第十五話 清流の歪(ひずみ) 交流の罅
今回の話は俯瞰ではない姫禾視点の進行です。
先輩に名前で呼んでもらってから、ますます先輩を意識するようになった。
お互いに想い合えているという実感に、胸が温かいもので満たされる。
ロビーを抜けた所で、自然と先輩の姿を探してしまう自分を諫める。
(今から仕事なのに浮ついてちゃダメだ。奥様にも忠告していただいたばかりだし)
顔と気持ちを引き締めてエレベーターに乗り込むと――
「待って!」
声が掛かる。
「トモちゃんおはよう!」
「おはよう、キミちゃん」
今日乗り合わせたのは、キミちゃんだった。
「新しいチームはどうなん? 皆優しいん?」
「うん。皆親切だよ。使い慣れてないツールで手間取ってるけど、それも楽しい」
「良かったなぁ。あ、トモちゃん今日お昼、社食んとこで食べへん?」
「いいよ。じゃあまたお昼に」
手を振って四階で降りる。
キミちゃん――本名は寿綯希美。
法務部知財課の職員で、わたしの同期。
歳はキミちゃんの方が二つ上だけど、関西訛りのイントネーションが可愛らしくて、同級生の友達みたいに仲良くしてくれる。
初任者研修の終わりに同期で打ち上げをした時、お酒が断れずに酔い潰れたわたしの為に、メンターだった先輩を呼んでくれたのもキミちゃんだった。
今思うと、先輩とこの関係になれたのは、キミちゃんのおかげかもしれない。
そんな事を考えながらメールのチェックをしていると、わたしのデスクに先輩が二冊の本を持って来た。
「この間姫禾が気にしてたレイアウトの立て方で使えそうな資料があった。付箋貼ってる所だから、参考までに」
焼肉屋さんに行く前に言ったわたしの相談を、覚えてくれていた。
そんな事でも舞い上がってしまいそうな自分を抑えて、努めて冷静にお礼を伝える。
「ありがとうございます。よく読んでみます」
こういう時の笑顔がどのくらいだと普通なのか分からなくなって、ぎこちない笑い方になってしまった。
先輩はそんなわたしを見て少し笑うと、「無理せずいい仕事をな」と言って戻って行った。
すごく落ち着いていて、余裕があるその仕草や態度にドキドキしてしまう。
慌てて周りから顔を隠すようにデザインブックを開くと、付箋のあるページに小さく折ったメモが挟まっていた。
メモを開くと、先輩の字で書かれている。
『妻から言伝られた。旧姓の陽羽河 十和子で登録しておくように、との事だ。時間ができた時に連絡ほしいそうだ。✕✕✕-△△△△-▼▼▼▼ PDAR』
最後の一文は、制作部でよく使われる、「読んだらシュレッダーに破棄しろ」という意味の略語だった。
メモを手帳にしまいながら、思う。
(奥様の電話番号…やっぱりわたしは、管理される側の人間なんだ…)
そう思うと、少し気が沈む。
いつの間にか無意識に首を触っている自分がいた。
――管理される側。
その言葉が、妙に重く感じられた。
気を取り直してデザインブックを見ると、学校で習った方法とは違うアプローチに新鮮な刺激をもらい、今扱っているロゴデザインに修正をかける作業に入った。
***
お昼になって、人の疎らな社食のイートスペースに行くと、隅の席でキミちゃんが手招きしてくれた。
わたしがお弁当を広げて食べ始めると、キミちゃんが言った。
「トモちゃんってさ、お弁当のデザインまで完璧で偉いね! めっちゃ美味しそう! ちょっとこれと交換して」
わたしの齧った唐揚げと、キミちゃんのハンバーグを交換してくれる。
朝エレベーターで会ってから、研修後の同期会の事を思い出していたわたしは言った。
「キミちゃんの方が偉いよ。同期の男の子達に絡まれても、『男に興味ないんで!』ってこう、スパッと言い切って」
キミちゃんは、皆の前で自分はレズビアンかもしれないって公言していた。
ハッキリ自分を出せる姿が、格好良いなと思った。
「あぁ、その話? 逆にトモちゃんの方が無防備過ぎるんよ。そういやトモちゃんに飲ませよったあの女ったらし、営業無理やったみたいで辞めるらしいで。節操の他に根性も無かったんやね。ハハッ」
ふと、笑っていたキミちゃんが少し小声で前屈みになる。
「でもあの時呼んだ先輩、草食イケメンっぽかったけど、あの人も要注意やと思うよ。今トモちゃんとこのチームリーダーやん?」
急なキミちゃんの言葉に動揺して、ブロッコリーを落としてしまった。
それを見たキミちゃんは目を細めた。
「やっぱなんかあった? あの人はアカンよ? 既婚者やん?」
詰め寄るようにそう言われてしまう。
何も言えずにいると――
「無理に何かされたんやったら、ハラスメント担当に…」
立ち上がりかけたキミちゃんを慌てて止めて、先輩と不倫関係になった事を話してしまった。
キミちゃんは、失望したように深いため息を吐いた。
「奥さんの気持ちとか考えたん? 自分ら最低やで」
そう言って、行ってしまった。
返す言葉も無い。
わたしは結果的に、奥様の温情に甘えて、週に三日も先輩を奪ったのだから。
何も失わずに、自分だけ…。
それなのに、名前で呼んでもらって、キスされて、心のどこかでは「もっと。もっとこの人が欲しい」と思ってしまった。
キミちゃんの言葉通り、最低な人間だ。
それからは、お弁当を片付けて、這うような気持ちでなんとかデスクまで戻った。
午前中にしていたデザイン修正が、全部ゴミのように思えて、全く仕事にならなかった。
***
死人のような顔でロッカールームで着替えていると、手帳に挟んだメモを思い出した。
(奥様に電話しないと…)
スマホに番号を入れると、ロビーを出てから人の居ない路地で電話をかけた。
『もしもし? 姫ちゃんね? 今日ちょっと時間良いかしら? 買い物に付き合って欲しいんだけ――何かあった?』
わたしの鼻を啜る音に、奥様は異変を感じられたようだった。
わたしは、お昼のキミちゃんとの一件をお話しした。
奥様は静かに聞いた後、言った。
『兎に角、まず会って話さない? 駅ビル百貨店の一階に来れる?』
「今から向かいます」
そう告げて電話を切り、急ぎ足で駅ビルを目指した。




