第十一話 暖炉の緋 重ねる日
「まぁ条件としてはそんな所かしらね」
十和子は二人を伺いながら、ゆっくりと続けた。
「今後何か不具合があったら、その都度話し合いましょ?」
お手上げ、といった仕草で舌を出す。
「なにせ私もこんな風になるのは初めてだから」
「すみません…」
思わず謝る姫禾に、十和子は少しの間何かを考えて、言った。
「ねぇ、いつまでも貴女、じゃややこしいじゃない? 姫ちゃん、って呼んでいい?」
驚き半分、照れ半分。
そんな顔をしながら、姫禾は答えた。
「はい。奥様のお好きなようにお呼びください」
「じゃあ、姫ちゃんね」
十和子は満足そうに頷いてから、穏やかに問う。
「姫ちゃんから何か要望はない?」
姫禾は首を横に振った。
「いいえ。充分過ぎる温情をいただいておりますし、わたしから何かをお願いできるような立場にありません」
はっきりと、そう答えた。
十和子は、その目をじっと見つめてから言った。
「いいわ。それなら姫ちゃんを正式にこの人の愛人とする事を認めます」
それから貴久の方を向く。
「あなたも、異論はないわね?」
問われて、貴久は苦笑した。
「私も何も言えた立場じゃないよ」
そう言って、参った、と両手を挙げる。
「ま、それもそうか」
当然よね、と頷きながら、十和子はティーセットを片付けようとした。
その瞬間、姫禾が少し硬い表情で立ち上がった。
「あ、奥様、お手伝いします」
残っていたカップとソーサーを手にする。
その目を見て、十和子は貴久に告げた。
「あなたは暖炉に薪を足しておいて。まだ使うでしょ?」
そして姫禾と共に、キッチンへと向かった。
***
ティーポットからほんのりと熱を残した茶葉を片付けながら、十和子は小さな声で問いかけた。
「あの人抜きで何のお話?」
何か言いたげで、言い出せない様子の姫禾。
姫禾は、意を決したように口を開いた。
「奥様、正直にお話ください」
真剣な顔。
「わたしは…わたしは今日、身を引く覚悟を固めて来ています」
十和子は、真面目な顔で姫禾を見つめた。
「アタシが誰かに気を遣って決めた? そんな事する必要があるの?」
「ですが奥様――」
「貴女の価値観をアタシに押し付けないで」
遮るように言われて、姫禾は何も言えなくなった。
十和子は、駄々をこねる子供をあやすように、穏やかに言った。
「アタシね、本当に姫ちゃんの事が気に入ったのよ? 今日会えて良かったわ」
そう言いながら、頭を撫でる。
涙がいっぱいになった姫禾の目尻を、優しく拭った。
「さぁ、とっとと片付けて戻りましょ? あの人が心配するわ」
姫禾のお尻をポンポンと叩くと、洗い物を始めた。
***
リビングに戻ると、十和子はエプロンを外しながら楽しげに言った。
「ところであなた達、今日は大事な月曜日よ?」
姫禾は、はっとした顔になる。
「この人の事は姫ちゃんに任せるから。家の中の物は何でも使って良いわよ」
驚いた姫禾は慌てて言った。
「そんな! 奥様、わたし今日はもう帰りますから!」
十和子は手をひらひらと振りながら笑う。
「アタシに気を遣うなんて十年早いのよ青二才。今日はねホストクラブにでも行ってパーッと遊んでくるわ!」
そう言ってコートを羽織りながら、まごつく姫禾に向かって続けた。
「姫ちゃん、あなたもクリエイターならリードタイムは大事にしなさい?」
そしてスマホを取り出し、タクシーを手配し始めた。
嵐の如く準備を進めて部屋から出て行った十和子を見送って、二人は暖炉の前にソファーを移動させた。
パチパチとはぜる薪の緋色を、ぼんやりと見つめる。
姫禾は呟くように言った。
「奥様…本当にすごい方でした…」
貴久はポーカーを使って薪を整えながら答える。
「驚かせてすまんな。あの人はあれで、姫禾の事を本当に気に入ったようだよ」
記憶を辿るように視線を泳がせてから続けた。
「他人にあのティーセットを使うのなんか、初めて見た」
やっぱりそうだ、と頷く。
「本当に、ありがたくって…」
震える肩を掌で掴みながら話す姫禾に、貴久は何かを言いかけて、やめた。
そっと後ろに寄り添い、肩に掌を重ねる。
その時――
ふいにリビングの扉が開いた。
マフラーを取りながら十和子が顔を出す。
「何だったら寝室だって使って良いわよ? アタシその方が燃えるから!」
軽口を叩く十和子に、貴久は笑いながら返した。
「もう出たのかと思ったよ」
十和子は満足そうに笑う。
「あら冷たいのねー、ホストに慰めてもらっちゃお!」
そう言って、今度こそ本当に出て行った。
夫婦の年輪を重ねたやりとり。
姫禾は、強張っていた力が抜けたように言った。
「わたし、奥様のファンになりました」
「そうか」
貴久はホッとしたように、後ろから腕を回して抱き締めた。
それ以上、何かをする気配はない。
姫禾も、それで良かった。
暖かく揺らぐ炎を見ながら、二人は同時に呟いた。
「「今日はこのままが良い」」
同時に笑い合う。
帰る時間まで、二人はそうして過ごしていた。




