第二話 雨の名残 看板の灯り
少しずつ、書いていこうと思っています。
アートフロートのロビーは、終業後の静けさに包まれていた。
ガラス張りの自動ドアの向こうでは、濡れた歩道が街灯をぼんやりと映している。
姫禾は、ロビーの柱のそばで小さく背筋を伸ばしながら待っていた。
腕時計を確認しようとして、やめる。
待たされている、と思いたくなかった。
「……姫禾」
少し息を切らした声に振り向くと、貴久が立っていた。
いつもの落ち着いた表情より、わずかに気まずそうだ。
「すまん。待たせた」
「い、いえ。今来たところです」
反射的に答えたが、貴久は苦笑していた。
「……実はな。妻に、今日は姫禾と晩飯に行くって伝えたら――『姫禾さん、愛人にでもしてあげなさいよ』って茶化されてな」
一瞬、思考が止まる。
「……っ」
姫禾の顔が、一気に熱を帯びた。
喉の奥で、何かが詰まったようになる。
「……あ、あの……」
声にならない言葉が零れ落ちて、消える。
貴久は慌てて手を振った。
「いや、気にしないでくれ。あの人、昔から冗談が好きなんだ。本気で言ってるわけじゃない」
「……そう、ですよね」
そう答えながら、胸の奥が少しだけ冷える。
冗談。
分かっている。分かっているはずなのに。
「さ、行こうか」
歩き出した貴久の背中に、姫禾は一瞬だけ暗い表情を向けてから、すぐに笑顔を作り直してついて行った。
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駅前通りは、仕事帰りの人波で賑わっていた。
雨上がりの空気に、アスファルトと飲食店の匂いが混ざる。
「……この辺り、初めて来ました」
姫禾は珍しいものを見る子どものように、きょろきょろと周囲を見回している。
「そうか。姫禾はバス通勤だった。方向、逆だな」
「覚えててくださったんですね」
思わず声が弾む。
「バスから見える景色、好きなんです。季節とか、お天気とかで、全然違う顔になるから」
高いビルを見上げながら続ける。
「……あ、そうだ。先輩、川沿いに煉瓦の建物が――」
「危ないぞ。水溜まり」
言葉と同時に、腕を掴まれた。
次の瞬間、水溜まりを避ける形で引き寄せられ、姫禾の身体はそのまま貴久の胸元に収まっていた。
「……っ!」
一拍遅れて、心臓が跳ねる。
「す、すみません!私、キョロキョロしちゃって……」
慌てて離れようとするが、貴久は苦笑しながら言った。
「気をつけろよ。……まあ、色々観察するのは、この業界じゃ大事だけどな」
姫禾の胸は、まだ落ち着かない。
「私も駆け出しの頃、当時の上司だった妻に言われたよ。『そこら辺に転がってるメシの種を、ちゃんと拾えるのが成功するクリエイターだ』って」
そう言って、貴久は鞄から使い込まれた手帳を取り出した。
「それから、メモを取る癖がついた」
そのカバーを見て、姫禾は息を呑む。
「……それ。わたしが、先輩から頂いたのと……同じ……」
「ん? ああ」
貴久は少し照れたように頬を掻いた。
「こいつには散々助けられたからな。姫禾が困った時、少しでも助けになればと思ってな。まあ、願掛けみたいなもんだ」
手帳をぽん、と叩く。
「無骨な柄で、すまん。女の子に贈るには、どうかと思ったんだが」
それは白と黒の三角形が組み合わさったシンプルな模様だった。
「……そんな」
姫禾の目に、うっすらと涙が浮かぶ。
「願掛けまで……。先輩……わたし……一生、大事にします」
一瞬の沈黙のあと、貴久が噴き出した。
「おいおい。それ、手帳へのプロポーズか?」
「ぷ、プロポーズ!? ち、違います! そ、そんな……!」
顔が真っ赤になり、視線が落ちる。
胸の奥が、ぐちゃぐちゃだ。
誤魔化すように、姫禾は慌てて話題を変えた。
「そ、そういえば……! 奥様って、先輩の若い頃のご上司だったんですか? 素敵です……!」
「まあな」
貴久は少し遠い目をした。
「あの時代に、女性がまだ少なかった業界で、腕一本で部長補佐まで登った人だ。世に出た作品の数じゃ、今の私の倍はくだらない」
「……奥様、本当にすごい方だったんですね……」
胸が、きゅっと締めつけられる。
「昔はな、色々と叩き込まれたよ」
貴久は苦笑した。
「デザインのノウハウから、レディファーストの基礎まで……。思い出すだけで、今でも背筋が寒くなる」
「……だから、さっき」
姫禾は、思わず呟く。
その瞬間、さっきの胸の温もりが、鮮明に蘇った。
「……っ」
顔が熱くなり、慌てて前を向く。
「お、お店……この辺りですかね? どこかな……?」
駅前通りに、赤い看板の灯りが浮かんでいる。
貴久はそれを指差した。
「うん。あれだな」
二人の視線が、同じ場所に重なる。
雨上がりの街で、二人だけの時間が、静かに始まろうとしていた。
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