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堕天使の杜

傷心

作者: kimra

気の向くままに書いている『堕天使の杜』シリーズです。

 あの日のことを覚えてる?

 笑いあった日々を。

 穏やかな時間を。

 そして、歯車の壊れたあの、瞬間を。

 覚えてる?

 オレは今も

 鮮明に覚えているよ。




 その日、数年ぶりに彼らは再会した。

ここは綾部あやべ探偵事務所。秋の日の夕暮れだった。



「綾部さん。お客さんですよ」

 金髪の小柄な少年、つぐみは机に長い脚を乗せ、今流行りのマンガ本を眺めている長身の青年に声をかけた。その青年、綾部垣内あやべかいとは、脚を下ろすこともなく鶫の隣の男を見る。

 不思議な表情が浮かんだ気がした。

「よお」

 シルバーグレーの髪。耳には数種類のピアス。しかしきっちりネクタイを締め、上品にスーツを着こなしている。その男は、変わったバンダナをした長身の青年に真っ直ぐ向かっていった。

垣内はにっこりと笑った。

「こんにちは。あやちゃん」

 その瞬間、鈍い音。

「その呼び方、やめろ」

 客人の男の拳が垣内の脳天に直撃していた。

「ちょ、ちょっと、何してるんですか」

「大丈夫だよ。気にしないで、鶫くん」

 垣内がいつも通り笑った。鶫は困った顔をしながら絢にお茶を勧める。「あ、お構いなく」と彼は丁重に頭を下げた。

「絢ちゃん、水臭いこと言っちゃだめだよ。鶫くんはそういうの一番嫌いなんだよ、ね」

 鶫は呆気にとられて彼を見た。そんなことを言ったことは一度もない。

「それはすいません。じゃ、お茶請けは大福でよろしくお願いします」

「え、はあ……」

「じゃあ、そういうことで。鶫くんよろしくね」

垣内が持っていたマンガ本を胸に抱いて、子供の様に笑う。「よろしく」と絢も愛想よく笑った。

 いつの間にやら少年は、秋空のもと大福を買いに行くことに決定していた。





 彼らの出会いも秋だった。ただ、まだまだ残暑が厳しい暑い日だった。

園森そのもり あやです。よろしくお願いします」

 一年の夏休みも終わり、学期始めの転校生にどっと沸く。それは転校生という理由だけではなく、彼の外見にあった。

 シルバーグレーの髪の色と耳に並んだたくさんのピアス、指にはシルバーのリング。いくら校則が甘いといっても、よくもまあ転入できたものだ。

 そんな異質な視線を気にする様子もなく、彼はみんなの注目の中、垂れた目に穏やかな笑みを浮かべ会釈をした。

「それでは、園森くんはそこの綾部くんの隣に」

 担任の女教師が、僅かな動揺を浮かべながら中央辺りのぽつりと空いた席を指さすと、綾部と呼ばれた一風変わったヘアバンドを付けた生徒が無表情に手を挙げた。

「はい」

 外見とは裏腹に歯切れのよい返答をすると、転校生は足早に席に向かう。

「はじめまして、園森です。悪いけど今日は教科書見せてくれる?」

 椅子に座りながら愛想よく言った絢に、隣の席の綾部は無言で教科書を投げてよこした。

 その瞬間、ゴンッという鈍い音が辺りに響き、先生が去りざわめいていた教室の動きが一瞬止まる。

「挨拶されたら返すのが礼儀やろ」

 初対面の綾部に鋭いげんこつを食らわした転校生は、そう吐き捨てると教科書をパラパラ捲った。

「一時間目、現国。何ページ?」

「は、はい。一時間目は生物です……」

 完全に危険人物と認識された彼に、綾部とは逆隣りの女生徒は怯えながら答える。

 絢の動きが止まった。

「綾部くん……、生物、だって」

 彼が引きつった笑顔でそう言い、先生が入ってくるのと同時に生物の教科書が差し出された。

「何ページ?」

「七十八」

「じゃあ、ここに置くわ」

 使われてなさそうな綺麗な教科書を、寄せた机の間に置こうとした絢に信じられない言葉が返る。

「オレはいい。もう全部頭に入ってるから」

「入ってるって…、何言ってんだ?」

 新品同様のそれを見ながら絢は眉を寄せ問うが、静かな目をした隣人から答えは得られなかった。



 それが運命の悪戯のような二人の出会いだった。

 出会わなければよかったと、彼らは今、そう言うかもしれない。

そうすれば大切なものを失うこともなかった。苦しまないでよかった。それなのに。




 季節が移り木々が美しく染まった頃、絢はすっかりクラスに溶け込んでいた。最初は怯えていた彼らも、絢が多少乱暴で礼儀にうるさいだけの愉快な人物だと気付くのに時間はかからなかったのだ。

その上彼は、中間テストで学年首席という秀才さ、そして性格の誠実さという外見とのギャップで彼らを引き付けた。

 そして、今ではすっかり人気者になっているのである。

「じゃあ、綾部垣内の叔父さんて病院の院長さんなんや」

 カレーうどんを食べながら呟く絢を含んだ、四人の男子生徒が食堂で話していた。

「そうそう、お坊ちゃん」

「なんか小学校行かないで、カテキョがついてたらしいし」

「だからあんなに気取ってんのか……」

「能面のようだもんねぇ」

 小柄な少年が零した言葉に皆が賛同する。実際、綾部垣内という少年は、笑うことも怒ることも話すことすら滅多になかった。

「だから最初、園森が殴ったときはビックリしたもん。その後会話してるしさあ」

「礼儀がなってないからや」

 至極まじめな顔で答える絢に笑いが起こる。と、同時に隣にいた少年に鉄拳が落ちた。

「いってーな。あ」

 殴られた頭をさすりながら、彼は食堂の入り口で視線を止める。

「そういえば綾部って二年の副会長にだけ、やたら懐いてんだよなあ」

「ああ、高峰たかみね 東城とうじょう先輩」

 そう言われて絢が見た皆の視線の先には、怖い顔をした長身の男と、いつもの無表情が嘘のような垣内の姿があった。




「高峰先輩」

 いつものようにホームルームが終わり、生徒会室に向かっていた東城にその声はかけられた。彼は見たこともない後輩に軽く首を傾げた。

「はじめまして。僕は一年D組の園森絢といいます。今、お時間大丈夫でしょうか」

「一のD……。ああ、うん。いいよ」

 東城がつった目を細め答えると、シルバーグレーの髪をした少年は深々とお辞儀をした。

「それで?」

 廊下の窓枠に肘を乗せて東城が促すと、絢は「はい」と答え、

「綾部くんのことなんですけど」

 そこまで言って、彼は一度言葉を切った。東城は幾分予想していたらしく、軽く頷く。

「初めて会った時、教科書を全部覚えてるって言ったんです。それ、本当だったらすごいと思います。でも、テストが良いわけでもないし、暗記してる様子もありません」

「それを今まで気にして?」

 困った笑顔を浮かべた東城を見て、絢は顔を曇らせた。

「でも授業で当てられると、すらすら答えてるんです。教科書なんて見てないのに、……音読すら」

「おかしい、と?」

「はい。友人や先生も最初は気にかけてたみたいなんですけど、もう慣れちゃったみたいで。諦めたというのか。でもオレはあやふやなのは嫌なんです」

 礼儀正しくはきはきと話す絢に、まっすぐに見つめられた東城は苦笑する。そして少しの沈黙の後、彼は口を開いた。

「垣内がそういう事を零すのは珍しいんだ。オレからは詳しく言えないけど、それは本当だよ」

 その言葉にシルバーグレーの髪の少年は、当惑した表情を走らせる。

 真新しい教科書と「全部頭に入ってる」というあの言葉。それが本当なら、一度や二度読んだだけで覚えたことになる。『普通』の人ならあり得ない。

「よくわからないんですけど。それは綾部くんが天才ってことですか」

 困り顔で、肩をすくめる東城の表情から何かを得ようとするが、答えは出なかった。

「オレからは言えないよ。他人の秘密を勝手に喋るのはどうかと思うだろ」

 絢の唇が震えた。

「す、素晴らしいです。筋が通ってます!」

「-ぅへ?」

 突然の意外な言葉に、東城の声は裏返った。目を輝かせた絢はその彼に詰め寄る。

「オレ、綾部くんから聞きます。それでいいんですよね」

 困惑した表情を浮かべていた東城は、質問を投げかけてくる少年を見てやんわりと微笑んだ。その鋭い笑顔につられて絢も笑う。

「仲良くしてやってよ。あいつ、友達いないから」

「は、はい」




 その日から垣内に近付くことにした絢は、彼と友達になることがそう難しくないような気がしていた。なぜなら東城から聞いた彼の人物像は、絢ととても気が合うタイプだったから。

 その上、一学期に一度しか席替えのないD組のおかげで、絢の席は未だ垣内の隣だったのだ。

「なあ、綾部って天才なの?」

 授業中、単刀直入な絢の言葉。それはここ何日も繰り返されている。

「質問には答えろよ。シカトなんて相手に失礼やろ」

 軽いチョップが、垣内の後頭部に命中する。不機嫌そうな絢の表情を垣内は一瞥した。

「オレに絡んだっていいことないよ」

 会話にならない。

絢は一つため息をつくと、話を変えた。

「高峰先輩って素晴らしい人だよね。お前が懐くのもわかる気がする」

「東城?」

 微かに垣内の顔色が変わるーと、それを待たずに絢の拳が彼に降ってきた。

「センパイ、やろ。失礼なやつやな、ほんま」

 ガタンと椅子が音を立て、絢は立ち上がった。授業中だというのもきれいさっぱり忘れて…。

 その後、絢と道連れの垣内に、放課後の罰掃除が言い渡された。




 放課後、彼らに課せられた掃除を終えるべく、二人は教室に残っていた。

「東城…と知り合いなの?」

 見るからにやる気がなく、窓にもたれ掛かる垣内とは対照的に懸命に掃除をする絢に垣内は聞いた。

「先輩って呼べって。知り合いってわけやないけど、人生の兄貴っって感じかな」

「何それ」

 一瞬、垣内の表情が和らいだ気がした。

「考え方が素晴らしいってこと。オレ、筋が通ってないこと嫌いなんだよね」

 机を運びながら自慢げに答える。それが彼のモットーらしい。

「罰掃除もさ、悪いのはオレやからきっちりやらんと」

 その真面目な考え方に垣内はゆるりと微笑んだ。

「……偉いね」

「これが普通やろ」

 せっせと掃除を続ける絢の言葉を聞き、目を伏せる垣内の様子に絢は不審げに首を傾げる。

「やっぱり綾部って天才なんやろ。それで、凡人に憧れてるとか」

「一回見て何でも覚えられて、忘れることもない、普通の人だよ」

 そう呟くと、彼の表情は深く暗く曇っていった。

泣いているようなその雰囲気に、絢は心配顔で垣内を見る。

「まあ、普通の基準なんて人それぞれやし。便利なことやん、それ」

 そんなフォローと共に、フォローされた人物から笑いが漏れた。唖然とする絢の前で、声を上げて笑う垣内。

「優しいねえ、絢ちゃん。どうもありが……」

ドカッ……。みぞおちへの蹴り。

「名前で呼ぶな」

「いーじゃん、可愛くて」

「だから嫌なの。もっと男らしいの希望なんや、オレは」

 屈託なく笑う垣内は、東城といる時と寸分の狂いもない。少なくとも、絢の目にはそう映った。



 彼らはこうして友達になった。

一度打ち解けてしまえば、絢の予想通り気の合う二人のこと、『親友』と呼べる様になるまでそんなに時間はかからなかった。

 この時、誰もがそれをいいことだと思っていた。

実際、垣内は人当りが前よりよくなったし、保護者のような東城も喜んだ。

 優しい、穏やかで、澄んだ時間だった。その分、壊れると暗く、澱み濁る。

 そういうものかもしれない。




「垣内、お前彼女できたんだってな」

 不機嫌そうに眉を寄せる絢の言葉に、垣内はにこやかに微笑んだ。

 放課後の教室。帰り支度していた垣内のもとに、絢が慌てた様子でやってきたのだ。

「誰から聞いたの」

「高峰センパイ」

「ああ、東城か」

「セ・ン・パ・イ」

 声を張り上げて垣内の前の席に腰を下ろす。

「そういうのは親友のオレにも報告しろよ」

 ブツブツ文句を言いながら、絢はため息とともにそう言った。すねているらしい。垣内は自分の席に腰かけた。

「絢ちゃん、やきもち焼くかなあ、と思って」

「なんでやねんっ」

 毎度お馴染みの、絢の手刀が垣内の脳天を直撃した。

 もうすっかり日が短くなっていた。近いうち、運が良ければ雪が降るかもしれない。

「絢ちゃん、将来何になるの?」

 垣内の突然の質問に、彼は動じることもなく答える。

こんなことは日常茶飯事だから。

「一流商社の営業マン」

「随分現実的だね」

 笑われたことに対して少し機嫌を損ねた絢は、膨れて答える。

「まあね。でも、外見このままで、やからな」

 シルバーグレーの髪にピアスの並んだ耳。それはあの日から変わってない。

「それ、無理っぽいね」

 自信満々に頷く絢を、垣内が否定した。

しかし、絢も口だけではない。彼は転校後、常に首席を護っていたし、生活態度も至ってまじめだった。

 絢の行動はいつも筋が通っていて、次期生徒会長候補でもあるのだ。

「無理なことなんてないね。頑張れば何でも叶うんや。時間かかっても、途中で諦めなけりゃ」

 真っ直ぐな絢の言葉に、垣内は複雑な表情を浮かべた。

「本気で言ってんの、それ」

「相変わらず失礼な奴やな」

 二度目の手刀と共にその言葉を吐き捨てる。その後、垂れた目を愛想よく細めてこう言った。

「冬休み、お互い彼女連れて四人でスノボ行こうぜ。オレの兄貴に送らせるからさ」



 こうして、運命の歯車は少しずつ狂っていく。

 今思えば、この頃が彼にとって一番幸せだったのかもしれない。

愛する人がいて、親友がいて、わかってくれる人がいて。

 彼が心のままの表情を見せていたのも、この頃だったかもしれない。


 けれど、どんなに祈っても時間が留まることはないのだ。




 それから五年の時が流れた。

 絢は有名大学に入学して着々と夢を叶えていき、垣内は高校卒業後就職した会社を辞めた後、探偵になった。彼の叔父が金銭面の援助をしてくれた。

 彼らは幸せだった。そう呼べた。

全ては続くと思っていた。けれど。

事件は起こる。運命通りに。誰かの手によって、

 賽は投げられた。





 その日は雪だった。

かといって、積もるほどのこともなく、ただ舞っているだけだったが。

 彼ら四人は毎年の恒例となった、冬のスノーボード旅行のために絢の車に乗り込んで、少し遠目のスキー場へと向かっていた。

「垣内、探偵業は儲かってるか」

 自分の後ろに座っている垣内に、絢が運転しながら聞いた。そう問われた彼は、シートに深々と腰かけ答える。

「まあまあかな。たいした依頼は来ないけどね」

「平和な証拠だよ。それって、いいことだよ」

 垣内の隣に座っていた女が、彼に向けて優しく微笑んでそう言った。垣内もそれに答えて笑う。

羽月はつきはどうなのよ。大学は」

 助手席から問われたその言葉に、垣内の隣から満足げな返事が返った。

「楽しいよ。充実してる。友恵ともえはどう?」

「最っ悪ー。部長がムカつくねん」

 この上なく不機嫌そうに友恵は口をとがらせ、この先延々と続くような愚痴に入りそうになった時、絢が車内に流れ始めた曲の話題へ話を逸らした。

「この曲ええよな」

 白々しく言った言葉が友恵の怒りに拍車をかけたらしく、彼女は黙り込んでしまった。しかしそんなことはいつもの事。彼女ともう七年も一緒にいる絢は、気にも止めず鼻歌を歌い始める。

 そんな様子を見ていた後部座席の二人は、顔を見合わせて口元をほころばせた。

「聞いたことない」

 こういう事には全く興味のない垣内が呟く。それは、シングルランキングにも登場しているダンスナンバーだった。

「ほんま垣内は流行に疎いな。オレはこういうテンションあがる曲好きだわ」

「スピード出したくなる?」

「まさか」

「せやで、羽月。園森はこれでもかってくらいの安全運転なんやから」

 車は交差点に差し掛かっていた。何もない真っ直ぐな道。広い道に車通りはほとんどなかった。

だからだったのか。

 それは絢の性格を考えれば起こり得るはずのない事実だった。それでも、運命の歯車はポロリと壊れた。

「ちょっ、園森、信号……………………っ」

「きゃっ……」

「!」

 信号は赤く染まっていた。彼らの未来を現すように、紅く。

 急ブレーキの音が響いた。が、雪で濡れたアスファルトの上。そうそう止まれるわけもなく、二種類の断末魔の叫びが轟いた。

 運悪く、彼らが飛び出した交差点の左側からは、トラックが走り込んでいたのだ。四人の乗った車は、左側面に大きな衝撃を受けて何度か回転した後、道端の草原に滑り込んだ。

 誰も言葉を発するものはいなかった。何が起きたのか理解できなかった。本当は理解なんかしたくなかったのかもしれない。

 ただ、沈黙。動かない歯車の、沈黙。

 


「垣内、大丈夫か」

 駆け寄る東城の声が遠くで聞こえた気がした。

 ここは病院。静かで冷たい廊下。

「おれは……、全然……」

 そう言った彼の服は血で汚れていた。それが彼の血なのか、ほかの誰かの物なのかはわからなかった。

「他の……、園くん達は……」

「……高峰先輩」

 薄暗くひんやりし廊下を、あちこちに包帯を巻いた絢が歩いてきた。そして一緒に来ていた東城の婚約者、咲良さくらとボソボソ話している青ざめた垣内の顏を一瞥すると、状況を手短に説明する。

 助手席の後ろよりに追突されたため、幸いにも運転席の絢とその後ろの垣内は軽症で済んだ。けれど、助手席側の二人、友恵は重体、羽月は病院に着く前に息を引き取るという、大惨事になってしまっていたのだ。

 年に一度の楽しい旅行のはずだったのに。



 その三日後のこと。雪の降る日だった。

「……うん、わかった。垣内に伝えるよ。それじゃ」

 場所は綾部探偵事務所。偶然ここにいた東城は、絢からの電話を手短に終えた。

「友恵ちゃんが意識取り戻したって?」

 同じ部屋の中にいた垣内は、会話から予測しそう聞いた。彼の顏には血の気がなく、目を閉じていればまるで死人のようだ。

「うん。後遺症が残るらしいけど。一度、お見舞いに行ってこいよ」

 東城は心配そうに顔を歪めて無理に微笑んだ。それに垣内は読み取れない、仮面のような表情のまま答える。

「明日……、行ってくる」

「ついて行こうか」

「大丈夫」

 不思議な色が瞳に浮かんだ。




 砂が零れる。それはここ数年、一度もなかった事。

さらさらと白いシーツを伝い、無機質な床に流れていく柔らかい粒子を、怪しく光る銀色の目で眺めながら彼は呟いた。

「ごめんね。さよなら、友恵ちゃん……。そして、絢ちゃん……」

「垣内?」

 その時、売店に行っていた絢が戻ってきた。彼は目の前にそびえたつ、長身の垣内の先のベッドを見て目を見張る。そこには、いるはずの人物の姿はなかった。

「友恵」

 ベッドに駆け寄る絢に、垣内は深呼吸をひとつして口を開く。銀色の左目が心許なげに揺れた。

「オレがやったんだ。オレは普通じゃない。オレの左目は生物を砂に変えるんだ。だって、絢ちゃんがオレから羽月を奪ったから…。絢ちゃんのせいで…」

 それは単なるわがままだとわかっていた。誰の責任でもないと。全てわかっていたのに。

 失ったものは戻らない。してしまったことは消えない。壊れた歯車は直らない。

割れた卵が二度とは戻らないように。



 さよなら、友達。

 さよなら、恋人。

 さよなら、さよなら、さよなら……………………。




 雪は、やんだ。

けれど、押しつぶされそうなくらいに雲が低く垂れこめていた。

 そんな冬の日、東城は事務所にやってきた。彼が訪ねたとき、垣内は珍しく事務所の机にきちんと座っていて。

「垣内。咲良のシチューとアップルパイだぞ」

 東城は返事の期待は持たずドアを開ける。

その部屋には電気も点いておらず、外からの光も望めない今日、とても薄暗かった。

「ありがとう、東城。台所に置いといて」

「あ、ああ」

 いつもは何も答えない垣内に、東城は訝しげに眉を寄せ電気を点ける。彼は芝居でもしているように机に肘をつき、俯いていた。

「病院行ってきたんだろ。どうだった、友恵ちゃ……」

 そこまで話すと東城は言葉を失った。垣内があまりにも真っ直ぐに彼を見つめていたから。

「オレ、友恵ちゃんを消したんだ。それで、絢ちゃんも……」

 ここで彼は少し戸惑い、視線を泳がせた。

「消そうとしたのに、できなかった。見れなかったんだ。どうしてだろう、どうしてだろう…」

 垣内の顏が曇る。それを見た東城はひとつ息を吐くと、大股で彼の正面へ進んだ。そして柔らかな髪に手を置く。

「垣内。それが普通だよ。それで、いいんだ」

 優しく微笑む東城に頭を撫ぜられながら、垣内は机に肘をついた両手に顔を埋めた。

 垣内が何をしても、例えそれが間違っていても、許し、それでいいと言ってやろうと東城は決めていた。彼を責め、裁く人はたくさんいるだろう。それならばせめて自分だけは味方でいよう、と。

 じゃないと、かれは存在すら否定されてしまうだろう。

「シチュー食べよう。考えるのは後でもいいだろ。ほら」

 そう言って垣内を立ち上がらせ、紙袋を探り始めた東城に垣内は穏やかにこう言った。

「シチューよりアップルパイがいい」





 ここ、綾部探偵事務所では、シルバーグレーの髪に垂れた目をした来客が去りその後の後片付けに追われていた。-といっても追われていたのは、久次ひさつぎ鶫、彼一人だけだったが。

「どうやったらこんなに散らかせるんですか」

 床に散らばったトランプを拾いながら鶫が口をとがらせる。その様子を眺めていた垣内は愉快そうに笑った。

「だって、三年振りだったから感激しちゃってね」

「三年振り…だったんですか。とてもそうは見えませんでしたけどね」

 几帳面に数を数えはじめた鶫は嫌味を言ったつもりが、その言葉で嬉しそうに微笑む垣内を見て、肩透かしをくらった気がした。

 まあ、いつもの事ではあったけれど。

「人間は忘れる生き物だから…、時間が何か解決してくれた。そうだといいんだけど」

「…はあ」

 突然理解できない話を始めた垣内に面食らいながら、鶫は曖昧に頷いた。




 今でもはっきりと覚えている。あの日のことを。

時間は不平等で、オレの記憶は薄れることもなく焼きついたまま、撮影されたものを再生するようにその全てを狂いなく思い出せる。 

 誰もが忘れていくのに。

君はもう、忘れただろうか。傷は癒えただろうか。オレを許しただろうか。

 そんなことはもうどうでもいいんだろう。

たくさんの綺麗に隠した傷痕と、秘めた心情を胸に、誰もが生きていくしかないのだから。




 君に出会えてよかったと、今、本当にそう思うよ。




                                           END  








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[一言] 今回は探偵業はしていない閑話でしたね。 主人公達の過去にそんな事があったとは…… 少し詩のような文があったので内容に深みがありました。こういう活用法があるなんて!勉強になります。 主人公の…
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