第十四話 庭扉の朱 古痕の朱
十和子が目を覚ますと、ポールハンガーに掛けてあったコートから着信音が鳴っていた。
――頭と身体が重い。
なんとかコートのポケットに手を伸ばし、スマホを取り出して表示されている名前を見る。
「…無粋な男」
ため息交じりに呟きながらも、その顔には僅かに嬉しそうな色が滲んでいた。
「もしもし。なぁに、久善路クン?」
一言。
たったそれだけで、電話の向こう側は大体の事を察したようだった。
一拍置いて、声が返ってくる。
「…だいぶ飲んだね、十和子先生」
「フフッ、久し、ぶりの呼び方ね」
少しだけ、呂律が怪しい。
「大丈夫? 今hortus?」
十和子は少し驚いて聞き返す。
「ここ、教えた事あったっけ?」
「一度だけ。櫻庭さんが出資したお店だって。…今日はその人の所だろうと思って」
フン、と鼻で笑って十和子が言う。
「察しが良くなったわね、久善路クン」
「そりゃどうも。迎えに行くよ先生。そこに居て」
電話が切れて、十和子は仕方ないといった様子で立ち上がる。
「王子様がお迎えに来るんですって。今日はもう帰るね。また来るね、ユーゴさん」
額縁の中の寡黙な男を見た時、伝言の言葉を、その意味を思い、再び涙が溢れる。
しかしそこにあったのは、悲しく泣く女の顔ではなく、晴れやかな顔だった。
***
コートとマフラーを持って部屋から出ると、十和子はふらつきながらラウンジへと向かった。
マスターの手を借りてソファーに腰を下ろすと、何も言わなくても十和子好みにブレンドされたチェイサーが出される。
「ありがとう、シンタ君」
客の居なくなった店内で昔の呼び名を呼ぶと、マスターは懐かしそうに目を細めて微笑んだ。
「こちらこそ、お立ち寄りいただけて良かったです。これで親父様に少しは恩返しできたと思います」
十和子は浅く座り直すと、酔いを払いながら頭を下げた。
「あの人の部屋も、守ってくれてありがとうね」
シェイカーを洗っていた手を止め、マスターは穏やかに言った。
「そんな。あの部屋は私にとっても大切な場所ですから」
十和子のスマホに着信が入る。
「迎えが着いたみたい。カードで払うわ」
財布を取り出していると、マスターが静かに制した。
「十和子様の分は親父様から頂いております」
「そういうわけには――」
言いかけた所で、掌が向けられる。
「それより、また近くまでおいでの際にはお立ち寄りください。親父様の話ができる方は…少ないですから」
歯を見せて笑うマスターに、十和子は笑顔で答えた。
「これから月・水・金曜は時間ができそうなの。また寄らせてもらうわね」
そう言って、バーを後にした。
***
肩を預けて駐車場に向かいながら、十和子は貴久に絡んだ。
「それで? 姫ちゃんに何もせずに家に帰したってわけ? 意気地無しねぇ」
ゲラゲラ笑う十和子に、貴久は拗ねたように返す。
「ええ。僕は『グズグズの久善路クン』ですからね」
「懐っかしいわねその名前!――ね、でもキスくらいはしたんでしょ? 中学生なの貴方達?」
尚も絡む十和子に、貴久は笑いながら言った。
「あー、もうっ、十和子先生は飲むと面倒臭いな本当に!」
二人は笑いながら歩いた。
***
車を走らせて暫くした時、十和子がポツリと言った。
「…貴方の喋り方がおっさんみたいな堅い口調になったのって、あの人の影響?」
核心を突かれて、貴久は気まずそうに答える。
「あぁ、そうだよ。君の中に居る櫻庭さんに、張り合いたかったんだと思う」
「まぁ…そういうの、私も一時期…」
言いかけて、古い傷がまた少し開く。
横目で見ていたのか、貴久が心配そうに言う。
「そういうの、もうやめよう。今日だってそうだ」
十和子は何の話かと考えて、気づいた。
「あぁ、貴方が止めに入ったやつね。『あくまで妻はアタシ』か…」
視線を落とす。
「あの人達に言われたのは、もっとキツかったわよ」
――櫻庭の正妻と、その取り巻き。
愛人だった頃、何度も聞かされた言葉。
「所詮は二番目」
「身の程を知りなさい」
「本妻はこちらよ」
そして、あの日。
妊娠を知った時の、あの人達の冷たい目。
「アタシは姫ちゃんにあんな事しない。絶対に」
十和子の声が震える。
貴久は、ハンドルを握る手に力を込めた。
「もう思い出さなくていい。君が辛いのは、嫌なんだ」
憂いを含んだ貴久の声に、車内の空気は重く沈んでいった。
「歪んでるわね、アタシ達…」
十和子の溢れた呟きを最後に、車は静かに帰路を辿った。




