分のことくらいは、自分で責任を持ちたかったから”
かつての彼女の台詞が甦る。同時に突然全てを理解した。公務に付いてきた護衛も、特別な鎧も、そしてあの日の言葉も…。
”だめよ…”
”私は…だめよ…”
苦しげな声が鮮明に耳に甦り、キースは固く目を閉じた。
「――キース!」
自分を呼ぶ声に、キースの瞼が再び開く。
「何してんだよ、来いって」
動かないキースを、不思議そうにアーロンが手招きする。それに従い、重い足を動かした。
グレイスは目を逸らすことなく、近寄るキースを見詰めていた。強い意志を映すようなその瞳に、胸の奥がざわめき始める。それは長いこと忘れていた感覚だった。
「聞こえたか?グレイスって王女様なんだって…!」
まだ驚きを引きずったようにアーロンは茫然として言った。キースはただ「聞こえた…」とだけ答える。
「なんか納得だよ」
腑に落ちたという顔で頷く。グレイスは苦笑を洩らした。
「怪しかったわよね。ごめんなさい、秘密にしたりして。王女としてじゃなくて…騎士として2人に相手をしてもらいたかったの。2人との手合いは、いい思い出だわ。……本当に楽しかった」
過ぎた昔を思い起こすように、グレイスはふと遠い目をした。けれどもその綺麗な紫色の瞳がキースを映すと、穏やかに微笑む。
その屈託の無い笑顔に、キースは何も言えなかった。とても言葉が出てこない。
「2人は、今日はどうしたの?」
グレイスの問いかけに、アーロンは「ちょっと公爵に相談事が…」と言いかけて言葉を止めた。
まじまじとグレイスを眺め、その目をキースに向ける。
「そういうことなら、グレイスに話してもいいよな」
”偉い人”ということでバーレン公爵を訪ねたが、思いがけずそれを越える人物と出会えた。アーロンの提案にキースは黙って頷いた。
「なに?相談事って」
問いかけるグレイスに、アーロンは事情を説明し始めた。グレイスは黙って耳を傾ける。
キースは口を挟む事無く、そんな彼女の横顔をただ見つめていた。
「…なるほどね」
話を聞き終わったグレイスは頷いて言った。
「分かりました。お父様に話しておきます。特に誰かに被害があったわけではないから、罰を与えるようなことは無いと思うわ。ミケーネ侯爵に事情を聞いて、貴方たちの思っている通りなら兵士を引き上げさせるよう指示します。
侯爵には注意をするけど、今回の件はこれ以上広めないようにしてもらえるかしら」
アーロンは頷いて応える。キースも同じように黙って頷き、了承の意を示した。グレイスの表情がふと和らぐ。
「…会えてよかった。2人が変わらず頑張っていることが分かって嬉しかったわ。また私が力になれることがあったらいつでも言ってね。直接会うのは難しいかもしれないけど…話は届くから……」
グレイスの瞳に束の間寂しげな色が浮かんだ。けれどもそれを隠すように一瞬目を伏せ、次に顔を上げた時にはまたいつもの彼女に戻っていた。
「それじゃ、私はこれで…」
「――なぜ、騎士隊をぬけた?」
今まで黙っていたキースが突然問いかけた。グレイスは不意を突かれ、一瞬声を失う。けれどもすぐにまた笑顔を浮かべると、まるで世間話のような軽い口調で言った。
「結婚するのよ」
「――えぇ!!!」
声をあげたのはアーロンだった。キースはその言葉でまた凍りつかされたように声を失った。
アーロンはそんな彼には気付かないまま、「近衛騎士隊長と?!」と身を乗り出す。グレイスは思わず吹き出していた。
「まさか!それは過去の話よ。騎士と王女が結婚できるわけないでしょ?」
キースもアーロンも、それに返す言葉は見付からなかった。騎士と王女で結婚は出来ない。そんな現実を、今更認識する。
けれども、さっぱりとした笑顔を浮かべる彼女の顔に迷いは見えなかった。
「それじゃ、ね…」
グレイスは改めてそう言うと、ゆっくりと歩き始めた。2人の間を通り抜けて行く。
その体が目の前を通り過ぎた瞬間、キースはとっさに手を延ばしていた。
二の腕を掴んで引き止められ、グレイスが足を止める。驚きを浮かべて振り返った目は、キースの青い瞳と出会った。
「誰と?」
キースの問いに、グレイスは答えなかった。逃げるように顔を背ける。アーロンはそんな2人を前に、茫然とする。
「…離して、キース」
いつかと同じようにグレイスが言った。最後に会った、あの夜と同じ言葉を。
「誰と結婚するんだ!」
「――離しなさいキース!無礼です!!」
グレイスが声を上げた。その目を背けたまま。護衛の騎士が緊張を帯び、とっさに剣に手をかける。それに気付き、アーロンは慌ててキースを止めた。
「やめろよ、キース…」
アーロンの言葉など聞こえていないように、キースの目はただグレイスを見ていた。
けれどもグレイスは決して振り返ろうとはしない。頑なに拒み続けるその態度が、答えであることは知っている。
やがて力が抜けたように、キースはその手を離した。
解放されたグレイスが、そのまま歩き出す。何も言わず、振り返らずにそのまま去って行く。護衛の騎士も彼女の後を追った。
そしてその場にはアーロンとキース、2人だけが残された。
遠ざかるグレイスの姿を見送るキースの横顔を、アーロンは隣でしばらく声を失ったまま見詰めていた。




