第九話 覆(おお)った嘘 白磁の苺
貴久の自宅に着くまで、車内に会話はほとんどなかった。
夕暮れの住宅街を抜け、エンジンが切られる。
沈黙の中で、二人とも同じことを考えているのが分かる。
――ここからだ。
玄関の前で、姫禾は一度だけ深く息を吸った。
逃げない。
そう決めて、ここまで来た。
ドアが開く。
「いらっしゃい」
想像していたよりも、ずっと穏やかな笑顔の女性。
年齢を感じさせない、凛とした佇まい。
「貴女が姫禾さんね? 久善路の妻、十和子です」
「……姫禾智花です」
玄関先で立ち尽くす二人を見て、十和子は小さく首を傾げた。
「ここで話すのもなんだから、上がって?」
促されるまま、靴を脱ぐ。
足が震えているのが、自分でも分かった。
リビングに入った瞬間だった。
姫禾は、唐突に床に額をつけた。
「奥様、この度は申し訳ありませんでした!」
張り上げた声は、どこか芝居がかっていた。
弱さを隠すための、無理な張り。
「正直に言います。わたし、お金が欲しくて先輩に近づきました。先輩はまんまと騙されて――」
「違う!」
貴久が遮る。
「彼女は酔って寝てしまっただけだ。私が……私が襲ったんだ。昨日は怖くて、正直に言えなかった。全部、私の責任――」
「黙りなさい!」
誰よりも強く、誰よりも厳粛な声が通る。
姫禾の肩が、びくりと竦んだ。
横目で見ると、貴久も同じように固まっている。
それから一拍。
「……ップ、…フフフッ…アッハッハッハ!」
静寂を破ったのは、一喝した本人だった。
堪えきれず、噴き出した十和子は一頻り笑った後、目尻に溜まった涙を拭った。
「もう……貴方達、ほんっとに嘘が下手ね! 二人とも似てるわ!」
呆気に取られている姫禾に、十和子は片手を差し出した。
「ねぇ、話しにくいわ。座って?」
ソファを促される。
姫禾は恐る恐る腰を下ろした。
貴久も、少し離れた場所に座る。
その後、十和子は何事もなかったようにお茶の支度を始めた。
キッチンから聞こえる、ポットの湯を注ぐ音。
やがて運ばれてきたのは、見覚えのあるティーセットだった。
白磁に描かれた、愛らしい苺の模様。
貴久は、そのティーセットを少し意外そうに見ていた。
「すみません。いただきます」
そう言った後、姫禾はお茶を口にせず、ただじっとティーカップを凝視していた。
「やぁねぇ。毒なんか入ってないわよ? 昼メロじゃあるまいし」
笑う十和子に、姫禾は慌てて顔を上げた。
「すみません! あの……わたし……、こ、これって、WEDGETREEのナチュラルストロベリーですよね! わたし、これ大好きで! 色んなパターンのを見てきたんですけど、これは……初めて見ました……」
思わず夢中になって話していた。
十和子は驚いた顔で貴久を見る。
目で「何か言ったのか?」と問うているようだった。
貴久は顔の前で掌をぶんぶん振って否定している。
「貴女、アタシにも似てるのね」
嬉しそうに微笑み、十和子は自分のカップを手に取った。
愛おしむように、指先で撫でながら言う。
「アタシもね……昔からこれが好きだった。これはね、前の旦那にもらったものなの」
その様子に、貴久は少し不機嫌そうな顔をした。
姫禾は疑問だらけのまま、貴久を見る。
「十和子はね、バツイチで私と再婚したんだ」
「その言い方やめてってば!」
小さく抗議すると、十和子は姫禾に向き直った。
「マルイチよ♡」
「奥様……ま、マルイチでいらしたんですか。それから先輩と再婚……」
ぶつぶつ言いながら頭を整理する姫禾に、貴久が言った。
「姫禾、櫻庭優吾郎って知ってるよな?」
「ユーゴロー・サクラバですか? はい、『日本グラフィックデザイナー界の父』ですよね。勿論……え!?」
貴久は頷いた。
「そうなんだ。十和子の前の旦那さんは、あの櫻庭優吾郎さんだよ」
頭が真っ白になる。
そんな、まさか。
「このティーセットはね、あの人がアタシのためにって特注で作らせたものなの……」
カップの底を撫でながら、十和子は懐かしむように言った。
「そんな……貴重なものを……」
姫禾は恐る恐るカップをソーサーに戻そうとした。
十和子が、やさしく制する。
「いいの。これを使ったのはね、アタシから貴女への友好の証よ。仲良くしてね?」
その瞬間だった。
今まで溜め込んできた感情が一気に溢れた。
姫禾は子供のように顔をくしゃくしゃにして、泣き出した。
「そんな……わた……わたしみたいな……泥棒猫に、奥様は……」
貴久が慌ててティッシュを差し出す。
呆気に取られていた十和子は、やがて吹き出した。
「プッ、フフ……いやだ、ごめんなさい。だって今どき泥棒猫って……」
そして、腹を抱えて笑う。
「アッハッハッハ! 貴女、古風ねぇ!」
――姫禾は気付いていた。
これはきっと、笑われているのではない。
笑ってくれているのだ。
わたしのために。
先輩から聞かされていた話から、わたしが描いていた奥様像の何倍、何十倍も大きな人だった。
そして、無駄になってしまった自分のちっぽけな覚悟を恥じて、姫禾は小さく呟いた。
「敵わないなぁ……」




