はじまりの狼煙 (2012年)
焦がれた大地に滴を落とし、闇夜を照らし民を導く
皆の願いをその身に背負い、拠り所として悠然と在る
砂漠の闇に美しくある白銀の月のように
貴方の背中は希望そのものだった
たった一夜だ
冷たい夜風に目を伏せたその一瞬に
凍てた月は光を失い、民は行く先を失った
もし、なんて無いけれど
もしあの夜、私が部屋を出なければ
もしあの重く、冷たい扉を開けなければ
貴方は今も照らし続けていたのだろうか
*********
濃紺の空を橙のベールが包みこんでいく。
徐々に混ざりゆく光の帯が、ガルディ国に1日の始まりを告げる。
蛍は眠気眼をこすりながら、ゆらゆらと荷台に揺られていた。
ひとつに纏めた水色の髪が、風に合わせて首筋をくすぐる。
ふと遠くを見れば、先ほどまで地平線に隠れていた太陽が、もう山頂を追い越そうとしていた。
恨めしげにそれを睨むと、この程度で根をあげるなとばかりにギラリと光った。
大気は徐々に熱気を取り戻し、額には早くも汗が滲む。
蛍はやりきれぬ怒りの矛先を、黙々と手綱を引く背中に向けた。
「お兄様、そろそろ休憩に致しましょう」
涼風は、何も答えない。聞こえなかったのだろうか。
「涼風お兄様」
「駄目だ」
わずかに振り向いて、涼風は顔をしかめた。否、しかめているのではなく、この不機嫌面が彼の常なのだ。
幼さの残る顔に不釣り合いな、強健な体格と鋭い眼光は父親譲りである。15歳という年齢にそぐわないその風貌にそのぶっきら棒な性格が加わると、彼を知らない者ならば例え大人であっても恐怖を抱き、己の言葉を呑んだ。
本当は、少し不器用なだけの優しい兄なのだ。
誰よりそれを理解していた蛍は、口を尖らせて堂々と悪態を吐いた。
「お兄様の、ケチ」
「蛍」
「お兄様のあんぽんたん、眉なし、筋肉馬鹿!」
「…眉毛はある」
涼風が眉にそっと指を添えて呟く。
荷台に積まれた大きな籠に寄りかかると、蛍はため息をついた。
「お兄様…間に合うかな、戴冠式」
「だから、花なんて後で探せば良いと言ったじゃないか」
「だめ!」
跳ねるように飛び起きた蛍が、小さな腕で籠を抱きしめる。その勢いで薄桃色の花弁が数片零れ落ちた。
「これはお守りの聖なる花なの。王様になるその日につけなきゃ、効果が無いんだって」
「それなら尚更、休んでいる暇はないな」
涼風が鞭を入れると栗毛の耳がピンとそば立ち、馬が速度を上げた。
荷台が揺れ、蛍が小さく悲鳴を上げる。
瞬間、遠方から高らかなラッパが鳴り響いた。慣れ親しんだメロディが続く。
ガルディ国の国歌だ。
「始まったみたい…お兄様、急いで!」
「分かっている」
荒くなる馬の鼻息を聞きながら、蛍は急くように散らばる花を拾い集めた。
軋む車輪の音に勇壮な歌声が重なる。はやる想いに鼓動が高鳴る。
喉元までこみ上げた想いを、蛍は国歌に乗せた。
ガルディ、我は大地に生きる
東の果ての西の先
黄金の稲穂が太陽に揺れる
ガルディ、我は砂漠に生きる
白銀の砂が深紅に染まる
皆よ轟け君に続け
ガルディ、それは守り人
誉れ高き永久の戦士
国家を歌いあげると、群衆の熱気は更に増した。
絶えず押し寄せる歓声が、壁を越え愛華の身体に響く。
侍女が襟を正し終えると、愛華は純白の外套を翻して扉を仰いだ。
「宜しいですか」
扉の両端に配置された従者が声を揃え問いかける。が、若い従者の語尾が裏返り、年配の従者は思わずしかめた顔を慌てて戻した。
二人とも張り詰める緊張感に必死で耐えている、そんな様子である。
愛華は少し苦笑すると、従者に優しく頷いてみせた。
少し気持ちが和らいだのか、従者は愛華に頷き返すと、息を吸い込むとゆっくりと扉を開けた。
次第に大きくなる歓声が、重たい扉の音を掻き消していく。
目の眩むような光が愛華を迎え、歓声が鼓膜を圧す。
目前には寸分の狂いもなく整備された庭園が広がっていた。
太古の神殿跡に建てられた、石造りの祭壇がその先に見える。
深紅の絨毯が、そこへと続いていた。愛華が王になるまでの、遠い一本道だ。
地鳴りのように響く歓喜の声。突き上げられる拳の渦。その中へまさに飛び込まんと、愛華は大きく一歩を踏み出した。
祭殿の前に設けられた王座には、泰然と愛華を待つ父の姿があった。
全てを包みこむような、透き通る空色の髪、厳かな大木を思わせる深緑の瞳が真っ直ぐに愛華を見据える。
改めて感じる「国王」の存在感に圧倒されながら、愛華はその前に跪いた。
「ただ今参りました」
愛華の膝が地に着くと同時に、ガルディ国第25代国王がゆっくりと立ち上がる。
思わず小さく息を呑む。
ふと、背に触れた温かな感触に驚く。寄り添うように、大きな手が触れている。顔を上げると、そこには息子を想う優しい父親の顔があった。
「お前を誇りに思うよ、愛華」
「父上」
「誰もが、お前を心から祝福している」
愛華は少しはにかんだように目を伏せると、再び頭を下げた。
誇り。ガルディの第一皇子として皆に見上げられ続け、18年を生きた。
期待、重圧、責任、それはいつも当たり前に、自分の隣りにあった。
辛いと思ったことも、逃げたいと思ったこともない。それ以外の道を生きたいと思ったことも無い。それが己の運命だからだ。
「お前の母上も、天上からお前を見て喜んでいるだろう。
私の病のせいで急な戴冠式となったが、お前の顔を見て私は安堵した。お前は皆の希望になる」
「早く父上に追い付けますよう、全力を尽くします」
「私と言わず、一族きっての名君となってくれ。お前にはその才がある。
全ての国民が、王宮の従者が、そして優秀な弟と妹がお前とともにあるだろう」
愛華は祭殿の露台に設けられた親族席に見やった。
今は亡き母親の写真が、妃用の席に置かれている。母は温かな笑みを浮かべ、こちらを見つめていた。
ふと、その隣に設けられたふたつの席が目に入った。ぽっかりと空いたその椅子に、待ち人が来る気配は無い。
完璧に整えられた会場の中で、ふたつの欠陥だけがあまりに不格好だ。
「その弟妹には、祝福されていないようですがね」
「…愛華。それは」
王が顔をしかめて何かを言いかけた時、真っ白な礼服に身を包んだ神父が現れて二人に合図を送った。
会場が静まり返り、その余韻が木霊する中で、神父は褐色の煉瓦でできた祭壇に手を当てる。
よろしいですか、と温かな微笑みを添えながら、神父は真っ白な聖典をめくった。
朗々と力強く、しかし穏やかな声が響く。
「全ての始まりの国、ガルディにて その光の血筋を受け継ぎし子よ。
ここに己の全てを捧げることを誓い、この王冠を受け取られよ。
金色の砂地が緑溢れた太古より、受け継がれてきた冠である。
ガルディの守護があらんことを」
しわの刻まれた神父の指が胸元で印を結び、それを合図に王が自ら冠を外す。
一同が息をひそめ、その光景を見守った。
鈍った金色の輝きが、その歴史を物語る。金属の重さがゆっくりと、愛華の頭に乗せられる。
名残惜しむように、王の手が離れようとした時だった。
「ぁあーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!どいてーーーーーーーー!!!!!」
汽笛のような甲高い声が、突如静寂を突き破った。
振り返った視線の先から茶色い土煙りがのぼる。それは小さな竜巻のようにこちらに向かっている。
庭園の熱気は徐々に冷め、歓喜がどよめきへ、どよめきが悲鳴へと変わっていった。
あっと言う間に王宮まで到達し大衆を割って進むそれの正体は、小さな荷馬車だった。
「なんてこと」
王の顔から血の気が失せる。
「このままでは、祭殿にぶつかるぞ!」
「国王様、こちらへ!お早く!」
腕を強く引かれた勢いで、王の手から王冠が落ちた。悲鳴をあげた神父が転がる冠を追い駆けるのを、愛華は慌てて制した。
「そんなものは良い!」
「愛華様!しかし、冠が無ければ王位継承が」
「お前が無事で居なければ、誰が私の儀を執り行うのだ。早く逃げなさい」
神父を無理矢理従者に引き渡すと、愛華は振り返り我先にと逃げ惑う群衆に力の限り叫んだ。
「壁から離れなさい!男は女子供に手を!」
大きくなる馬の嘶きが、いよいよ荷馬車がそこまで来たと知らせる。愛華はすがる人々に手を添え励ましながら一人祭壇の上に登った。
目を凝らして突進し続ける荷馬車を確認すると、馬の首に少年がしがみ付いているのが見えた。
透き通る水色の髪、額の真っ赤なバンダナには見覚えがある。見覚えがあるどころか、彼が赤子のころからずっと一緒にいる。
「遅いぞ」
愛華は苦笑して荷馬車を見据えた。
「愛華様!危ない!」
壁が崩れる激しい音とともに、荷台が馬から離れ大きく転倒した。我を忘れた馬が、愛華に突進する。
耐えきれず悲鳴をあげる者、思わず目を伏せる者、脳裏に浮かぶ痛々しい光景に、庭園が絶望に呑まれた。
愛華は鼻先の馬をひらりとかわすと、宙に投げ出された手綱を掴んだ。手綱を引き、馬の背に手をかける。
馬上に身体を引き上げると、愛華はもう一度力強く手綱を引いた。
上体を持ち上られた馬は嘶いても空を駆けるも、前足が地に着くと同時に力尽きたように倒れ込んだ。
どぉん、という音とともに人々が目を開ける。
「涼風」
立ち込める煙の中、愛華は馬の背で唸る少年に呼びかけた。涼風と呼ばれた少年は痙攣する腕をゆっくり伸ばし、背後の荷台を指さした。
「蛍が…」
ひっくり返った荷台は車輪をからからと回し、真っ白な布に包まれた荷物が見るも無残な姿で散乱している。
愛華は一瞬立ち尽くすようにその光景を見つめると、駆けよる従者に涼風を預けた。
荷台へと歩み寄ると、意を決した様に口を真横に結んでそれを引っくり返し始めた。
沈黙に包まれていた会場が徐々に騒がしさを取り戻し、わらわらと集まった人々がそれを手伝う。
袋から飛び散る花弁には目もくれず、愛華は必死にそれをかき分けた。
しかし退かしても退かしても、見えるのは割れた装飾品ばかりである。
居ない…どこだ。伝う冷汗を感じながら、顔を挙げた時だった。
背中に軽い衝撃があった。そして同時に、いつもの軽やかな声が聞こえた。
「兄さま!!王様おめでとう!」
喉元までこみ上げた声をこらえると、愛華はゆっくりと振り返って自分に抱きつく少女を見下ろした。
大きな泥をつけた真っ白な頬が、太陽の光を受けて輝いている。
「…どこにいたんだ、蛍」
「えへへ、馬が走りだしたとき、落とされちゃった」
蛍は歯をみせて笑った。それを見た愛華は、ようやく安堵したように溜息をついた。
そんな兄を見上げると、蛍ははっとしたように抱きしめていた包みを開いた。
「あのね、あのね、これを渡したかったの」
屈んで見つめる愛華の視線の先で、蛍は袋の中から、ピンク色の大きな花で出来た小さな冠を取り出した。
そして少し真面目な顔を装うと、それを差し出して言った。
「素敵な王様になってね」
落ち着きを取り戻した人々が、二人の周りに集まり始める。
人だかりをかき分け駆けつけた乳母が、蛍の無事を確認すると大きな声を挙げた。
「姫様!ご無事で…!」
飛びつくように蛍を抱きしめると、今度は呆れた声で
「あああなたの言う方は、蛍様!どれほど私たちに心配をかければ気がすむのですか。
あれほど式典には遅れませんようにと申しましたのに!」と叱った。
「涼風様まで揃いも揃って…おにいさまの戴冠式をこんなにめちゃめちゃにして!」
「ご、ごめんなさい…」
蛍はバツが悪そうにうなだれている。
無残に砕けた王座の椅子、破けた深紅の絨毯。
微塵の失敗も許されないと先ほどまで語っていたそれらは、みるも無残な姿に変わり果てている。
すると、愛華の後ろから不機嫌そうな声が聞こえてきた。
「どうしても、リコの花を取りに行くって聞かないもんだから、わざわざ隣の隣の隣町まで行ってきたんだ。内緒にしたいからって従者もひきつれず」
額ににじんだ血を拭いながら現れたのは涼風であった。
「丸一晩付き合わされたんだぜ、こっちは」
ふてくされたように顔をしかめ、否、いつも通りの不器用な笑いを携え兄に近づくと、涼風は乳母の前で後ずさる妹を見やった。
愛華の顔から、ふっと笑顔がこぼれる。この日初めて、肩の力が抜けるのを感じた。そして首に巻いた布をはずして涼風の額に押しあると
「止血しておきなさい、今夜のパーティーに貧血で倒れられないんだからな」と笑った。
まだ続きそうな乳母の説教を制し、蛍の顔を覗き込む。
「どんな理由でも、遅刻はだめだといつも言ってるだろう」
うなだれた蛍の首が、一層縮こまる。
「…だが、良い余興だった。おかげで随分、やりやすくなったよ」
そういって微笑むと、その小さな手のひらを持ち上げて囁いた。
「さあ、被せておくれ。お前の手から王冠を」
顔をあげた蛍の眼がぱっと輝く。
「うん!」
蛍はできるだけ背を伸ばし、兄の頭にそっと花の冠を置いた。水面のような空色の髪に、ピンクの花弁と深緑の葉が良く映える。
満足そうにうなづいた蛍と顔を見合わせて笑うと、愛華は蛍の身体を抱き上げた。
「わっ」
しがみつく妹の手を感じながら、散らばった貨物をかけ登る。
色とりどりの花弁で覆われたその新しい壇上は、愛華を先ほどよりもずっと群衆を見渡せる高い場所へ押し上げた。
そしてできるだけ大きく息を吸い込むと、見上げる人々に向かって高らかな声をあげた。
「今日、この場に集まってくれた皆に心より感謝する。私は皆知ってのとおり、この国始まって以来最も若い年でこの祭壇に立っている。
しかし、この体には、歴代の王の、そして我らが尊敬してやまない、先代の王の血が流れている。
私は誓おう!この国に何が向かおうとも、臆することなくそれを迎え、手綱を引いてみせると!
何処より長い時を持つこの国を、さらなる彼方へ引き連れると!
共に行こう!ここに、ガルディ王国第26代国王愛華・ガルディの即位を宣言する!」
突き上げられた愛華のこぶしを合図に、涼風から目配せを受けた楽団が慌ててファンファーレを響かせる。
息をのんで新たな王を見つめていた群衆は、蛍の拍手が小さく響いたのを聞くと、轟のような歓声を挙げた。