求婚? ほな聞くけど、あんた浮気せえへんよな?
——ドサドサドサッ
何かが落ちる音で、ミネルバの目が覚めた。
まだ半分眠ったまま、何事かと耳を澄ませていると、天蓋の向こうから聞き慣れたのんびり声がする。
「ミネルバさまぁ。釣り書きタワーが崩れましたよ〜」
ガバリと身体を起こしたところでカーテンが引かれ、専属侍女のクララがひょこりと顔を出した。
「おはようございます〜。やっぱり釣り書きで遊んじゃダメだったんじゃないですかぁ? また積んでおきますねぇ」
「いらんいらんいらん! 積むな! それ昨日ようやく崩したやつや!」
「あらぁ。朝から東洋語ですかぁ?」
「朝イチはこれが楽やねん」
「なるほどぉ」
何がなるほどなのか。
ちなみにこの侍女、こんなアホっぽい喋り方をしているが、東洋語のエキスパートである。何でも、十歳くらいに東方諸国の『ぶいちゅーばー』とやらにハマり、『推し活』?なるものをしていたそうだ。
好きな人の言葉を翻訳なしで理解したい♡などという情熱だけで、死に物狂いで習得したらしい。
いや、いま何歳やねん。(怖くて聞けない)
寝起きの頭を抱えながらベッド脇を見ると、見事なまでに崩壊した紙の山があった。
すべて、釣り書きである。
——元・第二王子の婚約者。
——王子妃教育修了済み。
——権勢を誇るクローロリス侯爵家の至宝。
容姿よし、教養よし、家柄よし。王立図書館へ寄贈された東方文献の翻訳監修までこなしていたのだから、頭もそれなりによし。
そのうえ先日の婚約破談騒動では、第二王子から公衆の面前で不貞を疑われ、一方的に婚約破棄を宣言されたものの、蓋を開けてみれば浮気など完全な濡れ衣だった。それどころか、王子のほうが別の令嬢と半年ほど心を通わせていたことまで発覚したのだ。
もちろん本人は『肉体関係はなかった!』などとほざいていたが。
——知らんがな。
結果としてミネルバは傷物になるどころか、『王子にひどい目に遭わされた、何の落ち度もない超優良物件』という、本人としてはまったく嬉しくない評価を手に入れた。
その結果——
「……なんで一日に三通ずつ増えんねん」
床へ散らばった紙を睨みつけると、クララは「人気者ですねぇ」と楽しそうである。嬉しくない、と返したところで、釣り書きが減るわけでもない。
「昨日は伯爵家が二件、侯爵家が一件ですぅ。一昨日は公爵家の次男の方からも」
「知らん知らん。もう報告せんでええ」
「外国の王族からも来てましたよぉ」
「なんでやねん!」
「国際派ですからぁ」
「そんな肩書きいらんわ!」
ミネルバは枕を抱え、そのままベッドへ倒れ込んだ。
「もう結婚ええかな……」
「ダメですねぇ。侯爵令嬢なのでぇ」
「それな!」
即答されるまでもなく、自分の立場くらい理解している。
高位貴族の令嬢として生まれた以上、結婚は恋愛だけの問題ではない。家と家との結びつきを強固にし、領地や政治的な関係を次代へつなぐ。そのための婚姻は、ほとんど義務に近い。ミネルバが第二王子の婚約者であった時は、縁戚から後継者を選んで侯爵家を継いでもらうことで話を進めていたが、その婚約はなくなった。
つまり、ミネルバが侯爵家を継ぐことで話がまとまった以上、結婚したくないからしません、で済む話ではない。
分かっている。嫌というほど分かっている。……んだけど。
「……また浮気されたら嫌だもん」
ぽつりと漏らすと、さすがのクララも少しだけ黙った。
前の婚約者——第二王子だって、最初からどうしようもない男だったわけではない。
幼い頃は、むしろ大切にしてくれていたと思う。手紙も交換したし、誕生日でもないのに贈り物が届いたこともあった。侯爵家へもよく顔を出し、ミネルバが王子妃教育のため王城へ赴けば、時間を作って二人きりのお茶会を開いてくれた。
『好きだよ』って、何度も言ってくれた。
それが何年か経てば、別の令嬢と心を通わせ、その女の言葉だけを信じて、ミネルバを不貞の女と決めつけた。
「人間、変わるじゃないのよ……」
クララは否定しなかった。それが、今のミネルバには余計に堪える。
「釣り書きに『誠実』『温厚』『一途』とか書いてあっても、信じられなくない?」
「お会いして確かめればよろしいのでは?」
「それで分かったら苦労しないわよ! 男性の額に『五年後浮気します』とか浮かび上がるわけじゃないんだから!」
「便利ですねぇ、それ」
そんなものがあれば、貴族社会の婚姻事情は今よりずっと平和だろう。
その時、コンコンと扉が叩かれた。
「お嬢様。お客様がお見えです」
廊下から家令の声がする。ミネルバは扉越しに、見えもしない相手を睨んだ。
「今日、お見合いはないはずでしょ」
「お見合いではございません」
「じゃあ誰?」
「ヴァレンティ侯爵家のロイド様です」
「…………なんで?」
もちろん、名前を知らないわけではない。
ヴァレンティ侯爵家といえば、クローロリス家と同じく国内でも指折りの名家だ。王子妃教育を終えたミネルバが、その嫡男の名も顔も知らないはずがない。
しかも本人とは、単なる社交上の顔見知りというわけでもなかった。
王立図書館の蔵書目録編纂では東方文献の担当者として何度も侯爵邸へ足を運び、机を並べて作業している。第二王子の側近でもあったから、王城でも幾度となく顔を合わせた。
知っている。
よーく知っている。
知っているからこその、「なんで?」なのである。
「第二王子殿下の元側近さんじゃないですかぁ」
クララが横から能天気に口を挟む。
「知ってるわ!」
「先日の婚約破棄騒動で、お嬢様が突然東洋語で王子を罵倒し始めた時、ずっと横で上品に通訳してくださっていた方ですよねぇ」
「それも知ってる!」
むしろ忘れたい。黒歴史をホイホイ掘り返さないでほしい。
図書館の仕事中は、無駄口ひとつ叩かず黙々と文献を整理し、こちらが問えば的確に答え、余計な口出しもしない。ミネルバの中では、生真面目を絵に描いたような人物という印象だった。
ところが、例の夜会ではどうだ。
自分の暴言を何食わぬ顔で高尚な言葉に変換し続け、しかも、今にして思えばかなりの割合で好き勝手に意訳していた気がする。
「まさか第二王子絡みやないやろな……」
「お通ししてよろしいですかぁ?」
「もう来とるんやろ!」
「はい〜」
「あー! ほんま来んでええやつぅ!」
*****
「お久しぶりでございます、ミネルバ嬢」
急いで身支度を整えて応接室へ入ると、見慣れた銀髪碧眼の男が、見慣れないほど上機嫌そうな顔で座っていた。
細い銀縁眼鏡に、隙なく整えた濃紺の礼装。もともと顔立ちは妙に整っているが、仕事中は愛想らしい愛想をほとんど見せなかったので、こうして微笑まれると妙な違和感がある。
「……お久しぶりでございます、ロイド様」
最後に会ったのは、あの夜会だ。
もっとも、その前までは図書館の編纂作業で週に何度も顔を合わせていたので、「久しぶり」というほどでもない。ただ、仕事以外の用件で互いに向き合うのは、これが初めてだった。
ミネルバも侯爵令嬢の仮面を被る。十分前まで寝衣姿で『来んでええやつぅ!』と叫んでいた女と同一人物とは、我ながら思えない。
「本日はどのようなご用向きでしょうか。先触れもなしにいらっしゃるのですから、何か重要なご用件なのですよね?」
要するに、来るならちゃんと知らせろ、である。
婉曲な牽制は伝わったらしく、向かいの男は少しだけ困ったように眉尻を下げた。
「実は、求婚に参りました」
「お帰りください。クララ、お客様がお帰りよ!」
「まだ何も申し上げておりませんが」
「ご用件はもう伺いましたので」
速攻で話を終わらせようとしたのに、相手は苦笑しただけだった。
「釣り書きを持参しております。少しはお時間いただけませんか? 知らぬ仲でもありませんし」
「帰ってくださいませ」
「では結論だけ申し上げます」
結局言うんかい。真正面から視線を合わせられた瞬間、妙に真剣な碧眼に、ミネルバは嫌な予感を覚えた。
「どうか私と結婚してください」
「嫌です」
「では、理由を伺いましょう」
「なんで面接始まんねん」
思わず東洋語が飛び出した途端、くい、と眼鏡が上がる。
「ただいまの発言は、『なぜ私が理由を説明する必要があるのでしょう』という意味でしょうか」
「ちゃうわ! ……というか前から思てたけど、あんた通訳めちゃくちゃやろ!」
「今さらお気づきになったのですか?」
「やっぱりか! 東洋語が堪能なん、ちゃうんかい!」
あの日の記憶が蘇り、腹の底から怒りが湧いてくる。
ミネルバは大きく息を吐き、たっぷり吸ってから腹に力を入れた。
「あんたな! わたしが『股だけ独立国家か』言うた時、何て訳した!」
「『己にのみ特別な免責が与えられているかのように振る舞うのは、著しく公平性を欠く』」
「原型ないやないか!」
「王立図書館落成記念の夜会ですよ。各国の使節もおりましたし」
「分かっとるけど!」
「王子の股間に独立宣言をさせるわけには参りませんでしょう」
「言い方よ!」
これだけ怒鳴られても、男はどこ吹く風で紅茶を口へ運んでいる。
ミネルバはじっとその横顔を睨んだ。
「……あんた、前からそんなんやった?」
「そんなん、とは」
「性格悪い」
「今さらお気づきになったのですか?」
「二回目やぞ、それ!」
ほんの少し、口元が上がった。やはり絶対に楽しんでいる。
「そんで、何しに来たん?」
「ですから求婚に」
「なんでわたしなん? おかしいやろ。今までそういう素振り一個もなかったやん!」
すると相手は少し考えるように目を伏せ、それから、ひどく当たり前のことを説明するような調子で答えた。
「好きになるのに時間は関係ありませんし……何より、伴侶を見極めるには時間がかかりますからね。三年ばかり様子見しておりました」
「…………?」
あまりに平然と言うので、一瞬意味が入ってこなかった。本人はその隙に焼き菓子を一つ取り、「これ、美味しいですね」などとクララへ話しかけている。
「……いま何て?」
「好きです。結婚してください」
「聞き間違いやなかった!」
「治癒術師の紹介状は不要なようで何よりです」
「いらん心配や!」
怒りすぎて、血管がぷちぷち言いそうだ。
落ち着け。落ち着け。カームダウン、カームダウン。
「……っふぅー」
「落ち着きました?」
「……ほな聞くけど」
「はい」
「あんた、浮気せえへんよな?」
一瞬だけ、ロイドの表情が止まった。
「それは、“未来永劫、他の女性に心を動かされる可能性が一切ないと誓え”という意味でしょうか」
「急にめんどくさい解釈すな! 第一、三年前って……私たち、ほとんど話したことないよなあ? 私は王子殿下の婚約者だったんやし」
「そうですね。だから、見せなかったでしょう?」
「何を?」
一拍置いて、穏やかな笑顔のまま、とんでもないことを言った。
「貴女をドロドロに甘やかして、私に依存させて、閉じ込めて、私しか見えないようにしたいと思っていることです」
いきなりぶっ込まれるヤンデレ風味に、ミネルバはソファに座ったままぐらりとよろめいた。
なんてことを言うのだ、この男は。しかも顔がいい。
顔がいいから余計に怖い。
「三年前の王宮の春の晩餐会で、貴女が西部領の灌漑計画について財務卿と議論しておられました」
「そんな地味な場面で惚れることある……?」
「大変興味深かったもので」
「見るとこおかしいやろ!」
思わず突っ込むと、向かいの男は本気で分からないという顔をした。
「その後、図書館の編纂事業でご一緒するようになり、ますます好ましく思うようになりました」
「……全然そんなん見えへんかったけど」
「婚約者のいる女性に言い寄るほど、不誠実ではありません」
その一言だけが、今までとは違う重さで胸に落ちた。
思い返せば、編纂作業のため夜遅くまで侯爵邸にいたことは何度もある。二人きりになったことだって、一度や二度ではない。
けれど彼は一度たりとも、仕事に必要のない距離まで近づいてこなかった。容姿を褒められた覚えもない。私的な贈り物もない。馴れ馴れしく名前を呼ばれたことすらなかった。
徹底して、『第二王子殿下の婚約者』として扱われていたのだ。
「婚約が正式に解消されましたので、本日参りました」
「早ない?」
「三か月待ちましたよ」
「充分早いわ!」
「私としては三年待ちましたので、その程度は誤差かと」
「知らんがな!」
ロイドは涼しい顔のまま、さらに追い打ちをかけるように釣り書きを示す。
「ちなみに今回の縁談については、父から了承を得ております」
「は? ヴァレンティ侯爵からも?」
「はい」
「……うちの父は?」
「了承済みです」
「はぁ!?」
聞けば、クローロリス侯爵からは『本人を説得できるなら好きにしろ』と言われたらしい。
「あんのクソ親父!」
ガチャリ、と応接室の扉が開いた。
「誰がクソ親父だ?」
「お父様ぁ!?」
ひょいと顔を出した父は、娘の非難などどこ吹く風である。
「いや、邪魔をして悪いね。ロイド君」
「いえ。侯爵閣下にお会い出来て光栄です」
お父様はそんな挨拶はどうでもいいとばかりに、ひらひらと手を振る。
「それで、首尾はどうだ?」
「難攻不落です」
「そうかそうか」
「なに情報交換しとんねん!」
父は楽しそうに笑い、ミネルバに告げる。
「ミネルバ。私は彼なら悪くないと思っているぞ。家柄は同格、本人は第二王子の側近から第一王子殿下付へ移ったエリート。頭も切れるし、東方文化にも通じている。酒癖も悪くないし、賭博もしない」
「最後二つ、条件低ない!?」
「前の婚約者を思えば大事だ」
「それはそうやけど!」
そこで父の声音が少しだけ変わった。
「女性関係については、私のほうでも調べた……が、特に何も出なかったよ」
「…………へ、へえー」
「まあ、未来永劫どうなるかまでは父にも保証できんがな。だが少なくとも、今までの行いは信用に値すると私は判断した」
それだけ言うと、またいつもの調子に戻り、
「では後は若い二人で」
などと抜かして扉を閉めた。
「待て待て待て! お父様ぁ!」
追いかける間もなく、気配が遠ざかっていく。
「逃げた……」
「お父上にもご予定があるのでしょう」
「あんたのせいや!」
「光栄です」
「褒めてへん!」
当の本人は平然とお茶を飲んでいる。
「根回ししたん?」
「勿論です」
「堂々と言うな」
「結婚は家同士の問題でもありますから。まず父へ話し、次にあなたのお父上へ正式に申し入れました。第一王子殿下にも職務上の問題が生じないか確認しております」
そこまで淀みなく説明してから、眼鏡の奥の目が、ほんの少し意地悪そうに細められた。
「人間の社会には、手順というものがあるのでしょう? 以前、どなたかが仰ってましたし」
「覚えとったんかい!」
とうとう堪えきれなくなったのか、肩を揺らして笑い出す。
図書館の編纂作業中も、王城ですれ違った時も、ほとんど表情を崩さなかった男が、今はこんなふうに笑っている。そういえば、この顔は今まで一度も見たことがなかった。
その事実に妙に胸がざわついて、ミネルバはますます腹が立った。
*****
当然、その日に返事はしなかった。そんなに安い女ではないのだ。
ところが——翌日には花が届いた。
「ミネルバ様〜。ロイド様からですよぉ」
「また!?」
三日後には東方から新刊が届き、どうして欲しかった本を知っているのかと問い詰めれば、編纂作業中に話したことを覚えていたのだという。
「いつの話やねん!」
「一年前だそうですぅ」
「覚えとんの!?」
一週間後には本人まで現れた。
「今日は何しに来たん」
「お茶ですってぇ」
「暇なんかあの人!」
「第一王子殿下から『有給休暇を消化しろ』と言われたそうですぅ」
「王太子まで何してんねん!」
そうして気づけば、週に二度ほど侯爵邸へ顔を出すようになっていた。先触れを出して来ないことに苦情を入れると「だって、それだと貴女に逃げられるではありませんか」などと宣った。
もともと編纂作業のため何度も出入りしていた男なので、使用人たちの対応まで妙に手慣れている。以前との違いは、腕に文献の束を抱えていないことと、用件がミネルバそのものになったことくらいだ。
そして、使用人たちはお嬢様を熱烈に求めているロイドに味方しているらしい。
「ごきげんよう、ミネルバ嬢」
「また来たん」
「ええ。仕事は終わらせましたので、追い返されても居座る時間はございます」
「帰る気ないやん」
「最初からそのつもりです」
以前より確実に口数が増えている。いや、増えたのではなく、仕事中は抑えていただけなのかもしれない。
それでも不思議なのは、これほどぐいぐい来るくせに、求婚の返事だけは一度も急かさないことだった。
侯爵邸へ来ては紅茶を飲み、本の話をし、東方文献の話をし、時には政治や領地経営の話までして、たまに喧嘩して帰っていく。
以前だって会話はしていた。ただ、あの頃は仕事の話ばかりだった。
今になって初めて、ミネルバはこの男自身を知り始めたような気がしていた。
「……あんたさ。求婚しに来たんちゃうかったん?」
「しましたよ」
「返事、聞かんの?」
「まだでしょう?」
あっさり言われて、逆に言葉に詰まる。
「考える時間が必要だとお見受けしましたので。あなたが結論を出すまでは待ちます」
「一年でも?」
「はい」
「三年でも?」
「構いません」
「十年は?」
「それは少々困りますね。私も三十四になりますので」
「ほら!」
「子供の人数について計画を見直す必要が出ます」
「何の計画立てとんねん!」
「家督継承の話ですが」
「急に真面目な話すな!」
「からかい甲斐がありますね」
そんな時、まるで少年のように手放しで笑う。大人の男の、少年のような笑顔。しかも美青年とくれば、ちょっとメロついても仕方ないよね?
ドキドキする胸を押さえながら、最近本当によく笑うようになったなぁ……と思う。
いや——もしかすると、昔から笑う男だったのかもしれない。ただ、ミネルバの前では笑わなかっただけで。
そんなことを考えていたら、ふと別の男の顔が浮かんだ。
「……そういや、第二王子って元気なん?」
尋ねてみると、辺境騎士団にいるらしい。
第一王子から『根性を焼き直してこい』と言われ、三日後には王都を出発。現在は朝四時起床で馬房掃除、基礎鍛錬、巡回、剣術訓練に励み、先日ついに腕回りが六センチ増えたのだとか。
「何その健康的な生活」
「第一王子殿下が嬉しそうに教えてくださいました」
「殿下、弟で遊んどるやろ」
「否定はできません」
少し笑ってから、ミネルバはカップへ視線を落とした。
「……エリシアは?」
向かいの空気が、ごくわずかに変わる。
「修道院におります。実家は伯爵家から二段階降格し、男爵家へ」
そう、とだけ答えた。
当然といえば当然だった。王族の婚約者へ虚偽の不貞疑惑を吹聴し、王家と侯爵家の正式な婚約を破談へ追い込んだのだ。何のお咎めもなし、とはいかない。
「重いと思いますか?」
ロイドの静かな問いに、ミネルバは首を振りため息を吐いた。
「ううん。自分で蒔いた種やろ」
それきり、その話は終わった。
*****
また数日後。いつもの応接室で向かい合っていた時、ミネルバは何となくカップの縁を指でなぞりながら口を開いた。
「……ねえ。もし、結婚して何年か経ってから、他に好きな人ができたらどうする?」
途中で何度も言葉が止まりそうになったが、向かいの男は急かさなかった。
ただ、いつものように待っていた。
しばらく考えたあと、返ってきた答えは意外なものだった。
「その時は、まずあなたに話します」
「絶対に好きにならない、とは言わないの?」
「未来の感情まで保証するのは、嘘になりますから。ただ——裏切らないと約束することはできます」
思わず顔を上げた。
「それって、違いあるの?」
「ありますよ」
静かにこちらを見つめる瞳に嘘は見えない。何となくずるいと思った。
「誰かを好きになることと、それを理由に婚約者や妻を欺くことは別です。もし私の心が変わったとしても、陰で関係を持つことはしません。あなたに話し、責任を持って向き合います」
「……それ、嫌だって言ったら?」
「では別れません」
「へ?」
「結婚は契約でもありますから」
さらりと言われて、ミネルバは思わず呆れた声が出てしまう。
「……恋愛感情どこ行ったん」
「好きだからすべて許される、という思想は第二王子殿下で懲りました」
「説得力すごいな」
「でしょう? ……それに、おそらくその心配は不要です。三年片想いして、いまだに悪化しているので」
「病気みたいに言うな」
「あなたと話すたび、ますます好きになります。困りました」
「こっちが困るわ!」
顔が熱い。絶対に赤い。それを見て、碧い目が愉快そうに細められる。
「ふふっ……可愛いですね」
「帰れぇぇぇぇ!」
*****
それからさらに一か月。外堀は、着々と埋まっていた。
ある日、父から「ヴァレンティ家との婚約契約書だが」と何気なく切り出され、まだ何も決めていないのになぜ契約書が存在するのかと問い詰めれば、すでに両家当主の間で条件交渉まで済んでいるという。
「本人置いてけぼり!?」
母からは『ロイド様、素敵な方じゃない』と言われ、従兄からは『お前と口喧嘩で互角なの初めて見た』と言われる。
さらにクララなど、もう完全に婚約が決まったものと思っているらしい。
「お嬢様とお婿様のお部屋、どこにいたしましょう〜」
「決まってへん!」
「でも婿入りでもいいって仰ってますよぉ?」
「なんでそこまで話進んどんねん!」
極めつけは、第一王子から届いた手紙だった。
『ロイドをよろしく頼む。あれは優秀だが、君の話をする時だけ少々気持ち悪い』
「本人の上司に気持ち悪い言われとる!」
その下には、わざわざ追伸まである。
『なお弟は辺境で元気に馬糞を運んでいる。最近、肩幅も増した』
「いらん情報よこすな!」
手紙を机へ叩きつける。
「もう嫌や! 全員で外堀埋めに来とる!」
「ミネルバ嬢」
不意に庭から声がして、ミネルバは文字通り飛び上がった。開いた窓の向こうに、噂の張本人がいる。
「うわぁぁぁ! なんで庭から出てくんねん!」
「正面玄関から入りましたよ。庭を散歩していただけです」
「紛らわしいわ!」
「随分お怒りですね。第二王子殿下?」
「あんたや!」
すると、これまた嬉しそうに笑う。まったく腹が立つ。それなのに……嫌じゃないと思う自分に気づいた。
三年間、この男は何も言わなかった。私に婚約者がいたから。
編纂作業で何度二人きりになっても、距離を越えなかった。私的な贈り物ひとつしなかったし、必要以上に親しく振る舞うこともなかった。
婚約が解消されたあとも、勝手に触れてきたことはない。ましてや、求婚までしてきたのに返事を迫られたこともない。
それなのに、逃がす気もさらさらないらしい。
順番を守り、礼を守り、ミネルバが怖がっていることにも気づいている。未来について、耳触りのいい嘘もつかなかった。そして毎週、当然のように会いに来た。
「……ロイド様」
名前を呼ぶと、碧い目がこちらを見る。
「一つだけ条件があります」
「何でしょう」
「浮気したら、股だけ独立国家って国中に触れ回るからな!」
目を閉じた男の肩が、ぷるぷると震え始めた。
「笑うな!」
「……申し訳、ありません。いえ……これが求婚への返答かと思うと、少々」
「嫌ならええんやで!?」
「まさか」
そう言って、彼はミネルバの手を取りその場へ跪いた。
その真剣な顔に、今度ばかりは一切の冗談もなかった。
「ミネルバ・クローロリス侯爵令嬢。私、ロイド・ヴァレンティと結婚していただけますか」
大きく息を吸った。
胸の奥には、まだ少しだけ怖さがある。
未来なんて分からない。
この男だって、いつか変わるのかもしれない。自分だって変わるかもしれない。
でも、未来が分からないからといって、すべてを怖がっていたら何も選べない。
「……はい」
そう答えると、差し出された手がわずかに強張った。こんな男でも緊張していたらしい。
だから少しだけ意地悪をしたくなった。
「ただし、浮気したら」
「しません」
「まだ最後まで言うてへん!」
「内容を存じておりますので」
「最後まで言わせろや!」
「ではどうぞ」
「もうええわ!」
笑いながら差し出された手を、ミネルバはしばらく睨んでから取った。
仕方なく。本当に、仕方なく。けれど自分でも分かるくらい、頬が緩んでいた。
*****
それから二年後。
「あんた! わたしのプリン食べたやろ!」
開口一番怒鳴り込むと、書斎にいた夫は書類から顔を上げた。
「食べていませんが」
「嘘つけ! 魔導保冷庫に入れとったやつないやん!」
「つまり、『私が大切に保管していた菓子の所在について、心当たりはございませんか』と」
「夫婦になってまで通訳すな! 誰に訳してんねん!」
「息子です」
「まだ生後三か月や!」
乳母に抱かれた赤子が、何が楽しいのかきゃっきゃと笑っている。
「ほら、喜んでいます」
「喜んどる場合か!」
すると夫は、いかにも今思い出したような顔で付け加えた。
「ちなみに、プリンはクララ殿が食べました」
「クララァァァ!」
廊下の向こうから、
「おいしかったですぅ〜!」
と、実に楽しそうな返事がした。
「逃げんなぁぁぁ!」
追いかけようとした瞬間、後ろから腰を抱かれて止められる。
「離して! クララが逃げるやん!」
「廊下を走ると危険です。あとで捕まえましょう」
「今や!」
「では私が代わりに」
「何であんたが行くねん」
「妻の敵ですので」
「プリン一個で大袈裟や!」
そこまで言ったところで、ふいに頬へ口づけられた。
「これで機嫌を直してください」
「…………」
「おや?」
眼鏡の奥の目が、面白そうに細められる。
「東洋語が出ませんね」
「……うっさい」
「照れている?」
「誰がや!」
「顔が赤いですが」
「うっさいうっさい!」
腕の中の赤子が、また嬉しそうに笑った。乳母まで口元を押さえている。
そのうえ廊下の向こうから、
「今日も仲良しですねぇ〜!」
などとクララまで茶々を入れてきた。
「どこがやねん!」
「仲良しでしょう」
「あんたは黙っとれ!」
「妻に発言を禁止されました」
「被害者みたいに言うな!」
ヴァレンティ侯爵家では、今日も夫婦の賑やかな声が響いている。使用人たちは、それを夫婦喧嘩とは呼ばない。夫人が得意とする東方の言葉を借りて、こう呼んでいる。
——夫婦漫才、と。




