兵士の休日
ある晴れた日、アーロンは久し振りの休暇の朝を迎えていた。
外はすっかり明るいが、ベッドの中でのんびりしている。好きなだけ寝坊が出来る幸せを味わっているところだ。それでも心はどこか物足りなさを訴えていた。
最近、あまりローラと接点が無い。もともと寄宿舎暮らしでない自分には仕方の無いことなのだが、姿を見れないと寂しさを感じる。
城に行かない休日には、偶然出くわす機会すら無いのだ。
―――今頃、働いているのかな…。
ぼんやりそんなことを考えていると、突然部屋のドアが勢い良く開いた。
「アーロン、朝だよぉーー!!」
元気のいい声が部屋に響く。アーロンはげんなりと目を閉じた。彼女の中に”朝のまどろみ”という言葉は無いらしい。
無視していると、遠慮なくベッドに乗っかってくる振動が体に伝わる。そして体の上に重さがかかる。やがてリンの顔が目の前に現れた。
「朝だよ!!」
「……知ってるよ」
アーロンはため息混じりにそう返した。
リンはアーロンの体の上に四つん這いで乗っかった状態で、顔を覗き込んでいる。若い男相手に女の子がやることとして全く適切ではないが、本人は至って無邪気である。
「どけ、お前は!俺は今日休みなんだぞ」
「そうだよ?だから、今日は剣の稽古の約束でしょ?」
文句に対してそう返され、アーロンは以前交わした約束を思い出した。
「……お前、学校休みなの?」
「お休みでーす」
嬉しそうに笑顔になる。今日はリンの友達に剣を教える日になっているようだった。
「先生、起きてください!」
リンの言葉にアーロンはやれやれとため息をつくと、「分かりましたよ…」と諦めたように呟いた。
リンの友達との待ち合わせは近くの広場だった。
アーロンとリンが到着すると、すでに彼は先に来ていた。まだ成長途中と思えるその少年は、黒髪に青い瞳の可愛らしい坊やだった。
「あの、はじめまして。ルイ・パーマーです」
そう言って丁寧に頭を下げてきた。
「よろしく。リンがいつもお世話になってるみたいで」
アーロンが言うと「いえ、そんな」と恐縮して赤くなっている。そんな反応がよりいっそう可愛らしい。生意気さの欠片も無い純粋な子のようだった。
ルイは木の剣を2つ持ってきていた。それを相手に真剣を使うわけにもいかず、アーロンも木の剣を借りて相手をすることにした。
「とりあえず軽く手合いしてみようか」
「お願いします!」
準備運動を兼ねて、アーロンとルイが剣を交わす。リンは近くの椅子に座り、2人の様子を興味深そうに見学していた。
そしてある程度体が温まった頃、アーロンはルイに指導を始めた。剣の持ち方、構え方、動き方を説明する。ルイは真摯な瞳で、それに聞き入っていた。
「避ける時は、大きく避けない。紙一重でかわせるようになるのが理想的だ。大きく動くと消耗するし、相手との距離もできるだろ。これは剣だけの話じゃないけどな」
そう説明して「突いてごらん」と促す。
ルイが剣を持って踏み込んできたところを、少し体を動かして避ける。アーロンの体のすぐ側を剣が通り過ぎる。
アーロンは剣と自分の距離を指し示して「このくらい避ければ充分」と説明した。
「……はい!」
肩で息をしながらルイが答えた。だいぶ疲れてきたらしい。
「休もうか」
アーロンはリンに向かってそう提案した。リンはにっこり微笑んで頷いた。
広場で飲み物を飲みながら、体を休める。ルイは「やっぱりすごいですね。本職の方は」と興奮気味にアーロンを賛美した。
そんなルイに、いつものような硬さは無い。生き生きと語る様子が嬉しくて、リンも自然に笑顔になった。
「俺、兵士になりたくて。いつか城で働くのが夢なんです」
「へぇ…」
聞いていた話だったが、改めて本人の口から聞くとなにやら不思議な気分だった。
他に選択の余地が無くて兵士になった自分と違い、それを目指す者も居る。
「大変ですか?兵士って」
ルイの問いかけにアーロンは「どうかな」と首を傾げた。
「まぁ体力は必要かな。寝ないでも大丈夫な体とか」
「すごいですねぇ」
「いや、すごくないから…」
そうまともに尊敬されると恐縮してしまう。アーロンはくすぐったい気分を味わいつつ、頭を掻いた。
その後また稽古を続け、昼食を食べてその日は終わりとなった。
家への帰り道、前を歩くアーロンの後ろで、リンとルイは並んで歩きながらずっと話をしていた。かなり盛り上がっている。
「すごくためになった。本当にありがとう」
「ううん、私も楽しかった!また一緒にやろうね」
「うん!」
ちらりと後ろを振り返ると、ルイが頬を染めてリンに話しかけている。その目ははっきりと恋する少年の目だった。
子供だとばかり思っていたリンも、同じ年頃の子からすれば立派に1人の女の子らしい。そんな光景を何故か見ていられなくて、アーロンはまた前を向いた。
―――これが、娘を取られる親の気持ちかなぁ……。
複雑な心境をそう解釈し、アーロンは小さくため息を洩らした。
◆
アーロンが休暇をすごしている間、キースも同じように休暇を取っていた。とはいえ寄宿舎に居るのは変わらない。
昼食時にはいつものように食堂に行った。
1人で食事をしていると、不意に自分の隊の兵士が現れた。彼は仕事中なのだろう。制服姿である。
キースを見つけ、駆け寄ると、さっと敬礼した。
「すみません。休暇中に。バッシュ上級兵隊長からの伝言をお伝えしに参りました!」
「……それはどうも」
「本日の夕食後、訓練場へ行ってくださいとのことです!」
キースの形のいい眉がひょいと持ち上がる。
それ以上何も説明しない兵士に「分かった。ありがとう」と礼を言うと、彼は「失礼しました!」と慌ただしく去って行った。
訓練場へ夜に行けと言われる心当たりとしては、グレイスとの約束しか無かったが、まさか本当に呼ばれるとは思ってもみなかった。近衛隊長は来るのだろうか。
そんなことを考えつつ、キースは食事を続けることにした。
その時、不意に食堂に入ってくる侍女の姿が目に入った。知っている顔だ。確か上級兵士付きの侍女だった。
そう認識した瞬間、彼女がキースの存在に気付く。けれどもすぐに、その目を逸らした。
侍女が足早に厨房へ向かおうとしたその時、彼女の後ろから「姉さん!」と言いながら1人の少女が現れた。
―――”姉さん”?
キースは食事をしながら、その光景を見るとはなしに見ていた。
「キャリー!」
侍女が驚いたような顔をしている。”姉さん”というからには妹なのだろう。
城で仕事をしている者の身内と証明されている人間は城の庭に入ることができることになってはいるが、それは緊急事態に限られる。
どうやら緊急事態らしいとキースは理解した。
「どうして、あなた…!どうやってここまで…!学校は??」
自分に駆け寄った妹を見て、侍女はただ動揺している。侍女と同じ栗色の髪をお下げに結った妹は、姉の驚きにためらいがちに「今日はお休みで…」と説明した。
「嘘よ!お休み、終わったばかりじゃない!あなたまた勝手に休んだの?!」
侍女が怒っている。妹は姉に責められ、しゅんとする。
「だって、今日は姉さんのお誕生日だし…」
「そんなこと…!!」
うっかり声が大きくなったらしい。侍女はキースの方を一瞬気にしたが、また妹に向き直るとその両肩に手を置いた。
「お誕生日祝ってもらえるのはすごく嬉しいけど、でも学校にはちゃんと行かないとダメって、いつも言ってるでしょ?私が何のためにお仕事してるか分からなくなっちゃう!」
妹は何も言えずに俯いている。侍女はそんな彼女の様子を気遣ってか、声音を穏やかにして語りかけた。
「今日は早めに帰るから、今からでもちゃんと学校行って?……わかった??」
妹は何も言わない。
「キャリー!」
姉が少し声を荒げる。キャリーは俯いたまま、「わかった…」と答えたようだった。
そして姉に促されるままに食堂を出て行く。その足取りはとても重そうだった。
侍女は妹を送り出すと、一瞬キースに目を向けた。そして”お騒がせしました”というように頭を下げると、今度こそ厨房へと去って行った。
目の前で繰り広げられた騒動が終わり、キースはまた何事もなかったように食事を再開した。
折角の休暇なので王都にでも出てみるかと思い立ち、食事が終わったキースは城を出た。
そして王都への道を歩き始める。天気が良く、道は人で賑わっている。綺麗に舗装されたその道はアリステアとはだいぶ印象が違い、品が良い。街並みも目に楽しい美しさだった。
しばらく歩いていると、川を渡る橋に差し掛かった。そこの柵にもたれかかるようにして、川を覗き込んでいる少女の姿が目に入る。
それは先ほど食堂で見かけた、上級兵士付きの侍女の妹だった。
結局学校へは行っていないのだろうか。ぼんやり川を見る彼女の表情は翳りを帯びている。
キースは何気なく、彼女のもとへ足を向けていた。
「……どうした?」
声をかけると、彼女は驚いたように振り返った。その目には明らかな警戒の色が見える。
キースは自分が見知らぬ他人であることを思い出し「あぁ、ごめん」と謝った。
「俺は城で働く兵士だよ。さっき食堂で会ったよね。君の姉さんにはいつもお世話になっているんだ」
キースの説明に妹は緊張を解き「あぁ…」と呟いた。
「ローラ・ワイルダーの妹の、キャリーです。こちらこそ、姉がお世話になっています」
しっかりとした挨拶をして頭を下げる。
その言葉でキースはローラの名前を思い出した。あまり接点が無いので顔は覚えてるけど名前はなかなか覚えられない。
「ここで、何してるの?」
キースの問いかけにキャリーは顔を曇らせ「なにも…」と答えた。また川に向き直ると、ぼんやりとそれを見下ろす。
「……学校に、行かないんだ」
キースの声は届いているだろう。けれどもキャリーは何も言わずに俯いている。
答えは無くとも明らかだ。キースは彼女の気持ちを代弁するように「…行きたくないんだ」と呟いた。
2人の間に沈黙が流れる。
「それなら一緒に王都にでも行かない?俺も1人で時間をつぶしに行くところなんだ」
キースの誘いに、キャリーは驚いたように顔を上げた。
「いいんですか?!」
キースはちょっと笑うと「いいんじゃない?」と返す。 キャリーはその言葉でやっと笑顔になった。
「行こうか」
「はい!」
2人は並んで歩き出す。予想外の小さなお供を連れて、キースは王都を散策しに出かけた。
ひとしきり王都を歩き回り、キースとキャリーは夕方には城に戻ってきていた。
キャリーはお小遣いをはたいて馬車を乗り継いで城まで来たらしい。
帰りはローラと一緒に帰るべきだろうということで、キースはキャリーをまた城へと誘った。
キャリーは「姉さん、怒るかも…」と少し怯えていたが、キースが「俺から話すよ」と言うと、安心したように付いてきた。
城に戻ると、キースはキャリーを寄宿舎に連れて行った。
「俺はここに住んでるんだ」
「そうなんですか!」
明るさを取り戻したキャリーが笑顔でそう応える。そして一緒に寄宿舎の廊下を歩き、とりあえずキースの部屋に向かった。ローラの仕事が終わるまで、そこで待っていてもらうためだ。
部屋の前に辿り着いた時、廊下に「キャリー!!」と驚きを含んだ声が響いた。
キースは声のほうに目を向ける。そこには目を見開いたローラが立っていた。
「あぁ、丁度良かった」
キースが何か言う前に、ローラは素早く妹に駆け寄った。そしてその腕を引っ張ってキースから引き離す。
そしてキャリーの前に立ちはだかると、キースを強く睨みつけた。
「――妹に、なにするんですか!!」
ローラの剣幕に、キースとキャリーは揃って目を丸くした。
どうやら妹を狙う狼と間違われたらしい。ローラの誤解を察し、キースはぷっと吹き出した。
「なんですか?!」
ローラがすかさず噛み付いてくる。キースは笑いを堪えながら、ローラが向ける敵意を軽く払いのけるように片手を振った。
「いや、ごめん、悪いけどそこまで不自由してないんだ。こんな小さい子に手出さないよ」
笑われた悔しさのせいか、ローラの顔がかぁっと赤くなる。
ローラの後ろからキャリーが「姉さん、どうしたの?」と覗き込んでいる。彼女にはローラの怒りの意味が分からないらしい。
「……どうして妹と一緒に居るんですか?説明してください」
ローラはなおもキースを睨み、唸るように言った。
「散歩してたら偶然会ったから、ちょっと散歩につきあってもらったんだ。おかげで楽しかった」
悪びれなくそう返すキースに、ローラは信じられないというように顔をしかめた。
「この子は学校に行かないといけなかったのに!!ひどいです!!」
怒りをぶつけられたキースは平然と「たまにはいいんじゃない?」と返す。
ローラの顔は、さらに険しさを増した。
キースはそんな彼女に「聞いたよ。家族2人きりなんだってね」と言った。
「その1人きりの家族が必死で会いに来たんだ。話くらい、聞いてあげてもいいと思うけど」
キースの言葉にローラは目を伏せた。
「一緒に暮らしてるんです。家に帰れば会えるんだから別に…」
「家でなら、聞いてあげてるわけ?」
かぶせるように問いかけると、ローラはまた顔を上げて彼を睨んだ。
「キース様には、関係のないことです!」
「――そうだよ」
キースが静かに応える。
「俺には関係ない。きみの妹は、きみに話があるんだ」
ローラが言葉を失くす。しばらくキースの冷静な青い目を見返していたが、やがて振り返ると、その目を妹に向けた。
キャリーは少し怯えたように、ローラの顔を伺っていた。
「話が…あるの?」
その問いかけに、キャリーは何も答えなかった。ただその目にゆっくりと涙が滲んでくる。
妹の涙に、ローラは困惑の表情を浮かべた。キャリーは躊躇いつつ、やっと口を開く。
「…もう、学校行きたくない…」
「――だめよ!!」
ローラはとっさにそう返していた。
その勢いに、キャリーは一瞬ビクッと体を震わせると、両手で顔を覆った。声を殺して泣き始める。そんな泣き方をする妹を見るのは初めてのことで、ローラの胸はしめつけられるように苦しくなった。
「キャリー…」
怯えさせてはいけないのだと、ローラは自分に言い聞かせた。そしてなるべく穏やかにと気を付けながら語りかける。
「ねぇ、キャリー。姉さん、学校行けなかったの、知ってるでしょ?だからあなたには絶対行って欲しいって、思ってるの。そう、いつも言ってるでしょ?」
キャリーは何も言わない。ただ泣き続けるだけだった。
ローラは困り果てて、妹を見ていることしかできない。そんな彼女の後ろから、ふとキースの苦笑が聞こえてきた。
「本当だ。話にならないね」
ローラがキースを振り返る。
「どういう意味ですか」
思わず声に怒気が混じる。キースはそんなローラの様子に呆れたような笑みを浮かべた。
「きみの気持ちなんて、この子は充分分かってるよ。だからなかなか言い出せなかったんだろ?きみはこの子の気持ちを聞いてあげる気は無いの?」
そんな言葉にもローラの中でただ怒りが沸くだけだった。思わず「あなたには、分かりません」と責めるように言い返した。
「学校を出ていない者は将来差別を受けるんです!私が身をもって実感しています!妹にそんな想いをさせたくないっていう気持ちの何が悪いの?!」
いつの間にか感情的になっていた。様々な想いに押し出され、ローラの目にも涙が浮かんでくる。
キースはそんな彼女の怒りを、ただ冷静な目で受け止めた。
「だから、それはきみの気持ちで、きみの都合だ。きみの憧れて止まない”学校”で、妹さんは苦しんでる。それも事実だよ。姉の気持ちに応えようと必死で我慢していたけど、耐えられなくなって、ただ1人の肉親に助けを求めたいと思っている。…そんな気持ちの、何が悪い?」
ローラの頬を涙がこぼれて落ちた。体が震えて声が出ない。キースはそんなローラの涙にも、全く動揺を見せなかった。
「妹が大事なのはよく分かる。きみの主張も正しい。でも世の中に正しいことはひとつじゃない。頼ってくれる肉親が居るのは、幸せなことだと俺は思うよ。苦しい時に頼られる自分に…俺もできればなりたかった」
ふとキースは目を伏せた。
何を言っているのだろうと内心で自嘲した。ローラにとって意味の分からない言葉まで口から突いて出てしまった。
キースは軽く苦笑を洩らすと、自分の部屋の扉を開けた。
「2人でゆっくり話すといいよ。…それじゃ」
そう言って最後にキャリーに目を向ける。
「ありがとう、キャリー。今日は楽しかった」
キャリーは顔を上げてキースを見ると、涙に濡れた顔で微笑みを返してくれた。
キースはそれを確認すると、部屋の中へ入って行く。
閉じられた扉を見つめながら、ローラは放心し、ただ静かに涙をこぼしていた。
◆
その夜、夕食後にキースは兵士からの伝言に従い、いつかのように訓練場に向かった。
あの後ローラと顔を合わせることは無かった。妹と話し合いができたのかどうかもわからない。
けれどもこれ以上は家族だけの問題で、自分には関係のない事だとキースは思っていた。
訓練場に着くと、まだ誰の姿も無かった。少しの間そこで待っていると、やがて遠くから近寄ってくる騎士の姿が見えた。
それは紛れも無く、グレイスだった。
あの日と同じように髪をまとめてある。キースの姿を見つけ、にっこりと微笑む。
キースは頭を下げてそれに応えた。
「よかった。無事伝言が伝わったのね」
グレイスは側に来ると、まずそう言った。
「危なかったです。自分は今日、休暇を頂いていたので」
キースがちょっと笑いながら答える。グレイスは目を丸くすると「そうなの?!ごめんなさい!」と謝った。
近くで見るグレイスの瞳は、黒ではなく、濃い紫色だった。大人びた彼女の雰囲気によく似合っている。
「今日は近衛隊長は…」
キースの問いかけにグレイスはにっこり笑うと「置いてきたわ。過保護でうるさいから」と答えた。
キースは思わず吹き出した。
彼女にかかれば、近衛騎士隊長もただの”過保護でうるさい”になってしまうらしい。
「じゃ、始めましょうか」
「はい」
キースは応えると剣を抜いた。グレイスが、少し困ったような笑みを浮かべる。
「そんな堅苦しくならないで。あまり歳も変わらないでしょ?」
そう言われるとその通りなのだが、どうしても普通に接するのは躊躇われる。キースは、「立場が違いますから」と返した。
「立場って…?」
「貴方は騎士で、自分は兵士です」
「なんだ、そんなこと…」
グレイスは力が抜けたように笑う。
「私自身の力で騎士にのぼりつめたのなら威張ってもみるけど、残念ながら単なる家の力よ。あと……近衛隊長の、ね」
―――近衛隊長の…。
彼の権力で恋人を近衛騎士隊に引き込んだということだろうか。一度だけだが、相対した近衛騎士隊長の”人となり”から、あまり想像できない行動だと思えた。
「近衛隊長が、貴方を騎士に?」
キースの質問にグレイスは片手を顔の前に出して「それについては、あまり聞かないで」と遮った。そう言われると追求はできない。それ以上は何も聞かないことにした。
「とにかく、堅苦しいのはやめてね」
重ねて頼まれる。キースはふっと笑みを漏らすと、観念して頷いた。
「…了解」
グレイスは納得したように微笑むと、剣を抜き、キースとの距離を取る。
改めて向き合うと、「遠慮しないで相手してね。私の周りは変に遠慮する人ばかりで、つまらないの」と言った。
彼女の周りの者というのは近衛騎士隊の隊員だろうか。
遠慮してしまうとしたら、それは隊長の存在が大きいのかもしれない。
「本気になるかどうかは、相手次第だよ」
キースはそう言うと、その顔に挑発的な笑みを浮かべた。グレイスはその変化にちょっと目を丸くする。
けれどもすぐに顔を引き締めると、剣を持つ手に力を込めた。
「行くわよ」
「どうぞ」
その言葉を合図に、静かな夜の訓練場には剣の音が響き始めた。
グレイスの剣筋は、やはりアルベルトによく似ていた。彼に直接教えられてきたに違いない。
力と速さはまだ足りないが、持久力が高く、女性にしては充分手応えがあると思えた。
―――うちの隊員より、筋はいいかもしれない。
キースはそんな感想を抱きながら、突いて来たグレイスの剣を自分の剣で受け、そのまま滑らせるように一歩前に出た。
キースの剣先は、グレイスの喉元でピタリと止まった。
そして2人の動きも止まる。
「…勝負あったわね」
グレイスがふっと力を抜いてそう言った。キースは剣先を下ろすと、一歩退がる。
「やっぱり全然、まだまだだわ」
額に手を当て、グレイスは溜息混じりに呟いた。
「いや、”全然まだまだ”ではないよ。”まだまだ”だけど」
グレイスは一瞬瞠目したが、すぐ力が抜けたように肩を落とした。
「悔しいけど、言い返せないわ…」
二人は目を合わせ、同時に吹出した。和んだ空気の中、グレイスは改めてキースに礼を言った。
「楽しかったわ。ありがとうね」
グレイスは剣を納めたのを見て、キースも同じように剣を納める。夜の訓練場に、また静けさが戻った。
「あなたはなぜ、兵士になったの?」
不意にグレイスが問いかけた。
その意外な質問に、キースは少し考えると「強い志あってのことじゃない。自分にできることがこれだけだったんだ」と答えた。
我ながら最低な回答だと思うが仕方が無い。それが正直な理由なのだから。
アリステアで騎士になった時とは、違う。
「そう…」
グレイスは特にキースの答えに何か言う事はしなかった。彼女の伏せた長い睫が、顔に影を落としていた。
「…きみは、何故騎士に?」
ふと知りたくなって、キースは逆に問いかけていた。
グレイスは目を上げると、憂いの映る瞳を微かに細める。
「護ってもらうばかりの立場は嫌だったから。自分のことくらいは、自分で責任を持ちたかったから」
意外な答えだった。そんなキースの気持ちを察したようにグレイスは「おかしいでしょ」と言った。
「私も”強い志”とは言えないわね。でも”国を護る”なんて、とても言えないわ。そんな力が無い事は自分が一番よく分かってる。ただ、せめていざという時、足を引っ張る存在にはなりたくなくて…」
誰の”足”だろう。そう思いながら、ふとキースの頭には近衛騎士隊長の姿が浮かんだ。
騎士隊の長として国を護る立場の彼。そんな男の側に居る者としての言葉なのだろう。
「近衛隊長は、むしろ護らせて欲しいと思っている気がする」
「その通りよ!」
グレイスは眉根を寄せて言った。
「できれば剣を持たないで欲しいっていつも言ってるわ。私に剣を教えたのは、自分のくせに。勝手よね!」
この場に居ない恋人への文句に、キースは何も言わず微笑む。隊長の気持ちは、同じ男としてよく分かる。
「キースは、居ないの?」
グレイスの問いかけにキースは眉を上げた。グレイスは一呼吸置いて、「…護りたい人は」と続ける。
―――護りたい人…。
今はもう遠い日々が脳裏に甦り、キースは目を伏せると、ふっと微笑んだ。
「そうだね。今は……もう居ない」
「”今は”?」
「護れなかったんだ」
グレイスは何かを察したのか、それ以上何も聞かなかった。
何故こんな話をしているのだろう。知り合ったばかりの女性を相手に。
目を閉じると、懐かしい姉の姿が瞼の裏に映る。
護りたいと思っていた。
けれども彼女は自分に護られる気など、無かったのかもしれない。
何一つ話すこと無く、たった1人で逝った姉。
「いつか……また”剣を持つ理由”ができるといいわね」
不意にグレイスが呟いた。
どこか遠くを彷徨っていたキースの意識が、ふと目の前の騎士へと戻る。グレイスの紫色の瞳は、静かにキースを映していた。
そして優しく細められる。
「あなたの過去は戻らないけど、あなたの未来は続いていくのよ…」
囁くように、彼女は言った。ごく当たり前とも思えるそんな台詞を。
―――未来…。
キースはその言葉を心の中で繰り返す。
「それじゃ、戻るわね。今日は本当にありがとう」
グレイスはそう言うと、キースに背を向けた。月明かりの下、女性騎士の姿がゆっくりと遠ざかる。
その背中を見送ると、キースは空を仰いだ。
久し振りに見上げた澄んだ夜空には、満点の星が輝いていた。




