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第七話 銀の箱 すれ違う視線

エレベーターのドアが開いた瞬間、姫禾の心臓が跳ねた。


中には誰もいない。

ほっとしたような、少し寂しいような。


ボタンを押して、ドアが閉まりかけたその時――


「待って」


聞き慣れた声。


「……っ」


息が止まる。


貴久が、滑り込むようにエレベーターに乗り込んできた。


ドアが閉まる。

密閉された銀色の箱の中に、二人きり。


姫禾は俯いたまま、視線を上げられなかった。


会いたかった。

でも、会いたくなかった。


嬉しい。

でも、怖い。


昨日のこと。

あの部屋で、何があったのか。

断片的な記憶が、ぼんやりと浮かんでは消える。


先輩の手の温もり。

触れた唇の感触。

それから――


顔が熱くなる。


(……奥様に、なんて顔向けすればいいんだろう)


罪悪感が、胸の奥で重く沈む。


「姫禾」


低い声。


びくりと肩が震える。


「……はい」


返事はしたものの、顔は上げられない。


「……顔、見せてくれないか」


その言葉に、ゆっくりと視線を上げた。


そして――息を呑んだ。


貴久の左頬が、うっすらと赤味を帯びて、微かに腫れている。


「……何が、あったんですか!? まさか――」


言いかけた瞬間、貴久が言葉を被せるように遮った。


「それも含め……全部話したい」


いつもより低い、真剣なトーン。


「もし姫禾の都合が良いなら、今日仕事終わりに三ブロック東、喫茶エデンの前の立体駐車場に来てくれ。都合が悪いなら、会社のメールで空メールを」


その瞬間、エレベーターが四階に到着した。


チャイムが鳴る。

ドアが開く。


「じゃあ」


貴久はそれだけ言うと、先に降りていった。


姫禾は、その場に立ち尽くしたまま、ドアが閉まるのを見送った。


***


フロアに戻っても、姫禾の心は重かった。


(……きっと、奥様と何かあったんだ)


頬の腫れ。

あの低い声のトーン。


全部が、そう告げている。


(自分が、二人の関係を壊してしまったかもしれない)


罪悪感が、胸を締め付ける。


分かっていたはずだった。

先輩には、大切な奥様がいる。

自分は、入り込んではいけない場所に、踏み込もうとしている。


それなのに。


(何も分かっていなかった……)


なにが覚悟だ。

自分の欲を押し通しただけじゃないか。


ディスプレイの前に座っても、文字が頭に入ってこない。

マウスを握る手が、震えている。


ふと視線を上げると、少し離れた席で貴久が仕事をしていた。


集中している横顔。

淀みない手つき。


まるで、昨日のことなど何もなかったかのように。


(……すごいな)


どうして、あんなに落ち着いていられるんだろう。


姫禾は、また視線を落とした。


***


時間が、やけに遅く感じられた。


仕事は全く手につかない。

何度もミスをして、何度も修正した。


夕方、オフィスに夕日が差し込む頃。


姫禾の中で、ある結論が固まっていた。


(……きっと、今日振られるんだ)


優しい先輩のことだ。

言い出しにくいだろう。


だったら――


(自分から、身を引こう)


そう決めた瞬間、不思議と少しだけ楽になった。


定時のチャイムが鳴る。


貴久は、いつもより早く席を立った。

軽い足取りで、フロアを出ていく。


姫禾は、重い足を引きずるようにロッカールームへ向かった。


鏡に映る自分の顔。

青白くて、頼りない。


「……しっかりしろ」


自分の頬を、ぱんぱんと叩く。


(先輩に、迷惑かけないように)

(ちゃんと、けじめをつけなきゃ)


深呼吸をして、鏡の中の自分に頷く。


(……今すぐ、行かなきゃ)


この決意が冷めないうちに。

時間が経てば、きっと迷ってしまう。

先輩の顔を見たら、優しい声を聞いたら――


(また、甘えてしまう)


弱い自分に、負けてしまう前に。


姫禾は、立体駐車場へ向けて走り出した。

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