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ゴンドールの大陸  作者: 芹沢 まの
第二章
30/88

海上視察

 それからしばらく、アーロンはローラとの接点が無かった。

 本音は会いたいし、話をしたいと思う。けれども彼女を前にすれば、自分勝手な想いをぶつけてしまいそうで怖い。それに、それを伝えたところで受け入れてもらえるかというと難しい。困らせるだけに違いないと思えた。


 そんなある日、アーロンとキースはいつものように上級兵士の定例議会に参加していた。その場で上級兵隊長バッシュの口から意外な名前が挙がった。


「キース・クレイド!」


 議会中、キースやアーロンにバッシュから声がかかることは今まで無かった。キースの名前が出たのは初めてで、アーロンは”おっ”というように眉を上げる。


「はい」


 キースの落ち着いた声が応える。そしてすっと立ち上がった。


「お前の隊、今度の海上視察に同行することになった。詳細はまた追って連絡する。分かったな?」


 アーロンは目を見開いた。


―――公務だ!


 思わず振り仰いだキースは、無表情のまま「了解しました」と応える。そしてまた腰を下ろした。

 一つ用件が済んだとして、バッシュは次の伝達事項の報告に移って行く。


「すごいじゃん、”海上視察”って!」


 アーロンは隣に身を乗り出し、声を落として言った。精いっぱい抑えつつも声に興奮が滲む。キースはその目を前に向けたまま、また腕を組むと、背もたれに身を預けた。


「良かったな。念願の公務だ」

「何するんだよ、”海上視察”って」


 アーロンの素朴な疑問に、キースは呆れた苦笑を洩らす。またその反応かと、アーロンは顔をしかめた。


「…なんだよ」

「今自分で”すごい”って言ったばかりだろ?内容を知らずに何がすごいんだ」

「公務を任されるのがすごいってことだよ」

「なるほどね」


 いかにもおざなりに応え、キースはやはり前を向いたまま説明をした。


「海上視察はつまり海洋を見廻って、異常が無いかどうか調べるっていう仕事だ。恐らく定期的に行われているとは思うが、そんなに喜ぶほど重要な仕事じゃない」

「…いきなり重要な仕事を任されるとは思ってねーよ」


 身を乗り出していたアーロンも、また椅子に座りなおす。隣の男に感動を期待した自分が馬鹿だったとため息を洩らした。

 腕と脚と組んで座るキースの横顔はいつもながら作り物のように整っていた。その金色の髪も青い瞳も合わせて一分の隙も無い。

 腹が立つほどに。

 アーロンは彼から目を背けると、また1人ため息を吐いた。


 ◆


 その頃、リンは学校で授業を受けていた。教師の話を聞きながら、ふと隣に目を向ける。

 そこにはいつもの通り、ルイが座っていた。真剣に筆を走らせる横顔を、真っ黒な長めの前髪が隠している。


 ”そうだよ、好きだよ!!―――文句あるか!!”


 前に聞いた彼の言葉が甦り、またリンは1人胸を高鳴らせた。

 男の子にそんな事を言われたのはあの日が初めてだった。びっくりして、何も言えなくなった。そんなリンに、ルイはあの後一言”ごめん”とだけ告げて、その場を終えた。それきり話題には一切出ていない。

 もしかして聞き間違いだったかもしれないと思うほどに。


 ぼぉっと見詰めていると、不意にルイがリンの視線に気付いた。目が合って固まってしまう。

 ルイはそんなリンに、にっこり微笑みを返した。

 心臓がまた大きな音を立てる。リンは慌ててルイから目を逸らした。


 あの日から、ルイはなんだか変わった気がする。

 周りを気にせずリンに普通に話しかけるようになったし、目が合っても逸らしたりしなくなった。そんなルイの変化に合わせるように、周りも変化した。2人が話をしていても、もう誰も何も言わない。野次をとばしたりする者は居なくなった。


「私、この前ロディとキスしちゃった」


 授業の合間の休憩時間、リンの机の周りに集まった女の子達に突然シーラがそう報告した。当然隣のルイは席を外している。そこには女の子だけの空間が出来上がっていた。


「きゃぁぁぁ!!!」


 絶句するリン以外の皆が、揃って歓声を上げた。シーラは少し得意気に微笑んでいる。リンは彼女の言葉の意味を一生懸命理解しようと頭を働かせていた。

 そんなリンにシーラが視線をあてる。


「リンも、ルイとキスしたら教えてね」


 リンがぎょっと目を見開く。

 どう応えたらいいのか分からず固まるリンを放置し、女の子の1人が「すごい、シーラ、どうだったの??」と聞いた。

 興味津々らしい。

 いつ、どこで、どんなふうにと、皆の中から詳細な説明を求める質問が次々と飛ぶ。

 そんな中、リンは1人頭がついていかずに呆然としていた。


 いつの間にか、ルイはリンの恋人のようになっている。みんなの中でそう落ち着いたことで、野次も無くなったのだろうか。

 当の本人を置いてけぼりにして、相変わらず周りばかり先に進んでいく。

 取り残されたリンは一人途方に暮れるばかりだった。


 ◆


 その日の仕事は予定の時間に終わった。

 正門を出るため寄宿舎の前を通りかかった時、アーロンはふとそこから出て来る少女の姿に気付いて足を止めた。自然と胸が高鳴る。久し振りに見る、ローラだった。

 偶然でも会えたなら声をかけるべきだ。そう思いながら、アーロンは動けなかった。

 彼女への想いを自覚して、臆病になっている自分に気付く。

 昔は何も考えずに、ぶつかっていけたのに。

 

 正門の方へ去っていくと思っていたローラは、不意にアーロンの方に足を向けた。

 向き合う形になり、すぐに立ち止まっているアーロンに気付く。ローラの眉が、ひょいと持ちあがった。不意打ちをくらったアーロンは、息が止まってしまう。ローラはふっと微笑みを浮かべると、アーロンのもとへ歩いてきた。そして目の前で止まる。


「今から帰るの?」


 ローラの問いに、アーロンは「…うん」と応えた。自分を映す栗色の瞳がどこか懐かしい。吸い込まれてしまいそうで、まともに見ていられない。


「私もなの。今から馬を取りにいくの」


 ローラの答えに、アーロンは納得した。馬屋に向かうためにこちらに歩いて来たということらしい。


「そっか…」


 気の利いたことを言いたいのに、言葉が出ない。それだけ言って、口をつぐんだ。二人の間には束の間沈黙が流れる。


「……この前は、ありがとう」


 先に口を開いたのはローラだった。

 意外な言葉に、アーロンは目を瞬く。まさかお礼を言われるとは思わなかった。驚くアーロンの顔を見ながら、ローラは優しく微笑む。


「アーロンが言ってくれた言葉、嬉しかった」


 喉が塞がれたように、アーロンは胸苦しさに襲われた。

 また抱きしめたい衝動に駆られたが、それを抑えて目を逸らす。同じ失敗を繰り返すわけにはいかない。


「…妹さん、元気?」


 アーロンは自分を落ち着けるため、無難な問いを投げた。ローラが「うん」と言って頷く。


「仕事するとか言い出してるけど、それはやっぱりまだ早いと思うから家で待たせてるの。1人でつまらないと思うんだけど、キャリーにとっては学校から離れられただけで幸せみたい。近いうちに王都のほうに引っ越そうかなって思ってる。遠くに住んでるのは妹の学校の近くだっていう理由だけだったから」


 ローラの目が、ふと遠くなる。栗色の瞳が闇に翳って、哀しげに映った。


「いつかまた学校に行ける日がくるといいなって、やっぱり思っちゃうんだけどね……」

「そりゃそうだよ…」


 自然にそんな呟きが洩れた。彼女の気持ちは、アーロンには痛いほど分かる。”学校を辞めさせる”という道を選ぶことが、どれほど辛い選択だったのかも。

 アーロンはふと思い立って、「あのさ」と口を開いた。


「もし良かったら、今度休みの時に妹さん連れてうちに遊びに来ない?うちにも妹居るからさ。友達になれるかもしれない」


 アーロンの提案にローラは驚いたようだった。目を丸くした彼女見て、いきなりだったかなと一瞬後悔する。

 けれどもローラの顔には、すぐに笑顔が戻って来た。


「いいの?すごく嬉しい…!」


 意外なほど喜んでもらえた。それが嬉しくて、アーロンもつられて笑顔になる。


「大歓迎だよ!うちの妹人懐っこいから、きっと仲良くなれると思うんだ」

「うん。アーロンの妹さんなら、絶対いい子だね」


 ローラはそう言ってまた眩しいほどの笑顔を見せてくれた。


 ◆


「明日、例の海上視察だ」


 ある朝の訓練前、バッシュからキースの隊にそう報告があった。

 詳細は別途ということだったが、突然明日に決まったらしい。キースはいつものように無表情で「了解しました」とだけ応じた。


「明日は全員、ベルトの港に集まること。騎士が同行するとのことだが、誰が行くのかは知らされていない」


 バッシュはキースとアーロンにそれぞれ目を遣ると、「分かったな」と念を押すように言った。


「――はい」


 2人が同時に応える。

 いい返事をする一方で、アーロンは”明日は早起きになりそうだ”と内心溜息を洩らしていた。



 そして翌朝、まだリンが寝ているうちに準備を終えたアーロンは剣と荷物を手に居間を見廻した。

 ランプなどが消えていることを確認し、ふとリンの部屋のドアに目を遣る。

 昨夜、今日の仕事のことを話した時には”行くときは起こして”と頼まれた。知らないうちに居なくなっているのは嫌らしい。けれどもまだ空が暗い時間なので、起こすのも躊躇われる。

 アーロンはリンの部屋のドアを音を立てないよう気を付けながら開けると、そっと中を覗いた。


 狭い部屋のほとんどを占めて、ベッドが置いてある。そこで、リンが眠っている。

 アーロンは足を忍ばせつつ部屋に入ると、ベッドの側まで行った。

 リンは気持ちよさそうに小さな寝息を立てていた。

 閉じられた瞼は金色の長い睫に縁取られている。白い頬に流れる髪は窓からの月光で微かに光り、上等な絹糸のようだった。

 今更ながら、”可愛い子だな”としみじみ思った。

 妹というには無理がありすぎるほど、自分とは似ていない。むしろキースの妹といったほうがそれらしく見える。

 声をかけようか迷い、結局やめた。あまりに幸せそうな寝顔だから。

 ベッドに手を着くと、そっと顔を寄せる。そして身を屈め、その頬に軽く口付けて離れた。


「行ってくる」


 小声で告げると、また音を立てないように気をつけながら部屋を出て、そっとドアを閉じた。



 家のドアが閉じられる音を聞きながら、リンはそっと目を開けた。

 まだ余韻の残る頬に、思わず手で触れる。

 キスの直前に目が覚めていたが、目は開けられなかった。アーロンにそんなことをされたのは初めてで、なんだかとても驚いた。

 家族としてのキスだということは分かっているし、全然嫌ではなかったけれど…。


 リンは手を離すと寝返りを打って、また目を閉じた。

 そして目が冴えてしまったのを感じながらも、とりあえずもう一度眠る努力を始めた。


 ◆


 朝を迎えようとするベルトの港は俄かに活気を帯びていた。

 暗いうちに朝の漁を終えた漁船が次々と戻っては、荷降ろしに奔走している。空は白々と明け始めていた。

 そんな中、集まったキースの隊の隊員達は、海上視察のための船の準備を待っていた。皆初めての公務ということで、少なからず緊張が見える。同行する予定の騎士は、まだ着いていなかった。


「今日来る騎士って何人?」


 アーロンの質問にキースは「全く聞いてない」と返した。

 隊長も知らない事らしい。そういうものかと思いながら待っていると、ふと遠くに馬の影が見えた。どうやら2頭並んでいる。

 徐々に姿を現すにつれて、その馬に乗る人物が鎧を身にまとっていることが分かる。


「来た」


 格好から騎士と判断し、アーロンが呟いた。キースがその声に振り返り、彼の視線の先を追う。そして目を見開いた。


「どうした?」


 キースの表情から驚きが見て取れて、アーロンが問いかける。キースは遠くに目を凝らしながら、綺麗な眉をクッと顰めた。


「……グレイス?」


 アーロンの問いには答えず、独り言のように呟く。アーロンは訝しげにそんな彼の横顔を見詰めていた。

 同行する騎士として現れたのは、意外にも近衛騎士隊員であるはずのグレイスだった。


 ただの海上視察で王族が動くわけでもないのに近衛騎士隊から騎士が派遣されるとは思っていなかった。

 グレイスは馬を降りると、戸惑うキースの目の前に立った。


「今日はよろしく。仕事では初めてね」


 にっこりと品の良い笑みを浮かべる。一緒に来ている騎士は流石にアルベルトではなく、面識の無い騎士だった。

 無表情に後ろで控えている。まるでグレイスの従者のように。


「まさか、きみが同行するとは…」

「知り合いか?!」


 隣のアーロンが意外そうに声を上げる。キースはアーロンに目を向けると、「近衛騎士隊の騎士、グレイスだ」と紹介した。


「近衛騎士隊?!」


 アーロンが驚きの声を上げ、グレイスを見る。


「近衛騎士隊って、王族のお供で動くもんじゃないの?」


 全く緊張感の無い問いかけにクスッと笑みを洩らし、グレイスは「普通はね。今回は例外よ」と答えた。


「実を言うと、貴方に会いに来たの」


 思いがけない指名に、アーロンは一瞬固まった。そして自分の顔を指差す。


「……俺?」

「そうよ。あなたでしょ?バルジーお薦めの、赤毛の兵士」


 キースは2人のやりとりを黙って聞きながら、不思議に思っていた。

 アーロンにはアルベルトも興味を持ってはいたが、彼は単なる”お抱え武器屋”の推薦ではなかっただろうか。わざわざ彼の推薦の男を近衛騎士隊の隊員が調査しに来るとは、その”お抱え武器屋”は一体どれほどの影響力を持っているのだろうか。

 アーロンはグレイスの姿をざっと眺め、「それ、バルジーの鎧だろ」とグレイスの身につけている鎧を指差した。

 グレイスが苦笑する。


「流石に分かるのね」

「うん、なんとなく」


 そして控えているもう1人の騎士を確認した。彼は普通の銀色の鎧を纏っている。


「あいつはなんでバルジーの鎧を着けてないの?」


 ゴンドールの鎧は鈍い金色をしている。あれがバルジーの作ったものでない事は明らかだった。グレイスは騎士を振り返り、一拍置いてまたアーロンに目を戻した。


「…まだ全員分は無いのよ」

「へぇ」


 アーロンは呟くと、不思議そうに瞬きをする。


「その限られた数の中の1つを、あんたが?」

「――アーロン、いい加減にしろ」


 隣から流石にキースが口を挟んだ。たしなめるようにアーロンを睨んでいる。


「無礼にもほどがある」

「いいのよ。言ったでしょ?堅苦しいのは苦手だから」


 グレイスはそう話に区切りを付けると「準備できてるなら早速出たいんだけど、いいかしら?」と2人に聞いた。


 キースとアーロンは同時に頷いた。



「ただの騎士じゃないだろ」


 出港の後、キースの側に来たアーロンが声を潜めてそう言った。

 既に隊員は甲板で海上の見張りを始めている。彼等と同じようにグレイスも甲板に居るが、少し離れた場所なので声は届かない。

 長い黒髪は今日もひとつに纏められており、こぼれた前髪が潮風に揺れていた。

 ”ただの騎士”の定義は不明だが、他とは違う点は確かにある。


「……近衛騎士隊長の恋人だそうだ」

「はぁ??」


 キースの説明にアーロンは素っ頓狂な声をあげた。そしてもう一度彼女を振り返ると、改めてキースに目を戻す。


「何歳と何歳で?」


 キースは思わず吹き出した。成程、この反応が自然なのかもしれないと納得する。


「彼女は19歳らしいけど、隊長は知らない。何歳だろうな」

「…犯罪だ」

「いいだろ、別に」

「それで自分の恋人に優先していい防具着けさせてんだ。公私混同って言わないか?そういうの」


 アーロンが顔をしかめつつ文句を洩らす。そう言われるとキースにもそれは不自然な事のように思えた。

 恋人という理由で贔屓すれば、他の隊員達の不信を買うだろう。


「……俺達に関係ないだろ」


 結局のところ、キースはそう言って話を締めた。

 アーロンは納得いかなそうに、「そうだけどさぁ」と唇を尖らせていた。



 しばらく何事も無く海上視察は続いていた。

 やがて甲板を歩いていたグレイスは、1人で見張りを続けていたアーロンのもとへ来ると、「こんにちは」と声をかけた。


「……どうも」

「バルジーは元気?」


 意外な問いかけにアーロンは苦笑すると、「ずっと会ってない」と返す。あれからゴンドールへの護衛はまだ頼まれていなかった。


「彼はあまり人を信用しない人よ。その彼が人を推薦したってことで、驚かされたわ」


 グレイスはバルジーを思い出したのか、ちょっと笑った。

 別に信用されているわけではなくてただの取引なのだが、そう言うわけにはいかない。アーロンは「ふぅん」と無難に応えるに留めた。


「なぜこの鎧がバルジーのものだって分かったの?」


 グレイスが自分の鎧を指して問いかける。アーロンは改めてその鈍い金色に目を遣ると、「…色で」と答えた。

 グレイスは感心したようだった。紫色の瞳を丸くして「へぇ!」と呟く。


「なんの色なのかしら、これ」


 何気なくそう言ったグレイスの言葉に、アーロンは彼女の意図を悟った。鎧の素材を知ろうとしている。それはバルジーの一番大事な秘密だった。

 アーロンとしてはうっかり知ってしまったに過ぎない秘密だが、ローランドに住むにあたってそれだけは死んでも漏らすなと言われている。

 アーロンは苦笑して言った。


「なるほど。それを知ってると思って会いに来たんだ。悪いけど、全然知らない」


 グレイスは少しの間黙ってアーロンの瞳を覗き込んだ。その目がまるで心の奥を読みとろうとしているようで自然と身が硬くなる。

 不意にグレイスはにっこり微笑むと、緊張を纏う空気を綺麗に消し去った。


「ちょっと聞いてみただけよ」

「ふぅん…」


 居心地の悪さを感じつつ、アーロンは海上に目を遣った。青い大海が広がっている。何気なく目を向けた先に船の影を見つけ、アーロンは「あ…」と声を洩らした。

 その場を去ろうとしていたグレイスが足を止めて振り返る。そしてアーロンの見ている視線の先を追った。


「…船ね」

「うん」

「なにか気になる?」


 グレイスの問いかけに、アーロンは海に目を向けたまま首を傾げる。


「…帆が所々破れてる。船も破損が目立つし、ずいぶん年季が入ってるわりに手入れも無い。普通の商船でも客船でもないような……」


 グレイスがハッとしたように船に目を戻した。真剣な表情で、しばらく遠くを見詰めていた。


「キースを呼んで。隊員達を集めてちょうだい」


 不意に、硬い声でそう指示を出す。


「え?」

「――早くして!」


 それだけ言って、グレイスは足早に去っていく。アーロンは慌ててその場を離れると、キースの姿を探しに向かった。



 グレイスともう1人の騎士を前に、キースとアーロンは並んで立った。キースの隊員達もその後ろに集合している。

 グレイスは先ほどの船影に目を向けた。今はまだ距離を保って進んでいる。


「まさか出会うと思ってなかったけど、手配中の海賊船の可能性が高いわ。絶好の機会だから捕らえるわよ」

「――反対です!」


 とっさにグレイスの隣に立つ騎士が声をあげた。


「危険です。人数も充分ではありません。この場は見送りましょう」

「いいえ、見送りません!」


 グレイスがその提案を即座に退ける。そして強い瞳で彼を睨みつけた。


「なんのための視察なの?遊びに来たんじゃないわ!隊長に何を言われているのか知らないけど、余計な口出しはしないで!!」


 騎士がぐっと言葉を呑む。グレイスの迫力に圧されているようだった。

 キースはグレイスの言葉から2人の関係図を理解し、1人納得していた。

 もう1人の騎士はグレイスの護衛役なのだ。安全なはずの仕事に派遣しても、なおも不安で付けているのだろう。

 どこまでご執心なんだと思わずにいられない。


「どのように接触する?」


 押し問答をしている時間は無い。キースはグレイスに問いかけた。グレイスもその目を騎士から外す。


「船を近づけて鉤付きの梯子を架けるわ。それで船の動きを止めて、その上で乗り込みましょう」


 海戦の場合、敵の船に乗り込むための一般的な方法だった。


「それはいいけど…」


 キースがちらりと後ろを気にする。


「あちらの人数が分からない上に、うちの隊員は経験不足だ。梯子を使って乗り込むのはいいが、乗り込めば敵に囲まれることになる。それに梯子を使って逆にこちらに乗り込まれる危険もある」

「その通りね」


 グレイスは頷くと、「効果的な方法が1つあるけど、可能かどうか判断して」と続けた。キースは黙って頷く。


「梯子をかけた上で、梯子の上で応戦すれば、1対1で闘えるわ。足場が悪い上に、何人相手にすれば終わるか想像もつかないし、相手を梯子に誘う必要があるけど。そうしてある程度人を減らしてから乗り込めば、勝算はあるわ」

「相手が飛び道具を持たなければね」

 

 確かに効果的だが、接近戦で応戦されなければ、それも危険な戦法だ。


「持っているかどうか、近付けば確かめられるでしょ?」


 グレイスの目に挑戦的な光が閃いた。こちらの姿を晒し、相手の手の内を確認する気らしい。

 キースはその瞳を受け止め、口元に緩く笑みを浮かべた。

 

「…やってみよう。梯子の数は?」

「2つよ」

「両方使う」

「2人も出れる?」


 2つの梯子を架けるということは、つまり梯子の上での戦闘を2人で行うことになる。


「とりあえず1人は自分が」


 そう言ってキースはその目をアーロンに向けた。


「できるか?」

「できると思う」

「じゃぁ、決まりだ」


 グレイスは2人に対し「私達も後ろで控えてます」と告げた。いざという時は戦闘に加わる準備を当然しておかなくてはならない。

 もう1人の騎士は何も言わない。ただ深刻な表情で事の成り行きを見守っている。アーロンは「梯子を運ぶぞ」と隊員達に声をかけた。そして足早に去っていく。


「あの人は……大丈夫?」


 ふとグレイスが、キースに問いかけた。アーロンのことを言っているらしい。少し不安気なその目に、キースは笑みを返す。


「”できる”と言っているから大丈夫だ。あいつは大きなことは言わない」


 グレイスはその答えに表情を緩めると、「了解」と小さく頷いた。



 軍船の接近に、海賊船らしき船はすぐに気付いたようだった。速度を上げて逃げようとする。

 その動きからして、まともな船とは思えなかった。確信を得て、軍船も速度を上げて行く。

 船の質の差により、その差はすぐに縮まった。

 そして接触する直前、船の上に居る男達の姿がはっきりと見えた。

 むさくるしい髭面の男達。キースの脳裏に、いつか見た海賊の姿が甦る。動揺を見せながらも、相手も覚悟を決めたのか武器を手に応戦の構えを取った。

 この時点で何の攻撃もないということは、弓矢などの飛び道具は持っていないと判断出来る。

 作戦決行可能と判断して、グレイスは指示を飛ばした。


「梯子を用意して!」


 兵士達が一斉に梯子を運んだ。

 キースとアーロンは船に向かってじっと立っている。迎え撃つ敵を見定めるように。

 やがて彼等のそばに、鉤付きの梯子が辿り着く。こちら側の甲板の縁に鉤を引っ掛け、船の距離が縮むのを待つ状態となった。

 相手はこちらの意図を察しているようだ。「乗り込んでくる気だ!」と騒ぐ声が聞こえる。

 海賊船の甲板には、次々と戦闘要員が姿を現した。その時、船同士が一瞬ぶつかるように接触した。

 そして離れた瞬間を狙い、グレイスは「架けて!」と声を上げた。


 梯子のもう片方の鉤が海賊船の縁に届く。ほぼ2つ同時だった。大きな音とともに鉤がはまり、船が離れる力に合わせて引っ張られ、固定される。

 その瞬間、アーロンとキースは同時に梯子に乗り上がった。


 海賊船に俄かに緊張が走る。


 梯子に上がった2人が降りてくるのを予期して、甲板には多くの男達が構えている。けれども2人は橋のように2つの船を繋ぐ梯子の上で留まると、彼等を見下ろしていた。

 海賊達は怪訝な顔を見せる。その間にも、軍船は接続した海賊船を牽引しながら動き始める。


「連れてかれるぞ!梯子を外せ!」


 誰かが叫んでいる。こちらの思惑通りに動揺してくれているようだ。そして梯子の上に居る2人を指差し、「叩き落せ!」と怒鳴った。

 指示に従うように男が2人、斧を片手にそれぞれの梯子に上がる。思った以上の揺れに戸惑いつつも、果敢に2人に挑んで来た。

 斧を振り下ろされたアーロンはそれを避けると男のわき腹に横から膝を入れた。あっけなくバランスを崩し、男は声を上げながら海へ落下していく。


 一方キースも海賊が斧振り上げた瞬間、その腕を剣で切りつけた。赤い鮮血がパッと飛び散る。それに男が気付くより前に足を蹴り飛ばし、そのまま海へ落下させた。

 落ちていく仲間の姿に、海賊達は怒りに燃えた声を上げる。そして次の男が梯子に上がって来た。

梯子の上から海賊達を見渡せるキースは、全員を統率する親玉の存在を確認した。


 キースの隊の兵士達は、全員呆然と彼等の背後から戦況を眺めていた。気持ちいいほど次々と海賊が片付けられていく。狭くて不安定な足場に船の揺れも手伝って立っているだけでも辛いはずのその場で、2人はまるで訓練場に居る時と変わらない動きを繰り広げる。その揺るぎない壁が、崩される気がしない。


「すげぇな…」


 誰かの呟きに皆茫然と頷いた。

 グレイスは戦う2人の背中を眺めながら、その形のいい唇に笑みを浮かべていた。



 結局予定通り、ある程度相手の戦意が喪失したところでキースとアーロンは船へ乗り込んだ。そして親玉を確保し、その身柄を拘束した。

 その瞬間まだ残っていたほかの海賊達は、全員軍に対して投降した。

 彼等はやはり手配中の海賊だった。騒ぎのおさまった海賊船に、やがてグレイスやキースの隊の隊員達も乗り込む。

 グレイスは拘束された海賊に対して向き合った。


「私はローランド近衛騎士隊の者です。貴方達の身柄はローランドに運ばれます。国籍は知らないけど、ローランドの裁きに従ってもらいます」


 海賊達は何も言わずに項垂れている。グレイスは彼等から離れると、キースのもとへ行った。そして彼の足元に座らされている男を見付ける。


「これが首領らしい」

「そう…ありがとう」


 グレイスは礼を言うと、改めてキースに向き直った。


「素晴らしかったわ。今回同行してもらったのが、貴方達で良かった。近衛隊長には、私からよく報告しておくわね」

「俺達は、きみの指示通り動いただけだ」


 グレイスがふっと目を細める。彼女の瞳が、日の光をあびて鮮やかな紫色になっている。その色は、やはり彼女によく似合っているとキースは思った。


「……いつか指示するだけじゃなくて、自分が動けるようになりたいわ」


 独り言のように呟いた彼女の言葉にキースは何も言わなかった。グレイスの瞳が再びキースを映す。


「また手合わせお願いできる?今度はあの赤毛の彼も一緒に」

「…喜んで」


 微笑んだキースに、グレイスも自然と微笑みを返した。

 静けさを取り戻した海は、空の色を映し、どこまでも穏やかに広がっていた。

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