娘の為に
リンティアが投獄された日から、その後数日が経った。
アイリスは何度も女官を通じて国王への謁見を求めたが、叶わなかった。”今は都合が悪い”という返事が返ってくるだけだった。怪我のためかもしれない。けれどもただ話を聞いてもらいたいだけなのに。なす術も無く過ぎていく日々に、アイリスはただ苦しむしかなかった。
愛する娘がどんな想いでいるのか。それを思うとたまらなかった。
あの日起きたことは、何度思い返しても理解ができない。国王陛下は、間違いなく、自分で自分自身を刺したのだ。自分の持っていた剣で。
リンティアに濡れ衣を着せるための手なのかとも思ったが、あの時本気で国王は動揺していた。まるで自分で刺したという事実が、信じられないというように。
リンティアが投獄されたという話はまだ公になっていない。
なんとしても罪状を取り消してもらわなくてはならない。そのためなら、どんなことでもすると、アイリスは覚悟を決めていた。
ある日、久し振りにジークフリードがアイリスの部屋を訪れた。アイリスはその知らせに、慌てて入口まで彼を迎えに出た。
ジークフリードはそんな駆け付けたアイリスに嬉しそうな笑みを浮かべた。彼は少し足を引きずっていたが、自分で刺したためかそれほど深い傷ではなかったようで、歩くことはできていた。
侍女が退出し、2人だけになる。
アイリスはそれを待ちわびていたように、口を開いた。
「陛下……リンティアは…」
そこまで言って口を閉ざす。それ以上問いかけるのが恐ろしかった。アイリスの体は小さく震えていた。
ジークフリードがふっと笑みを漏らす。
「私も鬼ではないよ、アイリス姫。あなた次第では、考えようと思っている」
”あなた次第では”
その言葉はアイリスの胸に重くのしかかった。けれども迷いは無かった。アイリスはジークフリードの目を真っ直ぐに見詰め返した。
「陛下の、お望みのままに」
アイリスの言葉に、ジークフリードは満足気な笑みを浮かべた。
◆
寝台の上で思いを遂げた後、ジークフリードは名残惜しむように隣に横たわるアイリスの白い肌に手を這わせていた。
「思った以上に、素晴らしかったよ…」
王の囁く声に何も応えず、アイリスはただ目を閉じていた。もう何も感じなかった。恐怖も、悲しみも無い。リンティアの無事と引き換えにするならば、失えない物など無い。
「お前はこれからは、俺の妃だ…」
「はい」
素直に頷いたアイリスに、ジークフリードは満足したようだった。また覆いかぶさって唇を落す。
「ずっとお前が欲しかった。父上が、憎くてたまらなかった。この日をずっと待っていたんだ…」
うわごとのように囁きながら、ジークフリードは夢中でアイリスに触れた。そんな姿はまるで母に甘える子供のようにも思える。父の愛も母の愛も知らずにただ育った子供。そうなった原因は自分にあるのかもしれない。ヨーゼフを独り占めした自分に。
アイリスは胸に広がる痛みに、ただ固く目を閉じて耐えた。
◆
”アイリスを妃に迎える”という息子の報告に、カーラはただ目を見開いて凍りついた。目の前の息子の目には、揺ぎ無い決意が感じられた。
「何を…言い出すの…あなたは……」
やっとのことで声を出す。とても信じられなかった。
「構わないだろう。父上はもう居ないんだ」
平然と言ってのける。カーラは信じられないというように首を振った。
「あの女の娘が…あなたを刺したのでしょう?」
リンティアが投獄されたと聞いたとき、カーラの胸は歓喜に震えた。目障りな王女が消える。そう思ったのに。
「その罪を許すというの?!」
リンティアは今も牢に入っているはずだった。まだ刑罰は決まっていない。ジークフリードがその件を先延ばしにしている事も、ずっと納得がいかなかった。けれどもそういうことかとカーラは思った。また、あの女が…。
ジークフリードはしばらく黙って母を見ていたが、やがてふっと笑みを漏らした。
「…リンティア王女は、もう居ない」
「――え?」
カーラは思わず聞き返した。ジークフリードはそんな母の疑問に答えるように「もう処刑した」と言った。
カーラは目を見張った。
「処刑…した?」
そんな話は全く聞いていなかった。ジークフリードが冷笑を浮かべて頷く。
「結果的にね」
息子の言葉にカーラは困惑した。”結果的に処刑した”というのはどういうことだろう。意味が分からない。
母の困惑を解くように、ジークフリードが説明する。
「ゴンドールに連れて行かせた。もう3日も前だ。生きているはずがない」
―――ゴンドール…?
「なぜそんな手のこんだ……。公開処刑にすればよかったのに…」
そう呟いたカーラの疑問は最もだった。ジークフリードは何も答えず目を閉じた。そして再び目を開けると、真っ直ぐ母を見据えた。
「とにかく…。リンティア姫のことはしばらく公表しない。アイリスは、俺の妃にする」
一気にそう言うと、まだ呆然とするカーラへ「以上だ。もう決めたことだ。意見は許さない」と叩きつけるかのように言い捨てた。
まだ何か言いたそうだった母を部屋から追い出し、ジークフリードは1人になった。
今夜はアイリスに部屋に来るよう言ってある。そろそろ現れる頃だ。無粋な母に邪魔をされては敵わない。ジークフリードはその顔に笑みを浮かべ、感嘆の吐息を漏らした。
まだ夢を見ているような気がする。すぐに覚める幸せな夢を。長いこと焦がれ姫が遂に自分のものになった。その感動が、体中を支配する。
初めてアイリスと出会った遠い日、自分はまだ15歳だった。
なんて綺麗な少女だろうと思った。どんな姫君よりも彼女は輝いて見えた。
いつも父に寄り添うようにして側に居たアイリス。いつしかジークフリードはいつも彼女を目で追っていた。
国王という権力を以て美しい姫を思うがままにする父。自分も王位につきたいと思った。そうすることで、あの姫が手に入るならと。
アイリスにリンティアのことは伝えない。リンティアを救おうという想いで、今アイリスは自分を受け入れている。その想いをいつか自分自身に向けてみせる。そうして、娘のことなど忘れさせてみせる。
ジークフリードは椅子から立ち上がった。まだ足に鈍い痛みが走る。あの日の傷によって。
あの日何が起こったのかは、ジークフリードにも判然としない。けれどもあの姫の翡翠色の瞳を見ているうちに、まるで自分の体が自分のものではなくなるような感覚を覚えた。
自分の意思とは無関係に体が動いた。そして自分を刺していた。
あの後、何度も思い返しては考えてみたが、理解を超えた現象に説明のつく答えは出せなかった。けれども漠然と感じたことは、あの姫を生かしておいてはならないということ。
だが処刑を実行するのはためらわれた。処刑したとなればアイリスの耳に入る。そうしてアイリスが自分の言う事を聞かなくなっても困る。リンティアは、切り札なのだ。
どちらにしろゴンドールで、今頃姫は跡形も無く食われていることだろうが。
アイリスには、ただの行方不明としてそのうち知らせればいい。どのように探しても、どうせ見つからない。
「――陛下」
侍女の声にジークフリードは振り返った。
「アイリス姫様がいらっしゃいました」
侍女が無表情に報告する。ジークフリードは笑みを浮かべると「通せ」と短く命じた。