第五話 静かな部屋 残した温度
タクシーが停まる。
「ここで大丈夫です」
貴久はそう告げると、メーターを確認し、財布を開いた。
少しだけ多めに紙幣を抜き取る。
「急いでくれて、ありがとうございました」
運転席に身を乗り出して手渡すと、ドライバーは一瞬だけ目を丸くし、すぐに穏やかに笑った。
「お大事に」
ドアが閉まり、タクシーが走り去る。
夜の静けさが、ふっと戻ってくる。
貴久は姫禾の肩を抱き直した。
「……姫禾。着いたぞ」
肩を貸しながら、アパートのエントランスをくぐる。
オートロックが解除され、薄暗い共用廊下に足音が吸い込まれていった。
「わかるか。お前の部屋だ。鍵、出せるか」
「……バッ……グ……」
指先がうまく動かない。
貴久は一瞬迷ってから、低く声をかける。
「すまない、開けるぞ」
バッグを開け、鍵を見つける。
玄関を開けた瞬間、柔らかな匂いが鼻先を掠めた。
若い女性の部屋だと、はっきりわかる匂い。
「……立てるか?」
姫禾は首を横に振った。
貴久は小さく息を吸い、覚悟を決めた。
「身体、触るぞ」
そう断ってから、慎重に抱き上げる。
腕の中で、彼女の体温だけがはっきりと伝わってきた。
ベッドに寝かせると、貴久は水を取りに行こうと踵を返す。
その瞬間、袖を引かれた。
「……いか……ないで……」
掠れているが、はっきりとした声。
貴久は胸の奥が締め付けられるのを感じながら、低く答える。
「水を取りに行くだけだ」
それでも、手は離れなかった。
その手には、確かな力がこもっている。
「……苦しい、のか?」
小さく頷く。
「……少し、楽にするぞ」
襟元のボタンを一つ、二つ外す。
呼吸が、わずかに落ち着いた。
貴久は視線を逸らし、布団をかけようとする。
だが――
「……まって……」
その声に、貴久は動きを止めた。
「……お願い……」
弱々しい声のはずなのに、真っ直ぐに貴久を見つめる瞳には、揺るぎない光があった。
酔っている。
それでも、この目は嘘をついていない。
「……酔い過ぎだ」
自分に言い聞かせるように言葉を吐く。
「無茶な飲み方をするからだ」
それでも、姫禾は首を振る。
「……こう……でも……しないと……」
涙が滲む。
「……わたし……言えなくて……」
その瞬間、何かが決壊した。
限界だった。
貴久は、彼女の言葉を、これ以上続けさせないよう、その唇に触れた。
――ここから先は、戻れない。
そう理解しながら、それでも手を止めることはできなかった。
姫禾は応えた。
酔っていても、その反応は確かだった。
貴久の手が、震えながら彼女に触れる。
彼女の手が、貴久の背中を掴む。
時間の感覚が失われていく。
やがて――
姫禾の身体から、ふっと力が抜けた。
深い吐息とともに、安らかな表情で眠りに落ちる。
貴久は、そこで止まった。
「……姫禾……」
名前を呼んでも、返事はない。
ただ、穏やかな寝息だけが返ってくる。
貴久は、しばらくその場から動けなかった。
――これ以上は、いけない。
そう自分に言い聞かせる。
やがて、ゆっくりと立ち上がる。
乱れたものを、できる限り元に戻す。
布団を掛け直し、枕の位置を整える。
小さな机に、紙とペンを見つけた。
短く、慎重に、言葉を選ぶ。
――逃げたと思われないように。
――でも、背負わせ過ぎないように。
書き終えると、枕元にそっと置いた。
「……必ず、話す」
それだけを、心の中で繰り返す。
玄関に向かい、内側のつまみを静かに回す。
小さな施錠音。
ドアを閉める直前、もう一度だけ振り返った。
「……すまない」
誰にも届かない声。
外に出ると、夜の空気が冷たかった。
貴久は、駅とは逆の方向へ歩き出す。
長い道のりになる。
考えることは、山ほどあった。
それでも――
立ち止まるつもりは、なかった。




