第十二話 含羞の青 夜風の青
暖炉の前で寄り添っていると、ふと腹の虫が鳴った。
貴久は苦笑する。
「ムードもなにもあったもんじゃないな」
恥じ入ったように言うと、姫禾が笑顔で答えた。
「私もお腹空きました」
その笑顔に救われた。
近くのファミレスで、仕事の打ち合わせを装って食事をする。
食事中も、移動中も、二人は度々目を合わせた。
けれど、今日は十和子の存在がちらついて、距離を縮める切っ掛けを掴めずにいた。
***
姫禾をアパートまで送る途中、貴久は考え込んでいた。
自分が姫禾に、何も与えてやれていない。
そのことが、胸の奥で重く沈んでいた。
眉間に皺が寄る。
「先輩…?」
姫禾が小さく気遣うように声をかけてくる。
「ん…。あぁ、いや、…そうだな」
貴久は少し考えた後、飾らずに訊くことにした。
「姫禾は…私に何か願いたい事はないか?」
突然の問いかけに、姫禾は咄嗟に言葉を返せない様子だった。
「そう…ですね」
そう言って考え込む。
その間に、四度信号が通り過ぎていった。
「…えぇっと」
やがて姫禾は照れたように前置きすると、意を決した様子で言った。
「あの…じゃあ、二人きりの時は…下の…下の名前、智花…と、呼んでもらえませんか?」
その言葉に、貴久は思わずハンドルを握る手に力を込めた。
――それだけでいいのか。
だが同時に、その初々しく遠慮がちな願い出を叶えてやりたいと思った。
「…と、」
気恥ずかしさからか、情けない事に喉の奥から声が出て来ない。
ひどく赤面し、やっとの思いで紡いだ言葉は――
「努力、する」
けれど姫禾は、その横顔を見て、ふっと笑った。
「……はい。それで、充分です」
その声音には、確かな満足が滲んでいた。
***
アパートに着き、二人は車を降りる。
夜の冷気が、ゆっくりと身体を包み込む。
玄関の前で立ち止まった姫禾は、名残惜しそうに貴久を見上げた。
「また、明日」
「ああ。また明日」
学生同士の会話を思わせる、どこかぎこちない青臭い別れの挨拶。
姫禾が玄関の扉に手をかけた、その瞬間だった。
貴久は思わず、彼女の腕を掴んでいた。
「……っ」
驚いた姫禾を引き寄せ、軽く、唇に触れるだけのキス。
そして、ぎゅっと抱きしめる。
「おやすみ。……智花」
その名を口にした瞬間、胸の奥が熱くなる。
智花は一瞬固まり、それから真っ赤な顔で俯いたまま、小さく答えた。
「……おやすみなさい」
逃げるように部屋へ入っていく背中を、貴久はしばらく見送っていた。
***
車に戻り、シートに身を沈める。
――いい大人が。
――キザ過ぎただろうか。
そう自嘲しながらも、口元は緩んでいた。
しばらく走った先の小さな公園で、車を停める。
窓を開けると、冷たい夜風が流れ込んでくる。
火照った頭と胸を、静かに冷ましていく風。
しばらくして小さく息を吐くと、白く広がる吐息を眺めながら、静かに携帯を手に取った。




