第三話 秘密基地 溢れた温度
オープンして間もない焼肉居酒屋は、噂に違わぬ盛況ぶりだった。
店内は仕事帰りの会社員や若者で溢れ、肉の焼ける音と笑い声が混じり合っている。そんな喧騒の中で、貴久と姫禾はどうにか半個室の席へと案内された。
腰ほどの高さの仕切りで区切られた空間。照明は落ち着いた橙色で、外の賑わいが嘘のように柔らかく遮断されている。完全に閉じられてはいないが、それがかえって二人きりを強く意識させた。
「……すごいですね。なんだか、秘密基地みたいです」
姫禾は小さく声を弾ませ、きょろきょろと部屋を見回す。
貴久はそんな様子に微笑みながら席に腰を下ろした。
メニューを開いた姫禾は、次の瞬間、ほんの一拍だけ動きを止めた。
肉の写真はどれも魅力的だが、値段を見てわずかに眉が揺れる。
その変化を、貴久は見逃さなかった。
「安心しろ。こんな時のために、会社から管理職手当をもらってるんだ。遠慮せず、好きなものを頼みなさい」
そう言って笑うと、姫禾はぱっと顔を上げる。
「……じゃあ」
そう前置きしてから、ページをめくる指が一気に軽くなる。
特選盛、希少部位、限定メニュー。目移りしながらも楽しそうに注文を考えるその表情を、貴久はいつもより近い距離で眺めていた。
――良かった。調子、戻ったな。
それだけのはずなのに、胸の奥が妙にざわつく。
彼女の表情が変わるたび、自分の視線がそれを追っていることに気づいてしまう。
「先輩は、何にしますか?」
姫禾にそう聞かれて、貴久は一瞬言葉に詰まった。
「……そうだな。肉は特選盛合せで。あと……ここ、サイドも評判がいいらしいな。姫禾から見て、気になるものは?」
「えっと……先輩、韓国料理お好きでしたよね?この冷麺とキンパ、美味しそうですよ。あ、チヂミも……参鶏湯もあるんだ……」
楽しそうに指を走らせる姫禾を見て、貴久は決めたように言った。
「気になったもの全部頼もう。食べきれなかったら、シェアすればいい」
「え、いいんですか?」
「いい」
即答だった。
タッチパネルで注文を済ませたあと、姫禾はふと思い出したように顔を上げる。
「先輩、乾杯はどうされますか?」
「じゃあ……この"焼肉屋のわいん"が気になるな」
「確かに。じゃあ、私もそれを……」
言いかけた姫禾に、貴久がやんわりと制する。
「姫禾は酒に弱いだろ。チェイサーも頼んでおけ」
「……はい。じゃあ、オレンジジュースも」
注文を確定させたあと、姫禾は誰にも聞こえない声で呟いた。
「……覚えてて、くださったんですね……」
貴久は聞こえないふりをした。
聞こえてしまったからこそ。
***
料理が運ばれ、卓上の網に火が入る。
焼ける音、立ち上る煙。姫禾は本当に美味しそうに肉を頬張り、そのたびに表情を変えた。
――楽しそうに、たくさん食べる。
その姿を見ているだけで、不思議と心が軽くなる。
こんな風に誰かと食事をするのは、いつぶりだろう。
ふと、視線を感じた。
仕切りの向こう。通路を歩く客の足音。
そして、ひそひそとした声。
「……ねえ、あれ見て」
「うわ、なにあれ。不倫?」
「パパ活じゃない?」
「てか、女食いすぎじゃね? 引くんだけど」
くすくすとした笑い声。
姫禾の手が、止まった。
笑顔が、ほんの一瞬で曇る。
「……」
俯きかけたその顔を見て、貴久の胸の奥で何かが切れた。
「――おい」
低く、しかしはっきりとした声だった。
「私が好きなのはな、楽しそうに沢山食べてくれる女だ」
通路の向こうが、静まり返る。
「嫌いなのは、他人の部屋を覗き見して、聞こえるように悪口を言う不躾で品の無いガキだ」
一瞬の沈黙の後、慌ただしい足音。
覗いていた女たちは、逃げるように去っていった。
姫禾は目を見開いて貴久を見つめる。
「……先輩……」
驚きと、戸惑いと、それから、確かな温度。
貴久はなおも胸の内で怒りを噛み締めていた。
品の無い連中への怒りもある。
だが、それ以上に――目の前の彼女を侮辱し、悲しい顔をさせたことが、どうしても許せなかった。
「大体……」
怒りが貴久の口を滑らせる。
「……姫禾の、この可愛い顔を見ても、同じことが言えるのかって話……だ……」
言い終えてから、しまった、と気づく。
姫禾の顔が、一気に赤くなる。
「そ、そんな……可愛いなんて……先輩、酔ってらっしゃいますか?」
「……ああ。そうだな。飲みすぎたかな」
――自分でも分かる。
白々しい、零点の言い訳だ。
グラスには、まだ半分以上ワインが残っている。
自分が酒に強いことなど、職場の誰もが知っている。
沈黙が落ちた。
網の上で肉が焼ける音だけが、やけに大きく響く。
姫禾は俯いたまま、小さく唇を噛んでいる。
その表情が、貴久には読めなかった。
やがて姫禾が、ゆっくりと顔を上げた。
「……先輩」
その声は、いつもより少しだけ震えていた。
「あの……わたし……」
言葉を探すように、視線が揺れる。
何かを言おうとして、けれど言葉が出てこない。
貴久は息を詰めて、その先を待った。
「わたし……」
もう一度繰り返して、姫禾は唇を引き結ぶ。
そして――自分のグラスと、貴久のワインに手を伸ばした。
「……え、姫禾?」
制止する間もなく、姫禾は両方を一気に飲み干した。
「……っ」
数秒後、ふらりと身体が傾く。
「姫禾!」
慌てて立ち上がり、抱きとめる。
腕の中で、彼女はゆっくりと力を失っていった。
「姫禾……おい、姫禾!」
呼びかけても、返事はない。
微かな吐息だけが、貴久の胸元に触れている。
――やってしまった。
貴久の胸に、重い自責が沈んでいく。
自分が隠してきた好意を、つい口に出してしまった。
彼女を追い詰めてしまった。
そして今、こうして――
抱きとめた腕の中で伝わる体温が、あまりにも近い。
「……すまない」
誰にも聞こえない声で、貴久は呟いた。
半個室の秘密基地で、火の消えかけた網だけが、静かに赤く残っていた。




