嫉妬の心
その日の午後、キースの隊は同じ上級兵士であるベンの率いる隊とともに、ミケーネ侯爵領のある地方都市へと向かった。
当然王国騎士団の騎士も2人同行する。2つの隊にはそれぞれの騎士から行動の指示が与えられた。
ベン達の隊は範囲を広げて近隣の街や村での山賊の被害を調べ、彼等の拠点となる場所を割り出すという。キースの隊はムーサ山に入り、捜索を行うこととなった。
ムーサ山は以前彼等が逃げ去ったとされる場所である。山中の行動ということで若い兵士達の揃う自分の隊が呼ばれたのだろう。
けれども、場所を変えつつ動いていく山賊がそこで容易く見付けられるかはかなり怪しい。
キースは騎士に対し「山賊の捜索以外の動きは無くていいのですか?」と問いかけた。
騎士が頷く。
「ミケーネ侯爵が言うには、常日頃脅迫めいた手紙など置かれていたそうだ。”お前の財産を取り上げてやる”といった内容だったらしい」
一瞬キースは呆気にとられた。
「…それでその手紙は?」
「すでに処分済みだそうだ」
「……そうですか」
どうもしっくり来ない話だが、目の前の騎士の中では特に疑問は無いらしい。
”分かんないけど、なんとなくその侯爵が…”
昼にアーロンが言いかけた言葉を思い出し、キースはまた騎士に問いかけた。
「その山賊の話に疑問の余地はありませんか?侯爵の話を聞いてみたいのですが」
騎士は口元に笑みを浮かべた。兵士風情が生意気なことをと、その目が言っている。
「…必要ない。すでに私が話を聞いている。疑問の余地は無い」
あっさり意見を退けられ、キースはそれ以上の進言を諦めた。何かを言っても聞く耳は持たないだろう。
「了解しました」
そう言って自分の隊へと戻る。兵士達は隊長の指示を待っていた。
キースはそんな彼等を前に軽く溜息を洩らし「ムーサ山に入って山賊の捜索を行う」と告げた。
◆
その夜、アーロンは上級兵士の予算会議の資料作成を、1人寄宿舎の食堂に残って行っていた。
兵士達の間で必要となる武器、防具、設備、その他の必要なものを纏め、予算を決めていく。その予算案を上にあげ、また上が検討し、そのまた上へと上げられる。
今回検討する予算の導入が決定するのは数ヶ月先になるという気の長い議題だ。
しかしアーロンにとっては、お金の問題などさして興味もない。新しい上級兵士が加わっても自分より年齢が若い者は来ないため、未だ下っ端として資料作成や苦手な計算をやらされている。
頭が痛くなるばかりで仕事は終わる気配も無く、ひたすら空腹と闘っていた。
そんな彼の目の前に、ふとお皿に載ったパンが差し出された。驚いて振り仰ぐと、そこにはローラが立っていた。
「よかったら、どうぞ。軽く食べないと、おなかすいちゃう」
「神様に見えるよ」
そんな大袈裟な言葉にローラは楽しそうに笑う。そしてアーロンの手元の資料を覗き込んだ。
「これ、なぁに?」
「予算案の資料」
「すごい、数字がいっぱい……頭いたくなりそう」
「うん、すでに痛い」
溜息混じりに頭を抱えるアーロンを見て、ローラはまた笑う。アーロンも苦笑しつつ仕事の手を止め、パンを手に取った。有難くかぶりつく。木の実の入ったパンは香ばしく、飢えも手伝って、とても美味しかった。
「お昼の時、有難うね」
不意にローラが礼を言った。その意味を察し、アーロンは「いえいえ」と返した。
「もう最近じゃ皆の中で暗黙の了解だからね。ローラが来たら、キースから離れろ、みたいな」
「そ、そうなの…?」
ローラは恥ずかしそうに俯くと「みんな優しいな…」と小さく呟く。
頬を染めるローラの様子に、アーロンも自然と微笑みを浮かべていた。
恋に目覚めたローラの変化には、最初のうち誰もが戸惑っていた。恐らくキース本人も。
周囲からは”一時の熱病にかかった”と願望も含んだ噂も出たが、今はそんな事を言う者も居ない。彼女の熱意に圧され、むしろすすんで協力する空気が生まれていた。
「…でも、今日は怒られちゃった。アーロンと話をしてるときは、邪魔しないでって」
アーロンはその言葉に軽く目を見開いた。ローラは眉を下げて微笑む。
「羨ましいな、そんなこと言ってもらえるの…」
アーロンは呆気にとられつつ問いかけた。
「…俺に嫉妬してるの?もしかして」
「うん、ちょっと」
素直な返事に、アーロンは吹き出した。
「なんだそりゃ!」
「だって、本当にそう言ったのよ?アーロンと話してる時はダメだって!」
「違うって!仕事の話してたんだよ!あいつ仕事の話、大好きだからさ。それだけだって!」
「違うわよ!”アーロンと話してるときはダメ”って、そう言ったものっ」
「だって、俺とは仕事の話ばっかりだから」
ローラは納得いかなそうだったが、諦めて口をつぐんだ。
子供のようなヤキモチをやくローラが可笑しくて、アーロンはクックと肩を揺する。こんな事を言う子だなんて、昔は夢にも思わなかった。
かつて恋人だったローラと、また普通に話せるようになるまでにはそれなりに時間がかかった。
彼女がキースに対して一生懸命近づいていこうとする姿を見ているのが辛かった時期もある。
けれども時間はやがて自然に過去の苦しみを癒し、そこには楽しかった思い出だけが残った。
今はもう2人がお互いの家を行き来したりすることはなく、妹達の関係だけが変わらず続いている。
ローラが忙しい時は自分がキャリーを預かるし、逆もある。同じ苦労を理解しあえる、いい関係が築けていた。
もう以前のように彼女を女性として意識することはない。けれどもかつて好きだった大事な人に変わりはない。
今では彼女のひたむきな想いが届くようにと、自然に応援する気持ちも生まれている。
「”全く無理”ではないかもしれないね」
アーロンの呟きに、ローラは”なに?”というように彼を見た。
「昔は全く脈が無さそうだったけど、最近そんなに悪い気してないんじゃないかなぁ…と」
彼の言葉の意味を理解し、ローラはほんのり赤くなった。
「そうかな…」
「分かんないけどね。あの男の頭の中は」
言いながらパンを食べ終わると「さて」と言って立ち上がる。
「もうこれ以上は無理だ。あとは家に持って帰ってやることにする」
そして机の上の書類をかき集める。
ローラはそんなアーロンを見ながらクスッと笑うと「じゃ、途中まで一緒に帰りましょ。私も今日は終わりだから」と言った。
◆
ムーサ山での捜索は思ったとおり何の収穫も無かった。
ただ無駄に隊員達を山歩きで疲れさせ、夜も更けてきたということで終了となった。
ベンの隊の報告からも、有益な情報は得られなかった。最近、山賊の被害はあまり聞かないらしい。
騎士はさすがに表情を険しくしつつ「明日もまた引き続き調査してくれ」と告げた。
騎士が去った後、ベンはキースに向かって言った。
「明日は朝からこちらへ来てくれ」
「はい。明日も同じことを続けるのですか?」
「さぁな。それは騎士の決めることだ」
ベンの言葉にキースは「そうですね」とだけ返した。
「…まだ人が足りないかな」
不意にベンが独り言のように言った。そしてキースを振り返る。
「明日はもっと若いのを追加しよう」
何人追加しても変わらないだろう。そう思いながらも、キースは何も言わずに頷いた。
◆
なかなか帰ってこないアーロンのことが気になって、リンは1人の部屋で窓の外ばかり覗いていた。
そこから見える路地にアーロンの姿を探すが、一向に現れる気配は無い。
仕事が長引いているのだろう。でも今日は外出しないと聞いている。外出の無い日は大抵いつも時間通りに帰ってきてくれるのだ。
何回目かに外を見た時、ふと雨が降っているのに気がついた。アーロンは雨具を持って出ていない。
―――迎えに、行ってみようかな…。
そう思い立つと、リンは急いで自分の部屋に行き、雨用の外套を羽織った。
アーロンの部屋にも入って彼の外套を携える。
そして外套に付いた帽子を目深に被ると、家を出て行った。
「降ってきちゃった…」
ローラは頭を片手で護るようにしながら呟いた。2人での帰り道、降り始めた雨はすぐに本降りになってきた。
「急ごう」
「うん」
小走りで家路を急ぐ。
そして間もなくローラの家とアーロンの家の分かれ道にさしかかろうという時、ローラがふと前を見て「あっ」と声を上げた。
「リンちゃん!」
「え?」
アーロンも目を上げて前を見る。目の前に延びる道の向こうにリンの姿があった。ぼんやりと立ち尽くし、こちらを見ている。
「――リン…!」
リンは両手でアーロンの外套を抱きかかえるようにして持っていた。その意図を察し、ローラがふっと微笑む。
「お迎え来てくれたんだ。優しいね」
「別に、いいのに…」
アーロンはローラに「それじゃ、また明日」と片手を上げて別れを告げた。
「うん、また明日」
別れ道をそれぞれ進み、ローラは去っていく。そしてアーロンはリンのもとへと走った。
「どうした、リン??」
そばに行くと、リンはじっと黙ったままアーロンを見詰めていた。そしてふと目を伏せる。
外套の帽子のせいで、その表情は隠された。それでもどこかいつもと様子が違う気がして、アーロンは体を屈め、その顔を覗き込んだ。
「リン…?」
「雨…降ってきてたから…」
リンはそう言って、アーロンに外套を差し出した。アーロンは「ありがとう」と礼を言ってそれを受け取る。
「でも、こんな夜更けに1人で出てきたら危ないって。俺は濡れたって平気だからさ」
リンは小さく「うん…」と頷いた。
家に帰る途中も、リンはなんだか元気がなかった。
折角迎えに出たのに”来なくていい”というような事を言ったから傷ついたのかもしれない。
そう思って「助かったよ、ありがとう」と改めて礼を言ったが、リンは「うん」と頷いただけだった。
不思議に思いつつ家にたどり着くと、部屋で濡れた服を着替えて居間に戻る。炊事場で鍋を暖めているリンを見付け、アーロンは側へ歩み寄った。
「ごめんな、遅くなって」
「ううん…」
リンの目は鍋の中身に向けられている。
怒っているという様子でもないのだが、とにかく元気が無い。
気になってその場を離れられず、アーロンはリンの横顔を見詰めていた。
長い睫を伏せたその物憂げな表情が、今日はやけに大人びて映る。いつの間にそんな顔を見せるようになったのだろう。
「食べてきたのかな…」
鍋をゆっくりかき混ぜながら、不意にリンが呟いた。
「ん?」
一瞬アーロンの方を見たリンの目に、躊躇いが映る。聞きにくそうに、重い口を開いた。
「今日は……ローラさんと、会ってたの…?」
その問いに、アーロンは一瞬固まった。リンの沈んだ横顔を見ながら、やっとその表情の意味に気付く。
「…まさか!そんなんじゃないよ」
アーロンはとっさにそう答えていた。
「彼女とはたまたま仕事帰りに会ったから一緒に帰ってきただけで…。今日は、予算案の資料作ってて遅くなったんだよ。夕食だって、まだ食べてない」
慌てて弁解している自分を、自分でもおかしく思う。けれどもつい事細かく説明していた。
ずっと俯いていたリンが、ふと顔を上げてアーロンを見た。
「予算案…?」
「そうだよ。明日使うんだ。やたら計算しないといけなくてさ。本当は城で済ませてくる予定だったんだけど、諦めて切り上げた。持って帰ってきたから、お前も手伝ってよ」
アーロンの話を聞きながら、リンの表情から硬さが取れて行く。どこかホッとしたように、やがて微笑みが広がった。
「いいよ、計算得意だから」
「うん、お前の方がきっと早いよ」
リンはアーロンの言葉に嬉しそうに目を細めた。
やっと見せてくれた笑顔に安堵しつつ、アーロンの胸にはまた、なんとも言えない複雑な想いが渦巻く。
リンが沈んでいた理由はローラだった。ローラと2人で過ごしていたために帰りが遅くなったのだと、誤解したから。
かつてアーロンとローラが恋人同士だった頃、リンは”ちょっと複雑”と言ってはいたが、そんな顔を見せた事は無かった。
今にも泣き出しそうなほど、哀しげな…。
―――嘘だろ…。
自分の中に浮かんだ答えを俄かに受け止めきれず、アーロンは内心で呟いた。
あの日のキスはやはり夢ではなかったのかもしれない。リンは自分に男として好意を持っているのかもしれない。
有り得ないと思っていた可能性を突き付けられ、動揺する。まさかリンにそんな対象として見られる日が来るなんて、考えたことも無かった。
「…あっちで、待ってるよ」
「うん」
アーロンはその場を離れると、居間の長椅子に腰掛けた。そして背もたれに身を預け、吐息を洩らす。
何をすることも出来ず、しばらくぼんやりと宙を眺めていた。




