表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/4

第三話 秘密基地 溢れた温度

オープンして間もない焼肉居酒屋は、噂に違わぬ盛況ぶりだった。

店内は仕事帰りの会社員や若者で溢れ、肉の焼ける音と笑い声が混じり合っている。そんな喧騒の中で、貴久と姫禾はどうにか半個室の席へと案内された。


腰ほどの高さの仕切りで区切られた空間。照明は落ち着いた橙色で、外の賑わいが嘘のように柔らかく遮断されている。完全に閉じられてはいないが、それがかえって二人きりを強く意識させた。


「……すごいですね。なんだか、秘密基地みたいです」


姫禾は小さく声を弾ませ、きょろきょろと部屋を見回す。

貴久はそんな様子に微笑みながら席に腰を下ろした。


メニューを開いた姫禾は、次の瞬間、ほんの一拍だけ動きを止めた。

肉の写真はどれも魅力的だが、値段を見てわずかに眉が揺れる。


その変化を、貴久は見逃さなかった。


「安心しろ。こんな時のために、会社から管理職手当をもらってるんだ。遠慮せず、好きなものを頼みなさい」


そう言って笑うと、姫禾はぱっと顔を上げる。


「……じゃあ」


そう前置きしてから、ページをめくる指が一気に軽くなる。

特選盛、希少部位、限定メニュー。目移りしながらも楽しそうに注文を考えるその表情を、貴久はいつもより近い距離で眺めていた。


――良かった。調子、戻ったな。


それだけのはずなのに、胸の奥が妙にざわつく。

彼女の表情が変わるたび、自分の視線がそれを追っていることに気づいてしまう。


「先輩は、何にしますか?」


姫禾にそう聞かれて、貴久は一瞬言葉に詰まった。


「……そうだな。肉は特選盛合せで。あと……ここ、サイドも評判がいいらしいな。姫禾から見て、気になるものは?」


「えっと……先輩、韓国料理お好きでしたよね?この冷麺とキンパ、美味しそうですよ。あ、チヂミも……参鶏湯もあるんだ……」


楽しそうに指を走らせる姫禾を見て、貴久は決めたように言った。


「気になったもの全部頼もう。食べきれなかったら、シェアすればいい」


「え、いいんですか?」


「いい」


即答だった。


タッチパネルで注文を済ませたあと、姫禾はふと思い出したように顔を上げる。


「先輩、乾杯はどうされますか?」


「じゃあ……この"焼肉屋のわいん"が気になるな」


「確かに。じゃあ、私もそれを……」


言いかけた姫禾に、貴久がやんわりと制する。


「姫禾は酒に弱いだろ。チェイサーも頼んでおけ」


「……はい。じゃあ、オレンジジュースも」


注文を確定させたあと、姫禾は誰にも聞こえない声で呟いた。


「……覚えてて、くださったんですね……」


貴久は聞こえないふりをした。

聞こえてしまったからこそ。


***


料理が運ばれ、卓上の網に火が入る。

焼ける音、立ち上る煙。姫禾は本当に美味しそうに肉を頬張り、そのたびに表情を変えた。


――楽しそうに、たくさん食べる。


その姿を見ているだけで、不思議と心が軽くなる。

こんな風に誰かと食事をするのは、いつぶりだろう。


ふと、視線を感じた。

仕切りの向こう。通路を歩く客の足音。

そして、ひそひそとした声。


「……ねえ、あれ見て」

「うわ、なにあれ。不倫?」

「パパ活じゃない?」

「てか、女食いすぎじゃね? 引くんだけど」


くすくすとした笑い声。


姫禾の手が、止まった。

笑顔が、ほんの一瞬で曇る。


「……」


俯きかけたその顔を見て、貴久の胸の奥で何かが切れた。


「――おい」


低く、しかしはっきりとした声だった。


「私が好きなのはな、楽しそうに沢山食べてくれる女だ」


通路の向こうが、静まり返る。


「嫌いなのは、他人の部屋を覗き見して、聞こえるように悪口を言う不躾で品の無いガキだ」


一瞬の沈黙の後、慌ただしい足音。

覗いていた女たちは、逃げるように去っていった。


姫禾は目を見開いて貴久を見つめる。


「……先輩……」


驚きと、戸惑いと、それから、確かな温度。


貴久はなおも胸の内で怒りを噛み締めていた。

品の無い連中への怒りもある。

だが、それ以上に――目の前の彼女を侮辱し、悲しい顔をさせたことが、どうしても許せなかった。


「大体……」


怒りが貴久の口を滑らせる。


「……姫禾の、この可愛い顔を見ても、同じことが言えるのかって話……だ……」


言い終えてから、しまった、と気づく。


姫禾の顔が、一気に赤くなる。


「そ、そんな……可愛いなんて……先輩、酔ってらっしゃいますか?」


「……ああ。そうだな。飲みすぎたかな」


――自分でも分かる。

白々しい、零点の言い訳だ。


グラスには、まだ半分以上ワインが残っている。

自分が酒に強いことなど、職場の誰もが知っている。


沈黙が落ちた。

網の上で肉が焼ける音だけが、やけに大きく響く。


姫禾は俯いたまま、小さく唇を噛んでいる。

その表情が、貴久には読めなかった。


やがて姫禾が、ゆっくりと顔を上げた。


「……先輩」


その声は、いつもより少しだけ震えていた。


「あの……わたし……」


言葉を探すように、視線が揺れる。

何かを言おうとして、けれど言葉が出てこない。


貴久は息を詰めて、その先を待った。


「わたし……」


もう一度繰り返して、姫禾は唇を引き結ぶ。

そして――自分のグラスと、貴久のワインに手を伸ばした。


「……え、姫禾?」


制止する間もなく、姫禾は両方を一気に飲み干した。


「……っ」


数秒後、ふらりと身体が傾く。


「姫禾!」


慌てて立ち上がり、抱きとめる。

腕の中で、彼女はゆっくりと力を失っていった。


「姫禾……おい、姫禾!」


呼びかけても、返事はない。

微かな吐息だけが、貴久の胸元に触れている。


――やってしまった。


貴久の胸に、重い自責が沈んでいく。


自分が隠してきた好意を、つい口に出してしまった。

彼女を追い詰めてしまった。

そして今、こうして――


抱きとめた腕の中で伝わる体温が、あまりにも近い。


「……すまない」


誰にも聞こえない声で、貴久は呟いた。


半個室の秘密基地で、火の消えかけた網だけが、静かに赤く残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ