第六話 冷たい温度 眩い光
貴久は、自宅までの寒く、暗く、永い道程を歩いていた。
夜気は容赦なく体温を奪い、街灯の届かない道の影が、足元に澱のように溜まっている。
それでも、掌だけが妙に熱を持っていた。
いや――違う。
熱ではない。
冷たい温度。
あの細く白い手を握った時の、頼りなく、脆く、強く掴めば壊れてしまいそうな温度。
指先に残るその感触が、歩くたびに鮮明に蘇る。
(……距離を、取れたはずだ)
頭では何度もそう繰り返す。
研修が終わった時点で、いや、そのもっと前から。
近づきすぎていると、気付いていなかったわけじゃない。
それでも遠ざけなかったのは――
自分が、姫禾を意識していたからだ。
楽しそうに笑う顔。
無防備に頼ってくる視線。
守る側でいられる、その居心地の良さ。
(最低だな……)
拳を握ると、指先が冷たく痺れた。
まだ未来のある若い女を、"不倫"という、戻れない道の入口に立たせた。
彼女があんな無茶な飲み方をしなければならなかった理由を、自分は本当に分かっていただろうか。
「こうでもしないと……」
あの言葉が、胸の奥で鈍く響く。
――そして、思考は必然のように、もう一人の女へ辿り着く。
十和子。
自立し、揺るがず、こちらが迷えば迷うほど、遠くで強く光る存在。
(……裏切った)
その事実が、今になって、ようやく現実味を帯びて胸に落ちる。
全部話そう。
洗いざらい、何も隠さず。
十和子に嘘など、ついていいはずがない。
そう決めた瞬間、視界の先に自宅の灯りが見えた。
胸が、ひどく重くなる。
――こんな時間だ。
もう寝ているかもしれない。
それとも、まだ起きて待っているだろうか。
もし、待っていたら。
そう考えただけで、足が止まりそうになる。
どこかへ行ってしまいたい衝動に駆られる。
それなのに、皮肉なことに、夜道と後悔で冷え切った身体は、温かく、明るい場所へ帰りたがっていた。
今までで、一番重たい玄関ドア。
貴久は深く息を吸い、ゆっくりと、その扉を開けた。
「……おかえり」
柔らかな声。
玄関に立っていた十和子の姿を見た瞬間、張り詰めていたものが、音を立てて崩れた。
視界が滲み、気づけば、情けないほどの涙が溢れていた。
言葉も出ないまま、ただ立ち尽くす貴久を、十和子は何も言わず、そっと抱き寄せる。
温かい。
明るい。
包み込むような光。
「なによ…子供みたいに」
少し困ったように、けれど優しく笑って。
「ズルい人。怒れないじゃない。……さ、入りましょ?」
背中を撫でる手が、迷いなく、確かだった。
「ゆっくりでいいから。話して?」
貴久は、その光の中で、ただ静かに、頷いた。
「話すよ。全て…。聞いてほしい――」




