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光彩陸離たる魔術結社の令嬢

作者: 繊指連理
掲載日:2026/09/06

列車の窓から見える景色──


ゆっくりと流れる田園を眺めていた。騒々しく車体が揺れ、木製ベンチシートが苦しそうにギィと鳴く。そして、ふと臭う黒煙に新時代を意識させられる。景色と相まって、少しだけ淋しさを誘われてしまった。


(もうそろそろかな)


景色が建物の居並ぶ様へ変わっていき、ようやく旅の終わりを意識する。


(ああ、すっかり忘れてた)


ようやく乗車前に買った新聞のことを思い出す。すっかり忘れていたため、シートの端っこでクタッとなってしまっていた。おもむろに開くと、ショッキングな見出しが目に飛び込んでくる──


『魔術師はとうに時代遅れ! 産業革命以降は存在意義なし!?』

『王政はすでに過去? 軍靴(ぐんか)の音と鉛弾が知らせた本当の姿』

『王都に蔓延(はびこ)る秘密結社! 魔術が世界を腐らせる!?』

悪夢(ナイトメア)と名乗る魔術結社の総帥! 仮面の男の正体とは?』


だが、有用な情報は無い。内容も不安を煽るばかりで最後は決まって投げっ放し。要するに、洗脳めいた大衆誘導(プロパガンダ)でしかない。


(なにこれ、つまんない。大衆紙なんて買うもんじゃないなぁ)


そうして退屈の溜め息をふぅと吐いた時だ。不意に声をかけられた。


「大事な人かしら?」

「え?」


対面ベンチシートに座る、品の良い老女だった。


「そのペンダント、とても大事そうにしていたから。大切なお写真でも入っているのかと」


どうやら首から下げたペンダントを握りしめていたらしい。本当に無意識のことで、指摘されるまで全く自覚していなかった。


「え、あっ! そうです。その、許嫁で」

「まぁ許嫁! 素敵ね! けど、貴女随分お若いようだけど」

「はははっ、よく言われるのですが、実はその──」


──その時だ。


突然、キキーッと蒸気機関車がブレーキをかけ始め、すぐさま完全に停車してしまった。何事かと思ったのも束の間、すぐに事態を察することになる。二名の兵士がやってきて身分証明書の提示を求められたのだ。


「ん? 身分証明はひとつしかありませんな? 婦人、そっちの子の分は──」

「あの! 見かけで判断するのはお勧めしませんね。私は子供ではありませんよ。身分証明ならこれで」

「あ? ああ──、ルーシー・アシュワンド、宮廷魔術士だぁ? 生年月日が──、は? え? 十六歳!?」


身分証明書を確認した兵士の素っ頓狂な声。さすがにカチンとくるも、ルーシーはツンと澄まし顔をしてやった。


「なにか問題でも?」

「いや。魔術士か──、産業革命のご時世に随分時代錯誤なことだ」

「ええ。素敵でしょう?」

「フン、大人しくしておけ魔術士。余計な仕事を増やすなよ?」

「何か事件があったのですか?」

「部外者は知らなくていい」


──その時、ドンッと大きな音が響いた。


それと同時に、叫び声と車窓の向こうで何かが噴き出すのを確認する。それは恐らく、すぐ隣の車両から放たれた『何か』──


(あれは魔術の炎⁉ けれど、それにしては──)


まるで竜が火を吹くようにゴォと紅蓮の炎が逆巻いていたのだ。すぐさま宙に掻き消えるが、車外へ吹き飛ばされた兵士はぴくりともしない。小銃を構える暇もなかったのだろう。


「チィ!? しくじりやがって! 鉛弾をぶち込んでやるっ!」


ルーシーのそばにいた兵士らは、小銃を構えると後方車両へと走り出す。そして、後方車両へ続く扉を開け放つが──


「あっ」


兵士がそう声を漏らした時、もう目前まで迫っていたのだ。それはすべてを焼き尽くす爆炎──、その一瞬、彼ら兵士は死を覚悟する。


「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!? ──ん? あれ?」


だが、爆炎は目の前で掻き消えていた。


熱はまだ存在するにもかかわらず、彼らは全くの無傷だったのだ。よく見れば、あり得ない量の水蒸気がジュワーと音をたてて立ち上っている。そして、軍靴がじわりと濡れていた。まるで局所的な津波でも発生したような──


「間一髪でしたね」


兵士が振り返ると、そこにルーシーが立っていた。


「貴様がやったのか……? 水の壁を? 何もないところから!?」

「ええ。魔術とは属性現象の発露。ただ直に触れなければ発動できませんが」


扉の向こう側に男が見えた。やせ細った顔をしたローブの男──、どうやら彼こそが炎の魔術士らしい。ルーシーはその男の手元を確認する。


(あれは何? 発火装置のようなもの? 彼は純粋魔術士ではないの?)


男はルーシーに気付くと、逆方向に向かって一目散に逃げ出してしまう。


「チィ! 奴め、逃げるつもりだ!」


兵士はその後を追いかけようとしながら、グッとルーシーの腕を掴んできた。


「魔術士、貴様も手伝え!」

「喉が渇きませんか? 次を防げるほどの水量は確保できませんよ」

「は? どういう意味だ?」

「要するにタネ切れということです」

「チィ! 使えん奴めっ!」

「対処はお早めに。延焼は免れてもこの閉所では酸欠になりますので」


その後、遠くの車両からパンパンと銃撃音が響いた。すぐにまた列車が動き出したことから、おそらく男は射殺されてしまったのだろう。


(王都も物騒になったなぁ)


ルーシーはギュッとペンダントを握りしめていた。


(私……、きちんとやれていたよね……?)


先程は必死だったから何とかなったものの、今更ながらに手の震えを自覚する。


「貴女、すごいのね!」


そんなルーシーに、先ほどの老婆が興奮気味に話しかけてきた。しかも、たった今銃撃戦があったとは思えないようなキラキラの表情で、だ。


「まるでおとぎ話の魔法使いみたいだったわ! こう、バーッと水が出て! 私なんて怖くて小さくなっていたもの! 本当にすごいわ!」

「私も怖かったです。けれど、魔術は人民の幸福のためのものなので」

「貴女、宮廷魔術士さんだったわね。さすがだわ」

「え、えへへっ、あ、ありがとうございます」


心が少しだけほぐれた気がした。


(それにしてもあの威力は異様だ。一介の魔術士が行使できる威力を逸脱し過ぎている。まさかあれは魔術装置では──)


ルーシーは再びシートの中で揺られながら、ボーッと景色を眺めて旅の終わりの余韻に浸る。だが、気分が晴れることはなかった。





王都の駅に着いたのはそれからすぐのことだった。


「お帰りなさいませ、お嬢様。南部出張、長旅でさぞお疲れでしょう」

「待ってくれていたのね、ヨーコ。助かるわ」


彼女はアシュワンド家の使用人『ヨーコ』。彼女に荷物を預けると、ようやく「帰ってきたな」と人心地がくつ思いがした。だが──


「ああ、そういえば先ほど──」


そう、ヨーコが何かを言いかけた瞬間──


「ルーシーぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」

「ひゃぁぁ!? ええっ⁉」


ルーシーの全身にグンッと強い力がかかる。


なんと、叫ぶ男性にいきなり抱きかかえられてしまった。だが、ヨーコはというと冷静に「殿下がいらっしゃい──、ああほら、そこに」などと冷静に言葉を付け加える。おかげで、ルーシーは自分でも驚くような素っ頓狂な声が出た。


「で、でででで、殿下ぁぁぁぁ⁉」

「ああ、ルーシー! 愛しのルーシー! ルルルッルぅぅぅぅシぃぃぃぃぃぃ!」

「殿下!? ど、どうしてここにっ⁉」


ルーシーが『殿下』と呼ぶこの人物──


この奔放な振る舞いとは裏腹に、実は第三継承権を持つ王子で名を『エドワード』といった。エドワードは余程嬉しいのか、ルーシーを持ち上げて上下させたり、仕舞いにはブンブンと振り回すように踊り始めてしまう。


「俺の許嫁を迎えにきたに決まってんだろ!? どんだけ待ったと思ってんだ!」

「ちょっ、あの! で、殿下、下ろしてもらっても──、人が、人が見ていますので!」

「え? じゃぁ、やめるか」


急にスンッと消灯したように静かになるエドワード。だが──


「なーんて、うっそぉぉぉん! んなもん、見せつけてやりゃぁいいんだよぉ! ふははっ! ルーシーこいつめぇ! 相変わらずちっちゃいなぁ! ほぉら、高い高い! うひゃひゃっ!」

「あわわわわわわわわわわわ!」


彼はすらりとした細身の長身だが、きちんと体を鍛えるタイプだった。おかげで、極端に軽いルーシーなどは、まるで赤子のように容易く持ち上げてしまう。


ただ二人は幼少からの付き合いで、ルーシーの方も彼の扱いには慣れていた。


「あっ! 待てっ、ルーシー!」


ルーシーはするりとその手から逃げ延び、そばにあった駅の街灯の影にササッと隠れてしまう。


「で、殿下! お待ちくだ──、お待ちっ── 待てっ! ステイ! ちょっ! 待っ! ステイって言ってんでしょぉ⁉」


傍に控えていたエドワードの従者も、さすがにやりすぎだと溜め息を吐く。


「殿下。お戯れはその辺で。お相手は婚礼前のご息女ですから、もう少し加減して下さいな」

「何を今更! ルーシーとはこーんなちっちゃい頃からの付き合いなんだ! 俺達に遠慮することなど──、ルーシー? ル……、待て。なぜ逃げる? おい、ルーシー?」


エドワードの溺愛っぷりは異常で、本当にルーシーが可愛くて可愛くて仕方がないという様子だった。ルーシーの方も逃げてはいるのだが、恥ずかしいだけで嫌だというわけではない。だからこそ、彼との婚約を素直に受け入れた。


実は、これには時代の流れが関係していた。


産業革命による各産業の発展に対し、衰退していく王政や魔術士──、古いものが新しいものに取って代わる時代だった。そうした背景があるからこそ実現した幼馴染同士の婚約だった。



──だが、彼らにはひとつだけ障害があった。


「あら、お兄様。いやですわ、はしたない」

「ス、ススス、スカーレット!? ど、どうしてここに?」


それは、エドワードの妹『スカーレット』の存在だ。


鮮血のような赤いドレスに身を包んだ、いかにも王族然とした王女──、そんな彼女が軽い散歩でもしている調子で現れたのだ。ところがその言動や視線には何かネガティブな意志が色濃く滲み出している。それこそ、柔らかな空気にぴしゃりと冷や水を浴びせかけるように。


「今頃はバイオリンの時間ではなかったか?」

「だって。お兄様がこそこそと出かけていくのが見えたんですもの。また懲りずにあの女に会いに行くのではと思いまして、こっそり後をつけていたのですわ」

「『あの女』ってオマエ。スカーレット、仮にも相手は──、ハァ……」


実は、スカーレットにはエドワードも手を焼いていた。


蝶や花よと甘やかされて育った彼女は、自尊心が高く傲慢だった。幸い見た目には恵まれ、各所から求婚されまくる王自慢の娘。ところが、彼女はそうした申し出はすべて断っている。その理由というのが──


「見てくださいな、お兄様。これほどお兄様が構って差し上げているのに、随分と嫌そうにされていませんこと? 所詮は末端の末端の末端の末端の、あガガガガガガガガっ! 木ぉぉぉぉぉっ端ぁぁぁぁのぉ! 末端のぉぉぉぉぉ! ──と、まぁ、そういうお家の方ですのよ。お兄様には到底釣り合いませんわ」

「オマエはまたそういう失礼な言い様をして。俺がどれだけル──」

「シャラぁぁぁぁぁップ! お兄様には私がいるじゃありませんか! こんな可愛い私がっ! ね? ほら! お兄様! 帰りましょう! 私、バイオリン上手になりましたのよ。お兄様に聞いてもらいたくて、一所懸命修練を続けていたのですから。ねぇほら、早く帰りましょう? 早く帰るの。ね?」

「いや、今日は大事な話があってだな。式の方の打ち合わせを兼ねて──」


あくまでもエドワードは理性的に言葉をかける。だが、スカーレットにそんな表面的な態度は通用しない。案の定、いつものスイッチが入ってしまう。


「お兄様は実の妹が可愛くないのですか!? ひどいわ! ねぇ! どうして!? 私はこんなにもお兄様をお慕いしていますのにっ! ねぇ! なんで? なんでなの!? どうして? ねぇ! お兄様っ! 私はこんなにも──」


それはもう、一個連隊による小銃掃射のように──


「お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様──」


止むことのない言葉の掃射。呪詛のように重ねられる歪んだ愛情の言葉に、エドワードの顔はみるみる真っ青になっていく。


「だあああああああああああああ! スカーレット、分かった! 分かったから! 帰る! 帰るから! で、では、ルーシー、また──、おわっ!」


グイッと腕を引っ張られ、エドワードは引き摺られるように去っていく。


まさに嵐のような時間だった。列車から降りて、まだそれほど経っていないはずなのだが、どっと疲れるような、そんな深くて長くて重い──、そんな時間を過ごした感覚に陥っていた。


さすがのヨーコも、ふぅと胸を撫で下ろすように息を吐いた。


「相変わらずですね、あの方も」

「ええ本当にねぇ。婚礼、半年後だけど大丈夫かなぁ……」


エドワードの消えた景色を眺めながら、一瞬「半年後にはあれが義妹になるのか」と思考がよぎる。


──が、とりあえず今は考えないようにした。





数日後、ルーシーは王都魔術省にいた。


父・アルヴィンに突如呼び出されてきたのだが、部屋の近くで──


「閣下、一体どういうことです!?」


扉の開け放たれた部屋の中から、怒鳴りつけるような声が聞こえてきたのだ。


「レイヴン。キミの余計な根回し、私の方で止めさせてもらったよ」


アルヴィンはどこまでも冷静なのだが、相手の男は実に感情的だ。


「ご忠告申し上げたはずです! これからは軍との連携が必要だと!」

「その議論は済んでいる。いや、するまでもないのだ。キミも魔術を(たしな)む者なら知っているだろう。軍事転用がなぜ禁忌とされているかを」

「それは──」

「条約違反をしてその先に何がある? また忌むべき歴史を繰り返すのか?」

「しかし、閣下!」

「くどい!」

「わ、わかりましたよ、閣下。ですが、どのようなことになっても私は知りませんからね?」


乱雑な足音で部屋を出た男は、ルーシーに気が付いて刺すような視線を向けた。その気迫に一瞬身がすくむが、男は無言で足早に去っていった。


「お父様」


アルヴィンは緊迫の雰囲気だったが、ルーシーを見て一気に破顔する。


「ああ、ルーシー。忙しいところすまないね。呼び出してしまって」

「いえ。それよりお父様。今の──、宜しかったのですか?」

「いいんだ。話は済んでいる。しまったな。扉を開けたままでする話ではない」

「お父様。軍事転用といえば、先日の──」


列車で遭遇した、あの『炎の魔術士』のことだ。実はアルヴィンにはすでに報告してあった。


「発火させる魔術装置だったな。印と陣を刻む古の魔具──、遥か昔に失われた技術だ。私もそれとなく探りを入れているが情報はあがっていない。厄介なことにならなければいいが」

「通常兵器としては強力過ぎですし、魔術としても制御出来ているようには──、もしや、その装置、例の結社の仕業でしょうか? 王都にはそうした秘密結社が跋扈(ばっこ)していると耳にします。もしや、ナイトメアという男が──」


ルーシーがそうした分析を口にし始めると、アルヴィンは急に黙りこくってしまう。そして、実に申し訳なさそうな顔で口を開く。


「それよりも、だ。ルーシー。すまない、呼んだのは他でもない。残念な知らせがある。殿下との件──、実は延期となってしまったのだ」

「ええっ!? それは一体どうして? 延期っていつまで──」

「無期限、だ。本当にすまない」

「理由はなんです? 私に何か落ち度があったということでしょうか?」


アルヴィンはかなり困ったような顔をした。それからルーシーに近付くように目配せをすると、その耳元に囁くようにして理由を告げる。


「ここだけの話だ。くれぐれも口外しないようにしてくれ。──実は公にされていないが、王宮で問題が起こったのだ。国王の暗殺未遂という、国家を揺るがす大事件が起きてしまった」

「え……、そ、それで国王様は……?」

「一命は取り留めたものの、今のところ会話もできないらしい。しかも、実行犯もまだ見つかっていない。おかげで、王宮は今や蜂の巣をつついたような大騒ぎだ」

「そうなのですか? 宮廷魔術士の私のところには何も」

「ともかく、残念だがそういうわけで延期となってしまった。すまないな」

「お父様が謝る事ではありません。国王様も早く良くなるとよいのですが」

「そうだな。あとは犯人を捕まえてだな。なるべく早く再度の日取りを決めたいところだ。私はね、ルーシー。殿下ならば、きっとルーシーを大事にしてくると思っているのだよ」


父を安心させるため──、何より自分のために婚姻を実現したい。


王家魔術指南役の父に学んだエドワードは、ルーシーにとって兄弟子にあたる。年上で明るくユーモアのある彼はずっと憧れの存在だったのだ。奔放な奇行は少々玉に(きず)だが、そんなことは些細なことだった。


そんな彼から想いを打ち明けられた時、どれほど嬉しかったことか。延期になったとはいえ、ルーシーはまだそうした夢のような日々の中にいたのだ。


──だが、その幸せな夢は長くは続かなかった。





『アルヴィン・アシュワンドを反逆の罪で拘束した』


父が拘束される──、そんな一報を受けたのが、ルーシーが外へ出かけていた時だった。突然のことで真偽を確かめる術もなく、『屋敷にて謹慎せよ』と言い渡されて自宅である屋敷へと戻った。


屋敷には、まだ年若い弟・セシルと数名の使用人たちがいた。全員が突然降って湧いたような意味不明な状況に困惑し、不安げな表情で過ごすしかなかった。


「姉上、情報が入りました。どうやら王殺しの嫌疑がかけられているようです。幸い王はご存命のようですが、このままだと当家がどのような扱いを受けるか」

「王殺し──、そんなことお父様に限ってあり得ないわっ!」


その後、不安の中にあったルーシーらの元にエドワードが駆け付ける。そして、ルーシーの手を取ってそっと包み込み、暖かい言葉で寄り添ってくれた。


「ルーシー、これは何か手違いだ。俺も手を尽くす。それまで二人で──、みんなで苦境を乗り越えよう」

「はい、殿下。どうか宜しくお願いします……」

「俺が犯人を捕まえてやる。それから俺達の婚儀を盛大にぶちかましてやろう」


何よりも心強い言葉だった。彼の真っ直ぐで温かい人柄はルーシーに安心感を与えてくれた。



──だが、その後に事態は急転する。


「アシュワンド家の全員を反逆の罪で拘束しますわ」


別の者がやってきてそう言い放った。その人物はたくさんの兵士を引き連れ、我が物顔でズカズカと屋敷の中へと入ってきたのだ。


「ま、待てっ!」


エドワードが間に入って止めに入る。


「これは一体どういうことだっ⁉ スカーレット!」


そう、そこにいたのはエドワードの妹・スカーレットだった。


「あら、お兄様。どうしてこんなところに?」


この時、スカーレットは異様な格好をしていた──、それはまさに『男装の麗人』。なぜか、彼女はきっちりと軍服を身に纏っていたのだ。


その上、他の兵士とは違う特別仕様ときている。上着もズボンも燃えるように鮮烈な赤であったのだ。遠目からでもかなり目立つ装いで、実際の戦争であればさぞ良い的になることだろう。


「それはこちらのセリフだ! なぜオマエが軍を指揮している!? アルバート兄さんの許可を得ているのか⁉」


この状況は指揮系統を考えて到底あり得ないことだった。しかも、その鮮烈な軍服姿は、それこそ鮮血を浴びた悪魔のようにも──


「勿論! 許可は得ていますことよ。スカーレット、可愛いオマエになら全権与えよう──、という具合ですわ。エドワードお兄様」

「そんなわけ──」

「あら、お兄様。邪魔立てなさるならお兄様も例外ではなくてよ?」


スカーレットの合図で、兵士らはエドワードすらも押さえつけてしまう。抵抗は出来ただろうが、すでにアシュワンド家の人たちを人質に取られているような状態ではそれも意味がない。


「待てっ! アシュワンド卿が暗殺などするわけがないだろう!? 他に真犯人がいるに違いないんだ!」

「そんなことどうだっていいじゃありませんか、お兄様。大事なのは、誰がやったかではないのです」

「は? どういう意味だ……?」


その時、エドワードは見逃さなかった──


スカーレットの口角が僅かに上がったのを。


「あ、ああ……、嘘だ……、まさか……、嘘だと言ってくれ……、オマエなのか……? スカーレット、オマエが……、どうして……?」


エドワードは全身から力が抜けていくのを感じた。最早、何のために、一体どうすればよいのか。彼はもう訳が分からなくなってしまっていたのだ。


「大丈夫ですわ。お兄様には、この豚どもとは別に、特別なスイートルームをご用意致しますわ」





王宮に程近い地下──、冷たく湿度の高い場所。


そこは一部の者だけが知る秘密の地下牢だった。すべてが石造りで外の音が一切聞こえない。水滴の音だけが異様に耳に残り、まるで異界に放り込まれたようで不安をかき立てられる。


ルーシーらアシュワンド家は、使用人も含めて全員が大部屋に収容されていた。ふと見れば、壁には鉄の鎖が垂れ下がっており、黒いシミはカビか血液か──


「お父様っ!」


兵士がアルヴィンを連れてきたがルーシーの声にも反応しない。それほどに衰弱しているのだろう。衣服の汚れや打撲の跡を見れば、拷問を受けたのは明白だった。


「お願いします、手当をさせて下さい。このままでは──」

「黙れ。無駄だ。貴様も明日にはそうなるだろう」


それから、兵士はじっとりとした視線をルーシーへと向けた。


舐めるようないやらしい視線に、ルーシーは全身の力が抜けていくのを感じる。どのような目に遭わされるか──、それを想像するだけでどうにかなってしまいそうだった。


「姉上……」


だが、不安そうな弟を見て、ギュッと拳を握って堪える。


(ダメだ。私がしっかりしなきゃ……、ああ、殿下……、私は……)


エドワードのことを思い出す。苦境を一緒に乗り越えようと言ってくれたあの言葉──、だが、その彼もどうなっていることか。


兵士らが去った後、ようやくアルヴィンが「う……」と呻き始める。


「お父様、申し訳ありません。私が殿下との婚姻を望んだせいで──」


スカーレットとエドワードのやりとりを聞いて、ようやく現状を察することが出来た。スカーレットの敵意は気付いていたが、こんなことをどう予想しろというのか。まさか兄への歪んだ愛情のために父親すら犠牲にするとは。


だが、父・アルヴィンはその言葉を否定した。


「違う。そうではないのだ、ルーシー……」


ただそれが精一杯だったようで、アルヴィンはそのまま気絶してしまった。


そして、再び兵士がやってきて口にした言葉──、絶望の渦中で聞かされたそれはルーシーにとって本当に受け入れ難い内容だった。


「え? 今、なんと……?」

「何度も言わせるな、ルーシー・アシュワンド。エドワード王子との婚約の件、正式に破棄された、と言ったのだ。当たり前だろう? 重罪人が王族と──、もっともその罪が確定すれば死罪になるのだから、破棄もクソもないのだがな」


薄笑いを浮かべる兵士の声はいつまでも耳に残ったが、いつまでもその内容を脳が受け入れようとはしなかった。





「卑怯者! 私が憎いなら、私だけ痛めつければいいじゃないっ!」


ルーシーは怒りをぶつけた。


未だかつて、人生の中でこれほど怒りを露わにしたことがあっただろうか。彼女は本当に怒っていたのだ。


一人だけ別室に連れてこられ、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべる兵士にベタベタを全身を触られて。鎖に繋がれ、これからどのようにおぞましいことをされるか──、まだ少女でしかないルーシーは絶望していたのだ。


だが、その人物を目にした瞬間、全身の血が沸騰するような怒りに襲われた。それから数度鞭で打たれたが、恐怖や痛みで萎えるどころか怒りは更に強まっていく。


「おかしいわね。婚約破棄された割に元気じゃないの。どうしてかしら?」


その人物とはスカーレットだ。


一族を不幸のどん底へと落とした張本人には、まるで悪びれた様子もない。


今も真っ赤な軍服に身を包む彼女は、手持無沙汰に革製の鞭を腕に巻きつけて遊ばせていた。その鞭はすでに黒ずんだ血が滲んでいる。ルーシーが連れてこられた時にはすでにそんな色をしていたことから、恐らく父・アルヴィンの血に違いない。


「あの馬鹿ども、勝手に言っちゃうんだもの。私が言いたかったわ。言われた時どんな顔するか──、ああもう! 折角楽しみにしていたのに! なのに、なのに。しょんぼりしているかと思って連れてきてみれば、キャンキャンと野犬みたいに喚くじゃない」

「エドワード様との婚約のこと、気にくわないなら最初から私を痛めつければいいでしょ⁉ どうしてお父様を──、どうして暗殺だなんて──、一族にはなんの罪もないのに──」

「あら? 本当に? 貴女、何も知らされていないの? 思っていたよりずっと箱入り娘だったのね」

「は? どういう意味──」


何のことを言っているのか理解できなかった。


婚約以外の何か。それも一族が関係する何か。だが、どれだけ考えても思い当たるものは無い。少なくとも、ここまでひどい扱いをされる何かなどあるはずもない。


「ねぇ、ちょっと。この子知らないそうよ? これ、どうするの?」

「スカーレット様、段取りというものが──」


扉の向こうから現れたのは、見覚えのある男だった。


「あ、貴方──、お父様の──」

「ああ、たしか魔術省でお会いしましたかね。私、レイヴンと申します」


父・アルヴィンと言い争っていた人物で、部下のレイヴンという男だ。あの時、たしか軍とのやりとりをとがめられていたはずだが──


「ねぇ、レイヴン。この調子じゃ、弟くんの方だって何も知らなそうよ?」

「やめて! セシルには手を出さないで! ──ぎゃっ!」


ルーシーが叫ぶと、スカーレットの平手打ちが飛んできた。おかげで、冷たい石床に打ち付けられるように投げ出されてしまった。


「うっさいわね。こっちの会話を遮るんじゃないわよ、この豚が」

「スカーレット様、子供たちが知っている必要はないのですよ。自分のために子供らが傷付けば、きっとあの男は折れるはずです。なにせ甘い男ですから」

「ふぅん。なるほどねぇ」

「まぁ、けれど、知らないというのは嘘の可能性がありますから、しっかりと口を割らせませんと」

「なら、兵士たちの慰み者にしてみたら?」


スカーレットの冷たい目──


その視線にルーシーの背筋が凍り付く。ようやく理解したのだ。一見会話が成立しているようで成立していない。たとえるなら昆虫のような──、そういう異質な精神性を持った相手なのだ。


「きったない娘の姿を見せられたら、さすがに折れるんじゃない? ああ、いいじゃない! あのおっさんがどんな顔をするか──、ちょっとワクワクするわ」

「いえ、それは最後の手段にしましょう。いきなり追い詰めてしまうのは危険です。相手は腐っても魔術士、抵抗されては面倒ですから」


レイヴンはそう言うと、横たわるルーシーの髪の毛を掴んで引っ張った。


「痛っ──」

「それでは尋問を始めましょうか。娘、知っていることを話すのですよ。『あれ』は何処にあるのです? 早めに答えた方が苦痛は少ないと思いますよ」

「あ、あれって……?」

「ああ、失礼。『魔導書(グリモア)』のことです」

「グリモア……?」

「知らない? 本当に? 伝説級の代物ですよ? 多少は耳にしたことはあるのではないですか? アシュワンド家に伝わる漆黒の古書──、黒の書『魔王(ルシファー)』の名を冠する、災厄の魔術装置。実にすばらしい」


ルーシーは、初めて聞く言葉に困惑するしかない。


だが、レイヴンはそんなことお構いなしに語り続ける。その目はまるで何かを盲目的に崇拝し、自ら狂気へと足を踏み入れようとする狂信者のような──


「魔術が軍事転用禁止となる、その直接的な原因となった先の大戦──、そこで最も多くの者を灰燼に帰したという悪魔の発明品です。それを貴女の御父上が持っているはずなのです。なぜなら、彼はその継承者なのだから。いやぁ、突き止めるまで随分と苦労しましたよ。本当はもう少し穏便に──」



──その時、ドンッと揺れた。


「はっ!? 何事っ⁉」


スカーレットは一瞬足元の危うさにバランスを崩しかけた。地下牢全体がまるで鳴動するようにビリビリと震え、僅かに壁が崩れて砂埃を上げた。


地震──、ルーシーの脳裏にも一瞬そんな文言が浮かぶ。


だが、その原因は全く別のことだった。すぐにそれを知らせる兵士が駆け込んできたのだ。


「た、大変です。現在、何者かの攻撃を受けております!」

「何者かって、何者よっ⁉」

「そ、それが! 分からないのです!」

「はぁ!?」

「黒い装束の複数人を確認しているのですが──」

「だったら、早く殺すか捕まえるかしなさいよ!」

「それがその──、銃にて応戦したところ──」


兵士は青い顔をしながらゴクリと息をのんで、言ってはいけない──、そういう声色でそれを口にする。


「まるで亡霊のように掻き消えてしまったのです」


だが、スカーレットは革の鞭をしならせてぴしゃりと打ち据えた。


「ひっ⁉」

「貴方! それでも軍人なの!? 兵士なの!? ヒトが消えてなくなるわけないじゃないの!」

「で、ですから、まるで亡霊のようで──」

「ああもう! 馬鹿はこれだから嫌いよ! 私の言う通りになさい、すぐにでもそいつを殺してやるわ!」


──だが、場の混乱はそれでは収まらない。


再び、別の兵士が駆け込んできたのだ。


「ス、スカーレット様ぁ!」

「今度は何よ! また消えたの⁉ 馬鹿はちょっと黙っていなさいよ!」

「あ、いえ、近衛兵が──」

「は? 近衛兵?」

「現在、当陸軍と近衛兵が銃撃戦を始めてしまいまして──」


近衛兵とは、陸軍の中でも王宮などの警護にあたる者たちのことだ。実は、彼らは陸軍所属ではあっても少々毛色の異なる存在だった。王族の警護という名誉ある職に彼らは命をかけていたのだ。


「なっ、なにやっているのよ!? 近衛兵だって陸軍でしょ⁉ なんで貴方たち同士討ちしちゃってるのよぉ!?」

「い、いや、それが、奴ら『王宮は自分たちのテリトリーだ』と──」

「はぁ!?」

「それと、スカーレット様を出せと。王暗殺の容疑がどうのと申して──」


スカーレットは白目をむいてなんだか様子がおかしくなり始める。その様子に、レイヴンもぎょっとしてしまう。


「ぐっ、ぐがっ! あガガガガガガガッガ──、ゴミ共がぁぁぁぁ!」

「ひっ⁉ ス、スカーレット様!? ど、どうされ──、うわっ!?」

「うがぁぁ! レイヴン、オマエも来いぃぃ! うぐぅぅ、こぉの忙しい時にぃぃぃ!」

「ええっ⁉ いや、その、私は内勤でぇぇぇ──、うわああああああ──」


レイヴンはスカーレットに引き摺られていった。そうして、その場にはルーシーの他に数人の兵士が残された。拷問されずに済み一瞬ホッとしたものの──


「な、なぁ、これって……」

「やっ! やめてっ!」


兵士たちがルーシーの身体を無造作にまさぐり始めたのだ。相手は屈強な男たちで、しかもルーシーは鎖につながれている。逃れようとする度、男どもは逆に喜ぶように下卑た笑いを浮かべた。


「へ、へへ……、ちょ、ちょっとだけだって! ──あがっ⁉」


ルーシーに覆いかぶさろうとしていた兵士──


それが糸の切れた人形のように転がる。完全に意識を失っているのか、まったくピクリともしなかった。そして、他の者たちも同様に意識を失って倒れていった。


「え……? なに……?」

「すまない。遅くなったな、ルーシー」


顔を上げるとそこには見知った顔があった。


「で、殿下!? どうして!?」

「どうしてとはあんまりだな。許嫁を迎えにきたに決まってんだろ」

「だって、殿下も捕まって……」


その時、カチャンと音がして、ルーシーを拘束していた鎖が外れて落ちた。


「お嬢様、申し訳ありません。お助けするのが遅くなりました」

「貴女……、え……?」


鎖を外してくれたのは女性だった。


一瞬、脳が混乱する。聞き覚えのある声なのにその見た目と一致しない。なにせ相手は全身黒ずくめの妙な格好をしていたのだ。頭もすっぽりと黒い布で覆われ、確認できるのは目元だけだ。


その時、一瞬、先ほどの兵士の言葉が蘇る──


『まるで亡霊のように掻き消えてしまったのです』


そう、その目の前の人物は全身真っ黒でまるで影から染み出したような──、ついさっき、鎖を外す時もそうだった。ルーシーは外されるまで、この人物の存在に全く気付かなかった。


だが、やはりそれは知っている人物──


「ヨーコなの? その恰好は一体……? もしかして貴女が殿下を……?」


黒いマスクの向こう側で、その目が優しく笑ったような気がした。





──それは数刻前。


「うう……」


エドワードは拘束されていた。


身体を捩ると、カチャリカチャリと鎖が騒々しく鳴る。厚みのある手枷のせいで、手首に血が滲んでしまっていた。


(あれから何時間経った……? くそ……、なんでこんな……)


そこは石造りだが、ルーシーらの収容されている場所とは違う。円筒形の壁に囲まれ、不必要に高い天井──、そして、明かり取り用の小窓が手の届かないほど高い位置にあった。


(こんなところでグズグズしている暇はないというのに)


ルーシーがどのような扱いを受けているか。想像するだけでどうにかなりそうだった。


(ん……?)


そんな絶望の中、エドワードは僅かな気配を感じる。


(いや……、風か?)


遠くの方で野犬が遠吠えでもしているような──、そういう小さな騒めきだった。それは不安を煽るようでいて、自分とは一切関係しない事象のような──


(気のせいか……)


だが、それは気のせいではなかった。


「探しましたよ、殿下」

「うあっ⁉」


エドワードは、その不意の声に全身を硬直させた。


(気配が──、急に現れた?)


自分以外の誰も居なかった──、少なくとも今の今まで誰の気配もなかったはずなのだ。


(──いや、違う。今も気配がない。なのに、声だけが聞こえる。一体これはどういう原理だ?)


牢の扉は開いた気配もない。──だとすれば、侵入経路はあの高い位置にある小窓だろうが、到底ヒトが登れるものではない。だが、この人物はそこから入ってきたのだ。しかも、エドワードに一切気付かれないほど極めて静かに。


「何者だ? いや、何者かは関係ない。俺を今すぐ出せ」

「出てどうするのです?」


暗闇の中、相手の姿は見えない。ただ落ち着いた音だけが聞こえてくる。


だが、不思議と恐れはなかった。


「俺の嫁を助けに行く。それ以外に何がある。あ、いや、まだ許嫁だが」

「すでにその婚約は破棄されました。アシュワンド家は大罪人。殿下とお嬢様が結ばれる未来は、この先未来永劫やってくることは絶対に無いでしょう」

「関係ない。俺の嫁は俺が決める」

「殿下は公人。婚姻もその一存で決められるものではありません。それでも国を裏切り、民を裏切り、大罪人の娘を娶るというのですか。到底正気の沙汰とは思えませんが」

「関係ないと言っただろう。俺の心はとうに決まっている」


あれはまだずっと昔、十代の頃──


エドワードの母が亡くなった時のことだ。泣くことも許されず、毅然と振舞うことを強いられた。そして、それを当たり前のようにやってのけ、まだ若いが堂々としたエドワードを誰もが褒め称えた。


そんな彼の元にルーシーはやってきたのだ。


だが、彼女は何も言わない。隣にちょこんと座ってただ寄り添ってくれただけ。エドワードはあの時の景色を未だに覚えている。夕暮れの影が伸びていく世界に、ただ二人だけが取り残されたような。けれど、さみしくはなかった。不思議と満たされていたのだ。


──だから、揺るがない。心はもうその時に決まってしまったのだから。


「両者を天秤にかけるというのなら、俺は迷わず彼女を選ぶ。たとえそれで国賊と呼ばれようとも、たとえそれで死刑になろうとも。俺は俺の心のままに生きる。──後悔はない」


その時、影がうごめいた。


そして、姿を現す。それは黒装束の何者か──


「一体何者なんだ……?」

「王都に巣食う悪夢の一端──、とだけ申しましょう」



──そして、現在へと至る。


「さぁ、お嬢様。立てますか?」

「え、ええ……、けど、ヨーコ、私……」

「殿下、お任せして宜しいでしょうか」

「ああ。それで、オマエは?」

「もう少しだけ悪夢を呼び込みましょう。──人々が決して夜を忘れぬように」


黒装束の者はそう言うと、ふっと煙のように掻き消えてしまった。


「どういう原理なんだ、あれは」

「殿下、とにかくここを脱出しましょう。弟たちも心配です」

「そうだな。急ごう」


ルーシーとエドワードが牢から出ると──


遠くから多くの足音が聞こえてきた。しかも、あちこちから様々な音が反響してくるため、距離感もその規模もよく分からない。だが、それらは統制がとれておらず、混乱していることだけはたしかだった。


おかげで、兵士に遭遇することなく弟たちのいる場所へ戻ることができた。


「姉上! ご無事で!」

「ああ、セシル。良かった、貴方は無事なのね。それにみんなも」

「ルーシー、セシル。感動の再会は後だ。早くここを出なければな。しかし、どうしたものか」


だが、ここは完全に敵のど真ん中。敵だらけの巣穴に閉じ込められている状態だ。しかも、満身創痍の父親を連れて逃げなくてはならない。


「殿下、私にお任せ下さい」


ルーシーは石床に手を当てる。そのひんやりと冷たい手触りに、じっとりと水分が膜を張るように含まれているのが分かった。


「いけそうか、ルーシー?」

「はい、問題ありません。どうやら、この下に地下水があるようです」


次の瞬間、ルーシーの触れた石床からじわりと水が染み出し──、すぐさま隙間からゴボッゴボッと間欠泉のようにたくさんの水が溢れ出てきた。


「おお!? こ、こんなにか⁉ これは心強い」


ルーシーの手を離れた水は床の上を滑るように流れていく。靴底が湿る程度のものが、次第に小川のせせらぎに変わり──、そして、鉄砲水のような凄まじい勢いへと変容する。


「水流のこの反響具合──、恐らく地下にいるのは兵士だけのようですね」

「フッ、俺の出番だな。たまには兄弟子らしいところも見せんとな」


そうして二人が準備を進める中──


地下牢にいる兵士らは混乱の中にあり、すでにまともな統制はとれていなかった。しかも、そんな彼らの足元には──


「おわっ! どこから水が?」

「おい、どっかで派手に水漏れして──、あぎゃっ⁉」


一瞬、薄暗い地下の廊下が眩しく光る。だが、それを正確に知覚出来た者はいなかった。なぜなら、光った時には彼らはもう意識を失っていたのだ。


「殿下、いつでもどうぞ」

「素晴らしい! 心置きなく力がふるえるというのは何と痛快なことか!」


ルーシーやエドワード、セシルらのいる場所に水はない。──にも拘らず、石の廊下は床上浸水どころか、ザパァと波が膝上を越えて押し寄せてくる状態だった。そんな中では、兵士らもまともに身動きできず──


「まずいぞっ! アシュワンドが逃亡す──、おぎゃぁ!?」


だが、兵士らはルーシーらを発見しても、謎の発光でバタバタと倒れていく。そう、その発光はエドワードの指から放たれたもの──


それは『電撃』だ。


「俺の魔術『雷鎚(らいつい)』は指向性に難があってなぁ。あちこちに引っ張られちまう。けど、ルーシーの水があれば、この通り」

「いたっ! 待て貴様ら、逃げ──、うぎぃぃぃ!?」

「痛い思いをしたくなければどいていろっ! ほうら『雷神』エドワード様のお通りだぁぁぁ!」


地下の廊下は、完全にエドワードの独壇場だった。


水に浸かっていれば、すべてがその効果範囲。どこに居ようとも雷撃が飛んでくるのだ。足元の水流の上をまるで龍か蛇のように這い廻る雷撃は、次々と兵士たちを飲み込み感電させる。勿論、それはルーシーの緻密な水の操作があってこその芸当だった。


「どうやら──、あの黒いのがうまくやっているみたいだな」


階段を上ると、ようやく窓のある部屋へと出ることができた。ただそこには誰もいない。近衛兵との衝突で、皆そちらへ駆り出されているのだろうか。これでもう少しでようやく休める、そう思っていたのだが──


「ぐぅっ……」

「お父様! 殿下、お父様が!」


アルヴィンが呻いて崩れ落ちた。使用人に肩を借りてやっと歩いていた彼は、すでに瀕死と言っていい状態だった。


「まずいな。すぐにでも医者に診せないと。しかしこの状況では──」

「殿下、行って下さい」


ルーシーがそう告げると、エドワードはすぐにその意図を汲む。


「首謀者は分っているんだ。スカーレットを唆した奴がな。ルーシー、ここで少しだけ待っていてくれるか? どの道すべて解決しなければ、安全に休める場所もない」

「はい、殿下。お気をつけて」


エドワードはルーシーの肩に優しく触れた後、王宮奥へと走り出していった。


「ルーシー……」

「お父様!」


呻くアルヴィンがルーシーの腕を掴んだ。その力はひどく弱弱しく──、今にも崩れ落ちそうな頼りないものだった。


「お父様! 身体に障りますから今は──」

「いや、聞くのだ。伝えることがある。我が家の真の役割を──」


父のそんな姿をルーシーは見ていることが出来なかった。





父・アルヴィンが何かを伝えようとしている──


ルーシーはごくりと唾を飲み、ただその言葉を待つしかなかった。アルヴィンの命の火は刻一刻と燃え尽きようとしているのだ。これが最後の言葉──、そう思えばこそ、その一語一句を聞き逃せなかった。



──だが、その時だ。不意に声がした。


「なっ⁉ なぜ貴様らがここにいるのですっ!?」


レイヴンだった。


ルーシーらを発見するや否や、レイヴンは指先をくるりとなぞる。ヒゥッと音を立てて彼の周囲にうごめく何か──


それは『風』。


空気を歪ませた刃のようなものが、ヒュッヒュッと危険な音を奏でていたのだ。


「チィ!」


そして、レイヴンの指と同期するようにルーシーに向かって解き放たれる。


──が、ガキンッと何かに当たり、それは阻まれてしまう。


「くぅ!? なっ、こ、氷だとっ⁉ そうか、貴様が──」


レイヴンは標的を睨みつけながら、間にある『それ』を警戒する。


それは巨大な『氷』の塊だった。


レイヴンの疾風の刃はこの氷塊が防いでしまったのだ。しかも、それは瞬き程度の一瞬の間に現れた。その速度と規模は、あきらかに魔術の威力を逸脱した異様な力だった。


「貴様がナイトメアだったのか──、アシュワンド卿ぉ!」

「お、お父様……?」


ルーシーは混乱していた。


先程までそこにいたのはたしかに父・アルヴィンだった。だが、今、実際にそこにいるのは全くの別人。漆黒の上着を纏う、銀仮面の男だった。


そして、男がおもむろに口を開く。


「魔術は人民の幸福のため──、だが、今だけはその誓いを破ろう。我は我の想いのためだけにこの力をふるう。グリモアよ、我が敵を滅ぼせ」


その手にあるのは、夜の闇のように黒い装丁の古書──


「ああ、そうか。それがグリモアなのか!? 探したぞ! それを寄越せぇ!」


だが、レイヴンが再び行動を起こそうとした時──


アルヴィンの攻撃はすでに終わっていた。


「え……? あ……? やめっ、こ、こんな────」


レイヴンの声は途中で掻き消えてしまう。


なぜなら、彼の身体はすでに氷に覆われていたからだ。足元から一瞬で凍りついていき、あっという間に巨大な氷塊へと姿を変えてしまったのだ。


「うぐっ!?」


危機を脱したかに思えたが、アルヴィンは再び膝をついてしまう。


とうに限界を超えていたのだ。咄嗟にルーシーはその身体を支えるが、あまりにも力ない様子に、アルヴィンの命の火をがもう完全に消えようとしているのを察してしまう。


「ルーシー」

「はい、お父様……」

「オマエにこの力を託す。本当は巻き込みたくはなかった──」

「魔術結社の総帥・ナイトメアだったのですね。そして、それがグリモア──」

「ああ、我らは代々、結社の長となることを義務付けられた家──、その家長たる者がこの書を引き継ぎナイトメアとなるのだ。ルーシー、セシルはまだ若い。よって、次のナイトメアはオマエだ。夜の影となり、王都を、そして人民を守るのだ」

「お父様! けれど、そんなこと私には……」


ルーシーは口にしかけた言葉をグッと飲み込む。


『そんなこと私には出来ません』


結社、グリモア、ナイトメア──


ルーシーにとっては、どれをとっても受け入れ難いものだった。『ナイトメアは悪』という思いがどうしても頭によぎり、更にはその正体が敬愛する父だったという事実。なにをどう整理すれば、自分の中で納得できるのかも分からない。


──だから、気付けなかったのだ。


目前に『それ』が迫るまで。


その石の廊下を。


その石壁に囲まれた部屋を。


端から端まで埋め尽くすような──


『猛火』に。


「ああ……、だめ……」


その殺意の塊である炎を、ルーシーはただ見ていることしかできなかった。





視界のすべてを真っ赤なそれが埋め尽くしていく。


まるで這い廻る巨大な生き物のように、紅蓮の劫火が周囲すべての酸素を食い潰す。完全にもう、どこにも逃げ場はなかった。


そして、それは爆ぜた。


「うぐっ!?」


ルーシーは両腕で咄嗟に顔を覆って防御する。それに一体どれほどの意味があるのか。所詮それは無意識の反射でしかなく、彼女はそうする以外に出来ることもなかったのだ。


だが──


熱が通り過ぎていく。


「え……?」


パキッパキッと身体の表面から何かが崩れ落ちる。


「冷たい……?」


それは氷だった。ルーシーの身体の表面を、薄い氷が膜のように張っていたのだ。だが、炎の熱によってそれは溶け、ぽたりぽたりと水滴に変わっていく。


「お父様……?」


目前にアルヴィンがいた。


ルーシーを庇う様に立ちはだかっていたのだ。すでに炎は熱だけを残して完全に消滅していた。おそらく、咄嗟にアルヴィンがルーシーら全員を庇い、守ってくれたのだろう。後ろを見ると、セシルや使用人ら全員の身体からも薄い氷が溶けだしていた。


「ブッ……、ゴホッ……、おごっ……」

「お、お父様っ⁉」


アルヴィンは咳き込んでその場に倒れてしまう。すぐにもルーシーは抱きかかえたが、すぐにその異変に気付いた。


「ひっ⁉ 血!?」


アルヴィンは血を流していたのだ。しかも、炎や魔術によるものではない。腕や腹にいくつもの穴が穿たれ、そこから湯水のように血が溢れ出てきていたのだ。それは、明らかに銃による致命傷だった。


「おっ……、グッ! うぐっ、ブホッ!」


喉の奥からもどんどん血が湧き出し、至る所から血が染み出してくる。触れた血の温かさが急速に失われていくことに絶望を覚えた。


「やだっ! お父様っ! どうして!? お父様ぁ!」


そんなルーシーの声を嘲笑うように、扉の影から薄ら笑いが聞こえてくる。


「ちょっとぉ、なんで生きてるのぉ?」


それはスカーレットだった。


「けど……、ふひっ! ナイトメア死んじゃったぁ? なによ、全然大したことないじゃないの。まったくレイヴン、貴方ちょっと何勝手に死んでるわけぇ!?」


その手には回転式拳銃(リボルバー)があった。発射したばかりなのか煙が立ち上っている。


「ああ……、ああああああ……」

「あら? 壊れちゃったぁ? あっ! ねぇ、グリモアってこれぇ? ねぇ、これでしょ? なんでこれ、こんなに真っ黒なのぉ? 私、赤が良かったわぁー」


すでに事切れたアルヴィン。その手から零れ落ちた本をスカーレットが無造作に拾い上げる。


「触るなぁ!」


だが、ルーシーは衝動的にその本を奪い返した。


「許さない……、貴女だけは絶対に許さないっ!」

「なに、意味わかんない。なんでそんなに怒ってるの? ばっかじゃないの?」


ルーシーはまだ何も知らない。何も分からない。だが、そんな彼女の中に明確な目的が芽生える。それは──


『目の前の敵を殺す』


それは、父の教えた魔術の理念──


そうしたものから程遠い『純粋な殺意』だった。


「グリモアぁぁ!」


なぜだか分からない。


だが、ルーシーはそれをどう扱うものかを理解していた。そして、どういうものかを感覚的に認識する。それが正解だと言わんばかりに、ルーシーには本が震えたように思えたのだ。


「魔術は人民の幸福のために──、けど、そんなこと今はどうでもいい! ただ目の前の敵を殺す! 殺して殺す! そのために! そのためだけに! 私に力を寄越しなさいっ! 殺すための力をっ!」


──その時、何かが変わる。


それは景色なのか。


それとも感覚的な何かなのか。


気が付けば、目の端が銀のフレームに覆われていた。そして、右手の中──、バラバラとめくられた黒い本に文字が浮かび上がる。それはまるで踊るように、ルーシーに読まれることを望んでいるように。すべてを望むまま破壊し、殺し尽くすことを喜びとするように。


そして、そのすべてがルーシーの中に流れ込んでくる。


「貴女、その黒い恰好は何……? え? なんなのそれ……? それも魔術装置なの……?」


スカーレットは動けなかった。目の前で突如姿を変えるルーシーを見て、驚くと共に無意識に距離をとっていたのだ。


まず黒いものが現れた。本の中から現れたそれはどろりとタールのような──、それが瞬きをするような一瞬の間に、ルーシーの身体に巻き付いたのだ。だが、ねっとりと粘ついていたかと思えば、次の瞬間には黒い姿に変わってしまっていた。


ルーシーのその姿──


真っ黒い上着を身に纏い、銀のマスクとツバ広の黒い三角帽子(トリコルヌ)、そして真っ黒い装飾のレイピアといったもの。正に『男装の麗人』という装いだった。


そして、この時、スカーレットもまた真っ赤な軍服を身に纏っている。奇しくも、二人は同じように男装であったのだが──


攻撃的な『赤』と暗く沈んだ『黒』。


それらは、実に対照的に見えた。


「フン、どうせ見掛け倒しなんでしょ」


スカーレットは手元の魔術装置に指をかける。


それは、僅かな魔力で莫大な魔術効果を得られるもの。件の炎の魔術士が持っていたものと同じものだった。違いは術士の技量──、件の男は魔術士と呼ぶにはお粗末な技量しか持っていなかったのだ。


だが、スカーレットは違う。


代々王家は魔力量に優れ、魔術指南によってその力量を開花させるのだが、彼女は特にその過大な魔力量で、魔術の使用を禁止されるほどの力量だったのだ。そして、魔術装置というものは、魔力量に比例してその効果を相乗させる。


「さぁ見せてみなさいよ。ゴミが王族に歯向かうなどと、身の程を弁えなさい!」


スカーレットの指から炎が顕現する──


それらは指に纏わりつくようにして動きに合わせて踊る。


「知っていて? 魔術装置は強大な魔術師が使えばより強化されるの。炎は私の真骨頂。さぁ、炎の魔術装置『火の尻尾(サラマンドラ)』、私の言うことを聞きなさい。燃やしちゃうのよ、全部! ほら、アンタなんて全部燃えちゃえばいいのよっ!」


スカーレットの炎はすぐにみるみると大きくなった。そして、それはまるで生き物のようにゆらゆらと全身を揺らし、ルーシーへと襲い掛かる。


──だが、それは防がれる。


「キシ……、キシシシシ……」


スカーレットの耳に奇妙な声が聞こえてくる。


「なに……、なんなの……?」


だが、彼女には何が起こっているか分からない。目の前で自身の炎が言うことを聞かずに、ただそこで逆巻いているのだ。


「私の炎が防がれてる……? どうして……? 大きくなって……?」


それはルーシーの炎だった。


「キヒッ……、キシシシシシシシシ……」


ルーシーの口から、下卑た笑みのようなものが漏れ出ていた。そして、その指から暴れ狂うような炎が紡がれていたのだ。しかも、それは白に近いほどに黄色がかった炎──、つまりそれはスカーレットのものよりも温度が高いことを意味する。


「ぎゃっ⁉」


炎と炎がぶつかり、まるで爆発するように燃え広がった。スカーレットはその衝撃と発光に思わず目を瞑ってしまう。そうしている間も石の天井の表面をなぞるように、炎は延焼を広げていく。


「私と同じ炎で私に勝てると──、ぶっ、ぶはっ!?」


スカーレットが何かを言おうとした時、何かが口を覆った。


「なっ、何っ!? うぶっ、おぼぁっ!? こ、こえっ、み、水ぅ⁉ なっ、おぼっ、おぼぉぉぉぉ!」


彼女の顔を覆ったのは大量の水だった。それは地下から滔々と溢れ出し、一瞬で津波のようにスカーレットの身体を飲み込んだ。


「キヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒィィィ」


ルーシーは炎対決の最中、ほぼ同時に床下の水をも呼び込んでいたのだ。


「こ、こぼぉ! ばっ、うばぁぁ!」


スカーレットを飲み込んだ水流は、激しい濁流となって石の廊下を押し流していく。まるで鉄砲水のように有無を言わさず彼女の身体を押し流していった。


「あぼっ! がはっ! ばぁ!?」


息が出来ない──、あまりにも突然の濁流で、スカーレットは息を止めるということすら出来ていなかったのだ。口腔内に侵入する泥水に溺れる彼女は、もがき苦しみながらただ流されていった。


そして、彼女の身体はとうとう建物の外まで押し流されてしまう。


「ごはっ! かはっ! ゴホッ、ゴホッ!」


スカーレットは四つん這いになり、這いつくばってただただ水を吐き出した。最早全身は水浸しで、軍服が水を含んで重くてたまらない。セットに時間をかけた髪型だって、今は泥水にねっとりと雫を垂らしている。


そんな彼女の耳にタンッと足音が聞こえ、ふと見上げてみる。


「キシッ──、キシシシシシシシシシシシ──」


そこにいたのは黒い装いの少年──、ルーシーだった。


そんな格好では、予めルーシーだと知らなければ彼女とは分からないだろう。だが、それはその装いだけが原因ではない。


「キヒッ! キシシッ! キヒヒヒヒヒヒッ!」


そう、先ほどから聞こえるこの奇妙な笑い声こそが、ルーシーの声だったのだ。


「貴女……、ゴホッ……、本当にあのクソ豚女なの……?」


スカーレットは混乱する。あの気弱そうな女と、目の前のこの黒い装束の少年──、到底同じ人物には思えなかったのだ。


それもそのはず、ルーシーのその銀仮面の奥の目は──


『楽しくて楽しくて』


『切り刻んで』


『嬉しくて嬉しくて』


『焼き殺して』


『殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい』


『溺れさせて死んで埋めて殺して死んで?』


『苦しめて泣かせて殺して殺し殺し殺し殺し殺し殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺』


「キシッ! キシャァァァァァァァ!」


そんな愉悦に歪んでいたのだ。


今のルーシーはただ目前の敵を一方的に屠る──、そういう狂気の深淵に身も心も焼かれていた。そしてなにより、彼女はそれを受け入れてしまっていた。





ルーシーがナイトメアとなるその少し前──


「さぁ、兄上。観念して下さい。父上の暗殺未遂の件、すべて白状するのです」


実は、宮殿の上層では別の対決が行われていた。エドワードの前で足を投げ出して座っている男──、第二継承権を持つ王子『アルバート』だ。


「フッ……、不出来な弟が偉くなったものだな」

「出来は関係ないでしょう。それに、出来が良くたって使い方を間違えば意味が無い。──さぁ、話は終わりです。オマエたち、兄上を連れていってくれ」


今回の事件の首謀者はアルバートだった。


黒装束からその情報を聞かされた時、妙に腑に落ちてしまった。アルバートは元々一癖も二癖もある男だった。暗殺まで企てるとは思っていなかったが、いくつか証拠となるものも見つかってしまったのだ。


そうして兄を見送る中──


「ん? なんだ?」


下層の方で妙な音がした。


窓から下を覗いてみれば、水流に巻き込まれている人物が見えた。その水は明らかに魔術によるもので、一瞬ルーシーのことを思い出す。だが、そこに居たのは真っ赤な軍服を着た──


「スカーレット? なんだ、どうなっている? 相手は──」


水流の上を滑るように悠然と歩く人物──、その浮世離れした空気はヒトではない何かに思えた。しかもあの黒装束を彷彿とさせる全身が真っ黒な装いだった。


「黒い服の少年……? 誰なんだ、あれは……?」


その時、エドワードの脳裏に呼び起こされたのは件の男の名だった。


「王都に巣食う悪夢(ナイトメア)──、アイツが──」





「そう……、これがグリモアの力なのね……」


ぐっしょり濡れた赤い軍服から大量の水分を零しながら、スカーレットはおもむろに立ち上がる。


「水、炎、そういえば氷も──、魔術の根幹たる属性現象の発露──」


手元の炎の魔術装置『サラマンドラ』を確かめた。炎の発現は可能だが、ジジッと妙な音がしている。この湿度の中ではかなり威力を削がれてしまうのだろう。相当に相性の悪い相手だと理解する。


「舐めてたわ。こんなひとつしか使えない魔術装置より、ずっと使い勝手がいいじゃない。レイヴンが固執するのも分かるわ。──さぁ、もう満足したでしょ? いい加減それを寄越しなさい。今なら歯向かったこと、少しだけ許してあげてもいいわよ?」


だが、スカーレットの言葉はルーシーにはほとんど届いていない。


「ゆる……、さないっ……、キシッ! ころ……、殺すっ……、キヒッ! キシシシシシ──」

「まるで獣ね。強力な魔術装置もそれなりにリスクがあるよう──、ねっ!」


スカーレットは再び回転式拳銃(リボルバー)の引き金を引いた。それは回転弾倉(シリンダー)に残された二発の弾丸──、だが、それらはルーシーへと到達する前に叩き落される。


「風っ⁉ もうなんでもありじゃないの!」


それはルーシーが新たに発現させた疾風だった。どうやらスカーレットがリボルバーを構えた時にはもう仕掛けていたようだ。


「チィ! なら、これはどう!?」


スカーレットはすぐさま炎の魔術装置を起動する。


「さぁ、燃えるのよ! ほらほら、早くなんとかしないと黒焦げになるわよっ!」


最後の魔力の殆どを込め、最大級の炎の奔流を作り出す。それはルーシーの作り出した水すらも殆ど蒸発させるほどの規模だった。野外であるというのにその指向性は意志を持つようにルーシーに襲い掛かる。


──だが、スカーレットの目的は別にあった。


ガチャン。


(よし、使えるわ!)


それは兵士の持つ小銃だった。


スカーレットは目星をつけていたのだ。──倒れている兵士の持つ小銃に。リボルバーの替えの弾はあるが、再装填している暇はない。そして何より、スカーレットは小銃の扱いに慣れている。


さらに言えば、これは先ほどの再演──


父親を殺した時、爆炎で視界を塞いでからリボルバーで弾丸を撃ち込んでやったのだ。今回、娘の方も同じやり方で殺す。しかも、爆炎の規模も桁違いで、さらには命中精度の高い小銃ときている。


そうしてスカーレットは完全に勝ちを確信したのだ。


「死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」


炎の隙間を縫って銃弾を放った。


相手の位置は覚えている。炎が目隠しとなり、この銃弾は避けられないはずだ。


だが──


「え……、炎が……、上昇している……?」


上昇気流が発生していた。熱せられた空気と、ルーシーの作った風によるそれは、まるで竜巻のような巨大な奔流を作り出していたのだ。当然、そんな中で銃弾は届くことなく、どこかへと掻き消えてしまう。


「なんて……」


その時、スカーレットは──


「ああ……、なんて……」


呆然としてしまっていた。


「なんて美しいの……」


炎が生き物のように空へ登っていく。


その様は、まるで伝承の生物のようであったのだ。悠然と飛び回り、広大な空から見下ろす存在──、ちっぽけな自分を容易く屠る天上の龍のような──


「ああ、お願い。私を連れていって──」


だが、スカーレットはそこから一歩たりとも動けない。


そうなってから初めて気付いた。自身の足元が凍り付いていることに。急速に辺りが冷やされていき、濡れていた床がまるで真冬の泉のようにすべて冷え固まっていたのだ。


「それは私の……、私のも……、の……」


スカーレットの視界は冷たく固まって、──永遠に停止した。


そして──


「スカーレットっ!」


そこに息を切らしたエドワードが現れる。


その目に映るのは──


氷漬けとなった妹の姿だ。何かを掴もうと伸ばしたその右手は、もう何も掴むことはない。なぜなら彼女の命の火は、もう完全に燃え尽きていたのだ。


そして、エドワードが気付いた時、すでに黒き少年の姿は掻き消えていた。



──その時、ルーシーは逃げるように弟の元へと戻っていた。


「姉上……」


父の遺体の傍に座り込む弟・セシルが、変わり果てた姉を見てそう呟いた。


その瞬間、ルーシーの身体から黒い装束がほどけるように消滅する。あの仮面も、あの本も、泥のようにどこかへと消えてしまった。


「姉上、大丈夫ですか!?」

「ハァ──、ハァ──、お……、お父様は……、こんなものを飼いならしていたというの……? 次々と流れ込んでくる記憶と全能感、精神が内側から焼かれているよう──、私が私でなくなるような──」


ルーシーは確信していた。


消えた本も衣服も。あれらは見えなくともすぐそばにある。呼びかければ、すぐにでも黒い衝動がこの身を包み込むのだろう。あれはそういうものなのだ、と。


「グリモア──、あんなただの本が?」

「あれはどう言ったら──、恐らく、あの仮面も衣服も本も、すべてがそうなの。あれは貪欲な集積装置。記憶と魔力を吸い上げ、別の意志を形成する──、言わば人造魂魄。私はそれが与えるその全能感に操られていたに過ぎない。きっとあれは、ほとんどのヒトが抗えない」


冷たくなっていく父の手に触れ、ルーシーは未だ受け入れられずにいた。


「お父様──、どうして私にあんなものを残していったの……? どうして……」





事件の結末──


まず、国王は意識が戻って政務への復帰を果たす。


そして、黒幕であった第二王子・アルバートは拘束された。


現在はとある場所でひそかに幽閉されている。それは事件が公にされていないせいだ。軍による混乱も別の理由という扱いになっていた。結果、スカーレットの死も隠蔽され、事態は次第に収束していく。


だが、なぜか大衆紙では、まことしやかにそれらしい見出しが躍る──


『暗躍する魔術結社! 黒装束の集団が王宮へ攻め入る!?』

『王宮の悪夢! 王族の命を狙った凶行!?』



そして、ルーシーらアシュワンド家のその後は──


「まるで泣いているようだ」

「ええ」


父・アルヴィンの葬儀はずっと雨降りだった。ルーシーは喪服にかかる雨粒を優しく払い落とす。


「ルーシー。困った時はいつでも俺を頼っていいんだからな?」

「はい。ありがとうございます、殿下」


傍にそっと寄り添ってくれたエドワードの想いが素直に嬉しかった。


今回の事件では──


濡れ衣であったことが証明され、おとがめ無しは勿論のこと、非公式ながら国の援助も受けられることとなった。


だが、元通りにはならない。当主を失ったことで手続きや再編が必要になった。


「まさか、ルーシーが当主になるとはな」

「一時的なものです。いずれは弟に引き継ぎますよ。私よりもずっとしっかりしているので」


そして、二人の関係も元には戻らない。


「俺は婚約解消を了承していないんだ。俺は今でもオマエを──」

「殿下。その話はもう──、仮とはいえ家督を継いだ以上、これから忙しくなります。私には責任がありますから」

「そうか。オマエの心にはもう、俺はいないのか……」


寂しげなエドワードの言葉に、ルーシーは何も返さない。


「なぁ、ルーシー。家督を譲った時、もう一度この話をさせてくれないか」

「──分かりました」


ルーシーはそう答えるが、このやりとりに婚約のような制約はない。それはエドワードも分かっているが、言わずにはいられなかったのだ。


エドワードの去る背中を見ながら、ルーシーはただ雨の中で佇んでいた。そうしていると、数日前のことがまるで数年も前のことのように思えてしまう。


婚姻の暇が無いというのは嘘ではない。だが、それ以上に後ろめたさがあったのだ。エドワードの妹に手をかけた、──という事実が。


そして、彼女にはもうひとつ大きな仕事が待っている。


「お嬢様」

「ヨーコ。貴女、知っていたのね。お父様が結社の総帥であったことを」

「はい。黒の書『魔王(ルシファー)』を継承した貴女様が次の総帥となります」

「分かっているわ。次の悪夢(ナイトメア)は私──、貴女にも働いてもらうわよ」


ルーシーには、ある決意があった。


「エドワード様を次の王にする」

「ですが、あの方は王としては高潔過ぎるように思いますが」

「そうね。けれど、その純粋さがこの国には必要なのよ。魔術は人民の幸福のために──、そして悪夢は世界の秩序のために」



──そうしてルーシーが決意を固めていた頃。


エドワードもまた、ある決意を胸に秘めていた。


「ルーシー。俺はオマエを諦めない。必ずオマエを再び俺の元へ──」


そして、彼にもまた大仕事が待っている。


「ナイトメア──、妹を殺した男。この国に怪しげな秘密結社など不要なのだ」


それは秘かな決意表明だった。


「──俺がオマエを殺してやる」





ぽつりぽつりと水滴の落ちる薄暗い牢の中──


アルバートは天井の方を見つめていた。暗殺に失敗し、その謀略も暴かれてしまい、第二継承権すらもう無いに等しい。華美な衣服も装飾も剥がされ、すでに王族としての矜持すらも無い。


ただこの男にとって、そうしたものは実に些末なことでしかなかった。


「ああ、可哀想な妹よ。血の繋がった兄を愛したばかりにあのような悲劇を迎えるとは。思えば不憫な娘であったな」


この場所へ幽閉される前に、スカーレットの亡骸を見ることが出来た。美しい氷の彫刻の中に封入され、溶けない限り永遠の若さを得た妹の姿──、それはアルバートにとってある意味僥倖だった。


「悠久の美──、朽ちることのない魂か。素晴らしい。素晴らしいではないか。オマエは生き続けるのだ──」


いつの間にか彼の手には、あるモノが握られていた。


それは不自然なほどに透き通る真っ白い古書──


「この最古の魔導書(グリモア)・白の書『妖精王(オベロン)』によって、オマエに永遠の命を与えよう。そうだな、スカーレット。オマエの新しい名は──」


アルバートはニヤリと笑みをこぼした。


「赤の書『女王(モルガン)』、そう名乗るがいい」


その時、石床の上で『何か』がカランと鳴いた。

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