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【一話】甘言の翠蓮

◇◆◇◆◇◆◇


パリッ………、ポリポリポリポリ。

んーまい。もぐもぐと咀嚼し、ごくんと飲み込む。

やっぱり働いた後には塩っ気のある煎餅が沁みる。

一仕事終えて帰って来て一服しているわけだ。


─────翠蓮。

それがいまの私の名前である。


生きていた時の名前もあるが、それはここで使うことはない。


 官職名は獄界公安職。上席特別執行官。

所属は獄界警察庁公安局公安部第三課第二中隊。小隊指揮官ということになっている。


 勤務地は《現世》である。

正式な名称は「獄界十王府現世合同庁舎」ちょっと前までは「此岸公務処(しがんこうむしょ)」と呼ばれていた。

「地獄のお役所の現世出張所」とでも言えばよいか。

仰々しいし、その上わかりにくいということで、わかりやすい名称になった。

地獄にもいろいろと公処(やくしょ)がある。その出先機関が集まっているところである。


ここの職員はみんな死んで「あの世」に来た人たち。

もと人間である。ほんの一部の埒外と例外と除けばであるが。


(うーん。やっぱり書き物は苦手だ)


腕を組んで、鼻と唇の間にペンを挟み、唸ること数度。

詰所に戻ってくるなり、報告書を書けと迫られた。書け、と言われれば書けなくはない。

まあ、一悶着あったってことは認めてもよい。

でも、それをわざわざ報告書にしなければならないことなのか。


 そんな事を考えながらパリポリと煎餅を摘んでいる。

こちらに戻って来て一刻(にじかん)くらいは経ってしまったかもしれない。

戻ってきた時には、三課のみんなもいたはずなのに、いつしか居なくなっていた。

全く冷たい奴らである。まあ当直に備えて、いろいろ準備をしてるってことにしておこう。


 いつの間にか書類を覗き込む影が現れた。

「ぜんぜん進んでませんねー。まったく。………仕方のない方ですね」


 庶務掛の華子さん、のはずである。

おかっぱ頭で、上等そうな着物、真っ白な前掛けをしている。

冠こそ被っていないが、それ以外はお稚児さんのようにしか見えない。

そんななりでも、彼女も立派な職員である。


「お煎餅を食べながら、書き物してるとまた怒られますよ?」

手にはお盆。お茶、お茶受けの干菓子が添えられていた。

「あ、それ」

「はい。御下がりでいただきました。ご存知《真味糖》です」


 御下がりとは神様に捧げたあとに下げられたお供物のことである。

〈現世〉の美味しい美味しい干菓子である。

和風テイストのヌガーみたいなお菓子。このタイミングで、こんな逸品級のお茶受けが出てくるとは驚きだ。恐ろしい。恐ろしいことだ。これに手を出していいのか、こんな上等なお菓子を持って来てくれたというのは何かがあるに違いない。ぐっと堪えていたのだが、思わず手が出てしまう。


 お菓子に触れようとしたところ─────、

華子さんから冷たい空気が漂ってくる。そして無言の圧。お行儀良くである。

ちゃんとお礼を伝えなければ、大変なことになる。

お行儀が悪いとこの人は無表情で弁慶の泣きどころを地味に蹴り飛ばしてくる。

華子さんに向き直って、「ありがとうございます」と言ってから、手を伸ばす。

「よく出来ました」みたいな顔をして微笑んでいる。


 な、なんか怖いんですけど。そもそもアタシのような下っ端のお茶など入れてくれるような人ではない。

鬼が出るか蛇が出るか、と思い身構えていると華子さんは喋り出した。


「─────今日は金曜日ですね。華の金曜日。むふ。華ってついてますね。私は金曜日は大好きです。わちゃわちゃする金曜日の夜。楽しみですね─────。現世では、プレミアムフライデーっていうのもあるみたいですね。翠蓮さんはプレミアム()()フライデーですね。ふふふ」

 散々な言われようである。

「残業じゃなくって、ガッツリ当直勤務なんですけど」

「─────魑魅魍魎が跋扈する金曜の夜です。華金です。どんだけ挙がるんでしょうかね。留置場がパンパンになりますね。ふふふ」

華子さんは楽しそうだ。


「─────翠蓮さんの事件なのか事故なのかはわからない謎案件のことも、きっとお耳に届いていると思います。課長は牡丹さんに翠蓮さんに報告書というのか顛末書というのか始末書というのか弁明書というのか進退伺というのか、私にはわかりませんが、とにかく書かせろと仰っておられたようです」


なんか書類の種類がどんどんと物騒になってるが、気のせいだろうか。

「ということで、牡丹さんがものすごーくイライラしてましたよ。課長から〈天界〉と〈幽界〉との窓口を牡丹さんに指名した、と聞いてます」


あああ………。よりにもよって牡丹を指名するとは、めんどくさいこと甚だしい。


牡丹は同じ課の同僚であり、職級が一緒で同格扱いである。職種は情報官。

くぅ、そういうことだったのか、と納得せざるを得ない。


 この牡丹という女は労いの言葉一つかけず、戻るなり、ズカズカと私のところに迫ってきたかと思うと、「わかってるわよね!報告書!とっとと書け!」と吐き捨てた酷いヤツだ。

もちろん「何のこと?」としらばっくれたのだが、通用しなかった。


 課長に伝わるのは致し方ない。我らが公安三課のボスである。

隠し通せるなんて思っていない。課長には恩義もあるし、逆らう気はさらさらない。

─────ただ、怒らせてはいけない。

もちろん名前もあるが、怖すぎて私たちは「課長」としか言えない。触るな危険な人である。

今は地獄の本庁で部課長会議があってカンヅメになっており、ここにはいない。


「というわけで、いつ仕上がるのか聞いてきて欲しいと頼まれたのです。出来上がっているなら、もらってきて欲しいと言われました。………その調子だと四半刻(さんじゅっぷん)で仕上げるのは無理そうですね」

二刻(よじかん)は欲しい」

「書き始めてから一刻(にじかん)は経ってますから、あと一刻ですね」

「いまから二刻欲しい」

「それはダメです。上番の刻限を超えていますよね。─────あ、真味糖下げますね」

 華子さんは表情を変えず、お茶受けの皿を掴みにかかるが、こちとら現役の公安職である。やすやすと奪われるわけにはいかない。ちょっとした攻防になったが、死守することに成功した。


「─────ひょっとして鳳仙さんが来るの待ってます?」

ぎくり。いやなところを突いてくる。

「そ、そんなことない、です」

「図星ですね」

華子さんは呆れたような表情を浮かべていた。

「で、できるだけ、なるはやで書くから!」

華子さんは言質を取ったとばかりに、ニヤリと笑った。


 華子さんが視界の外に外れた。

お菓子をひとかけらつまみ、齧る。

その昔、茶の巨匠が絶賛したというお菓子。

これは次元が違う美味しさである。

堪能していると─────、冷や水をぶっかけられた。


「………翠蓮。早くやっつけてしまいなさい」


チッ、いなくなってなかったか………。

華子さん、怖い。凄みを効かせた一言だ。とても幼女が発するような声色ではない。

本気で怒っているお母さんのような言い回しである。

「善処します」と返事をすると華子さんはまた笑顔に戻る。

「ちゃんと仕上げたら─────、またお菓子持って来てあげるから。しっかりやんなさい」

な、なんですって。

真味糖という上等なお菓子がここにまだあると言うのに!

更に追加でお菓子があるなんて………華子様、そんな大盤振る舞いでいいんですか!


「─────本日の当番編成、割り当て。変更になっていましたからね。ちゃんと見ておいてくださいね。波乱を呼ぶ華金の夜、楽しみですね〜。さあさあ貧乏くじ、だれが引くのかしらね〜」


 華子さんは前掛けから紙を取り出し、置いていった。

「それでは、どうぞよろしくお願いいたします」とペコリと頭を下げて出ていった。


 華子さんは人間に見えるが、人間ではない。

人外、妖怪の類であり、見た目で判断すると痛い目に遭う。

─────〈座敷童子〉である。


幼女に見えても中身は酸いも甘いも嚙み分けた熟女。いや老女なのかも知れない。

ココの主であるという噂が尽きない。

〈現世合同庁舎〉があるこの亜空間の主という意味である。


よくわからない場所である。

ココは時空の歪みを利用して作られていると聞かされてるけど、この空間はどことも繋がっていない。でも《現世》にあるのは間違いない。


《幽世》から直接ココに来ることも出来ない。

だから《現世》にある、という理解となるのだが、誰が作ったとか、いつからあるのか、もともとあったものなのか、全くわからない謎な空間であるがとてつもなく便利な場所である。


華子さんが置いていった紙に目を落とす。

(あー、なんか見たくないなー。たぶんロクでもないことになってるんだろうなあ)


 翠蓮は干菓子を齧りながら、思う。

何にも悪いこともしてないし、間違ったこともしていないんだけど、な。

そもそもこんな書き物をしなきゃなんないのか。納得がいかない。

報告書、顛末書、始末書、弁明書、進退伺………。全部違う。─────全然違う!

 

 いま、書かなくてはならないことは─────。

そうだ。アタシは被害者だったんだ!

 被害に遭い、この湧き上がってくる怒りを率直に示すことじゃないのか!

そして、関係者たち(特に天界の連中)を糾弾して、改善を要求するため必要なのだ。


 課長はきっと、それを書け、と言っているんだろう。

 被害者は私なのだから、私が書くしかない。

なるほど、そうか。そういうことか。

 自分に何か至らぬことがあったのかと考えても無駄なのだ。

真面目すぎる私はそんな風にいつも考えてしまう。それがそもそもの間違いなのだ。


 牡丹の口振りで、錯覚してしまった。

さも私がやらかした感を出していたから、である。

 報告書を出せと言ってきたから、勘違いをしてしまった。

まったく。被害にあった私に対して慰めの言葉も一つかけられないとは。牡丹はとんでもない食わせ者である。ああ、嘆かわしい。


 ヨシ。整理しよう。

現場は《獄界》の正面入口「東大正門」に繋がる東参道、そして東車寄のあたりである。

呼び方は「ひがしだいせいもん」である。時々「とうだいせいもん」という言い方をする輩がいるが。


 《現世》で勤務する私がなんでそんなところにいたのか。

それは、《幽世》の【出入界審査場】での応援勤務に当たってしまったからである。


 ん?………んんんーっ?─────それでいいのか。

うん。そーいうことにしよう。


 事件が起きたのは応援勤務が終わって、こちらに戻ってくる間に起きたんだから、それでいいはずだ。

細かいことを言い出したらキリがない。

これでいいのだ。誰も気づかないだろう。

大変、不幸な出来事である。身の毛のよだつ大事件だったことには変わらない。うん。

 

 大きく息を吐いて、居住いを正す。 

華子さんが置いていった紙にはきっと今日の当番編成と割り当てが書かれているのだろう。

それを見ることはまだ出来ない。

私にはめんどうなことを同時にこなす才覚はなんてない。

 いま、やり遂げなければならないのは「被害届」を仕上げることだ。


◇◆◇◆◇◆◇


(よし、一気に書いてしまおう)

筆をとって、勢いをもって書けばなんとかなる!


─────私は【出入界審査場】での応援勤務となったのであります。


 課長は閻魔庁での会議に出席するため、課長に共に《幽世》に向かったのであります。

公務用通路を使用し、【出入界審査場】に入りました。

 【出入界審査場】を通過して、〈獄界〉に向かわれる課長をお見送りをさせていただきました。その際、課長より「勤務が終わったら寄れ」とのお達しがございました。

 職務に忠実なアタシはなんの疑問も持たなかったのです。

《獄界》まで行き、課長の指示を仰ぎ、そしてまた舞い戻り【出入界審査場】を経て、《現世》の庁舎に戻らないといけないということであっても、であります。

 今夜は我が公安三課は夜勤の当番勤務でありますので、上番の刻限には戻らなければなりません。これくらいは難なくこなさなければ、獄界の、いや三界のみならず現世の秩序を守る公安職は務まらないと考えます。

 私はその後、《幽界》の出入界在留管理庁事務局に出頭し、勤務に就きました。

 勤務の間にはそれはそれは、いろいろな事件、諍いなどいろいろとございましたが、この顛末には一切影響致しませんので割愛させていただきます─────。


 一時、筆を止め、文を見直す。翠蓮はむふーっと顔を綻ばした。

(なかなかいいんでないか!)


─────事件が起きたことを思えば、全部吹っ飛ばしてこっちに戻れば起きなかった、そういう見方もあるのではないかと思いますが、私は全く思いません。

 勤務を終えた直後に思いもしないことが起こったのであります。

 前職で苦楽を共にし、互いに切磋琢磨した素晴らしい方々が偶然、応援勤務に来ていたのであります。天界入界管理局入界審査官、天界警察の職員の皆様と逢い見えることは滅多にあることではありません。この方たちとの邂逅は大変光栄なことであります。いまの天界の様子をありのままにお話ししてくださり、離れてこそ見えるものもあると意固地になり出奔した私に対しても従前と変わらぬ親しみやすさで接してくださったのであります。そのような夢のような時間はあっという間に過ぎるものです。

 私には課長より命ぜられた重要な任務があり、辞さなければなりませんでした─────。


 筆が乗ってきたぞ。いい感じである。

このまま最後まで書き切ることができれば上出来だ。


─────上席の指示は忠実に、であります。

 後ろ髪を引かれる思いで、その場を離れたのであります。

 課長はいつもお忙しく、会議はいつも長丁場。それが終わっても宴の席などもあり、いつ帰庁できるのか、いつも心配しており、いつお休みになっているか気になるところです。

 そんな課長のご指示でありますから、

私は《獄界》に下りようとしておりました。そこで審査場にいらっしゃった獄卒長に呼び止められたのであります。獄卒長には日頃からお世話になっております。

獄卒長は私のことを覚えていてくださったようで「お前はよく働いているな」とお褒めの言葉を頂戴いたしました。

「下りるんだったらと、《獄界送致》となった亡者を連れてってくれないか」と頼まれたのです。

大変お困りの様子でありました。勤務外であっても断る理由はありません。

 気持ちよく承諾させていただきました。

 ご存知のように【出入界審査場】から《獄界》までは薄暗い下り坂の道を往くことになります。この道を使わせて貰える亡者であるからして、私は罪咎としては軽いものだろうと推察いたしました。丁度よい送致だったと思われます。

 《獄界送致》は亡者にとっても大変な重要なイベントであります。

 鬼獄卒が責め立てるのは、自らの罪咎としっかり向き合うことができるようにするためであることは言うまでもありません。

 平時には亡者3人に対して獄卒2人の運用であったはずです。今回の送致対象となった亡者は6名。この場合、獄卒2名となるはずです。

 一緒に送致を担当する獄卒は1人しかいませんでした。

私は獄界警察庁の職員であります。送致の手伝いをお願いされるくらい当然のことです。

 人手不足、いや鬼手不足は深刻なのだと理解しております。

私にこの場を借りて、申し上げることをお許し頂ければと思います。

 亡者の皆さんは、これから始まる審判を前に心を躍らせているのです。

このような不十分な対応では先々に不安を抱かせることになります。

 呵責も手抜きなのでは、と勘ぐらせてしまうのです。亡者の期待を裏切ってはいけません。

人事局には是非ともご考慮いただきたいと思います。

 今回ご一緒させていただいた獄卒はまだなりたてのようで鬼のわりには可愛い顔をしており、非常に好感が持てました。今後もこのような獄卒の採用をどんどん進めていただきたいと思います。

 矯正を担当する鬼獄卒の皆さんとは異なる部署でございます。

とはいえ、同じ《獄界》の職員、同じ釜の飯を食う仲間であります。

 この新人がもしも、虐められるようなことがあれば、私に言ってくれたらいいよ、私が成敗してあげるからねと冗談を交わすほどに仲良くなりました。

 新人の空木くんはデキる子でした。空木くんは先導、私が殿を務めました。

まだまだ不慣れでしたが、十分に役目を果たしました。

 前置きが長くなりましたが、ここからが本事件のあらましであります─────。


(うん。すごくいい。我ながらよく書けている)


─────下り道を抜けますと《獄界》の領域に入ります。

そのまま《獄界》の正面玄関である「東大正門」が見えたところで、事件が起きたのであります。いきなりでした。手がにゅーっと伸びてきて、私の胸が揉まれたのです。揉むというより揉みしだきやがったのです。

ぐに、ぐに。一拍おいて。

ぐに、ぐに、ぐにぐにぐに。

更に一拍おいて、ぐにぐにぐにぐに。

 私は回数を数えておりました。なんと下手人は都合11回も、揉んでおります。

これは強制ワイセツ、いや婦女暴行と言えましょう。

投げ飛ばすことができるくらいには鍛えておけばよかったと今日ほど思ったことはありません─────。

これが事件の全てであります。然るべき処罰をお願いしたく思います─────。


(上出来。うーんとってもいい)

 

 これは私が被害に遭ったということを申告するための書類なんだから。

加えて書くとすれば、この後に閻魔庁本庁に顔を出して、会議中の課長に伝言を入れ、もらった返事について一筆添えておくのはどうだろう。返事は「なにもない。帰ってよし。夜勤に遅れるな」だったのだが。


 背後から気配を感じた。

華子さんがまた来たのか、と思いながら振り向くとそこには凍てつくような空気を漂わせている牡丹が腕を組んで立っていた。


◇◆◇◆◇◆◇

  

 牡丹は翠蓮から手渡されたものをざーっと目を通した。

呆れた。そしてなんて言えばわからず、辛うじて出てきた言葉は………。

「─────これ本気で出すつもり?」


 このすっとこどっこいは「被害届」だという。

確かにそういう面もあるのかも知れないけど、問題はそこではない。

過失があるとすれば、翠蓮にある。


 《天界》と《獄界》とでは、方向性の違い、考え方の違いで相容れないことは大いにある。

昔からよく使われる《天界》と《獄界》の考え方の違いをわかりやすく伝える喩えがある。


─────服を着ている。としよう。

 

 《天界》の考えでは、この服は絶対に汚してはならない、と考える。

もしもはない。もし汚してしまった時はそれを必死に取り繕うか、または気づかなかったことにする。

最悪の場合、他人のせいにする。あくまで悪いのは自分ではない。

兎にも角にも他人のせいにしてでも正当化する。それも出来なければ隠蔽する。


 《獄界》ではどう考えるか。

服は汚れるものだ。汚れは洗い流せば良い。

決して元には戻ることはないが、洗いざらしにした方が味が出ていいこともある、と考える。

実にシンプルな考え方だ。


 この喩えは 極端な話である。

服が「人」であり、汚れは「罪咎」である。

その衣を洗うということは「獄卒の呵責を受ける」ということを意味する。

《天界》にはどこから見ても清廉潔白、人格者であって、その世界の住人としてふさわしい人物が多く存在するのも事実。

《獄界》に落とされる罪人、咎人を見れば、それはそれで、その通りのふさわしい世界にいるということになる。


ここで問題になるのは翠蓮と《天界》の関係性である。

決して《天界》と《獄界》の関係性ではない。


 はっきりいってコイツはわかってやっている。

わかっていないわけがない。

牡丹は「あー、めんどくさい」と思いながら口にする。

「そもそも、あんたのその官服が問題なんでしょうが!」

「はあ?………またそれ?………許可取ってるし、無問題なんだけど!第一【出入界審査場】で赤黒着てうろうろしていたら怖がられるでしょ?」


 獄界の職員の正規の官服は「赤黒の官服」である。

翠蓮は天界の職員が着用する白と淡い翠色の差し色の入った官服、つまり「白翠の官服」を好んで着用している。ちなみに幽界の職員は「銀影の官服」と呼ばれている。要は灰色である。


「………怖がられてなんぼでしょ。獄界警察なんだから!」

「あーやだやだ。これだから………」

「何よ!」

「怖がられるだけじゃ仕事になんないの。─────現場に出てない人はこれだからねー」

 翠蓮は牡丹の頭をツンツンと突いた。

此奴にそんな仕草をされる覚えはない。首を絞めてやりたくなるが、堪えて書類を突き返す。

「え?─────これじゃダメなの?」


 どうやらはっきり言わないとダメらしい。

「んなもん、出せるか、バカ」と毒づく。

内側から沸き上がってくるどす黒い感情をぶつけずにいられなくなる。

 

 粘着質な《天界》の入界審査官の追及を躱し、《幽界》の出入界在留管理庁の統括官からの嫌味をどこの誰が受け止めているのか、分かってんのか、と問いたい。

 思い知らせた方がいいのかもしれないと、一瞬頭をよぎるがやめておくことにする。

わかっている。課長が私にやれ、と言ったのに意味があるのは重々わかっている。

 翠蓮と《天界》にやりとりをさせたなら、どうなるかは推して知るべしだからだ。


「あんたがソレ着てふらふらしてたから、天界行きの人たちが後ろをぞろぞろとくっついてきちゃったんでしょう!」

「はあ………?言われた通りちゃんと腕章してたし。アタシについて来た奴らが悪い」

「勤務中は、の間違いでしょ」


ちゃんと〈獄界警察〉の腕章をしていたのは勤務中だけ、である。

【出入界審査場】に確認したので間違いない。


「たまたま居合わせた天警特機の隊長さんが事態を収拾しようとして、必死に呼び戻したらしいけど、あんたガン無視したわよね?」

 翠蓮は口笛を吹き、どこ吹く風である。

こういう態度の時はだいたいすっとぼける気満々である。


「そんなことより!私は被害者なのっ!下手人はどーなったのよっ」

「あんたねっ!下手人なんかじゃないでしょが!あんたの乳を揉ませたのは天界警察の中隊長。話しかけても無視するし、挙句に逃げるし、勢い余って蹴っつまずいて、倒れ込んだところ、手首を押さえつけて、動けなくして、あんたが胸を揉ませたんでしょうが!先方はそれでも不幸な事故だったって、百歩も千歩も譲ってくれてんの!─────問題はそっちじゃないの。《天界》行きの善良な死者を《地獄》まで連れてきちゃったってのが、問題なの!」


 翠蓮は頬を膨らませる。間違いない。確信犯である。

さっきの書類の文脈はさも原因は課長が《獄界》まで顔を出せって言ったことにしたいようだ。

そういうところにちょいちょい天界人っぽい気質が顔を出しているってことに気づいていないのか、まったく。迷惑な話である。


 翠蓮はもと《天界》の職員。天界警察の警邏官だったのだ。

天界でいろいろあって(やらかして)獄界に出向。そのまま転籍したという過去がある。

正確には獄界で預かることになったというのが正しい。

 

 翠蓮の官服は目立つ。おかしいと指摘されても仕方がない。

天使様に見間違ってもおかしくはない。歳を感じさせないあどけない顔。優しげな表情。

羽根は生えてはいないだけでそれ以外は完璧な出来映えである。

予備知識がなかったら《天界》の使者にしか見えないだろう。

男性諸氏に至ってはお近づきになりたいと思うのか、どこかしこから沸いてくる。

─────そう、立派なお胸様をお持ちだからだ。

俗な言い方をすれば、ロリ巨乳の天使様である。見事な化けっぷりなのだ。


何故、歩く迷惑のような存在が放置されているかと言えば、そんな出で立ちの女子が陰極まりし獄界の「赤黒の官服」など興醒めである、と宣ったやんごとなき貴人のお陰。


困ったことにこの官服を着た翠蓮によって、多大なる功績があるのもまた事実である。

《天界》側をイラつかせる原因にもなっているのだが。


「………《甘言の翠蓮》なんて二つ名があるくらいなんだから、うまく書きなさいよ」

「私の本分はべしゃり、なんだってば、書くのはどうもね」

 

 翠蓮は少し真面目な顔をした。

やっとやる気になったか、と思ったが、同時にロクでもないことを書くんだろうな、と思いつつ翠蓮を見る。筆を取ってさらさらと書き始めた。時折、口元を歪めているのが見える。

まったく何を考えているのやら。


 翠蓮は一心不乱になって書いている。

少しはまともになるか、はたまた破綻したものになるか、まだわからないがさっきよりはマシなはずである。


「………こんなんでどう?」


 牡丹は差し出された書類を受け取り、目を通す。

翠蓮は満足げに、お菓子を口運び、お茶をぐいっと飲み干す。


─────この人についていったら、ダメ、危険。

こんな姿をしていても、地獄の職員です。地獄の怖い怖い公安の人です。

どうなっても知りませんよ。っていう張紙を出せば、いいんじゃないの?オススメです。


 天界治安警察機構特殊機甲大隊の皆さん。

今回、私はいきなり胸を揉みしだかれました。11回もです。はっきり言って私は被害者です。

天界警察の人ってそんな破廉恥なことをしても許されるんですね。

よくわかりました。


 天界入界管理庁の皆さん。

天界に向かわれる方だけのお世話だけが【出入界審査場】の仕事ではないはずですが?

審査場に一人も出てこないのは何故ですか。

 天界の受付から一歩も出てこないってどういうことなんですか? 

─────天界から応援勤務には14人も派遣されているのに、なぜ共通区画に誰も出てこないんですか。

なんのための応援勤務なんですか?

くっちゃべってるだけで、なんにもしないんだったら、帰って寝てろ。仕事なんかやめてしまえ。

 そいつらがちゃんと仕事していれば、防げたことだろうが。この能無しども。

勤務時間中に私をとっ捕まえて文句、罵詈雑言ぶつける暇があったら働け。

 私の勤務時間が終わるのを見計らって、取り囲むのやめてもらっていいですか。

それから私の官服に触れるな。不愉快なんですけど。


 天界入界統括審査官どもへ。

あんたたちの審査がトロいから下の連中が暇になるんだ、わかってるか?

動かねー職員、送り込んでんじゃねーぞ。お前らもサボってるから同じか。

人のせいにする前に、自分たちの言動を省みたらどうですか。

私の言っていることがわからないなら。滅んでしまえ。そんな世界なんていらんだろ。

その方が《幽世》のためになります。はっきり言っておきます。

─────滅べ、滅んでしまえ、跡形もなくきれいさっぱりなくなってしまえ。


 牡丹は読み終えて天を仰いだ。

これでよくわかった。

 天警特機隊の中隊長は完全に巻き込まれた被害者でしかないことも明らかである。

被害者であるその中隊長殿はなぜだか「不幸な事故」だったと言い切っていて、事を荒立たせるつもりはないように思える。こんなことされても呑み込めてしまう、というのが信じられない。

さすが天界警察のエリート部隊である。


 《幽界》側はこれで納得するかもしれない。

【出入界審査場】の場長は翠蓮をわざわざ応援勤務者に指名する。

 本人に言ってしまったら小鼻を開いて、ふんぞりかえってドヤ顔をかましてくるので言わないが、よく気が利くし、初めて審査場にやって来た人たちへの配慮も抜かりない。評判はすこぶる良い。

 あの水原とかいう場長も天界職員のサボタージュには頭を抱えていたから、翠蓮の言い分をまるっと受け入れるだろう。

 

 問題は《天界》の上層部だ。相当にイラつくはずだ。当然あちらにも言い分があるはずで、私たちとは違う感性で物事を捉えている。翠蓮に何があったか、喋れっていうことになれば、洗いざらいぶちまけてめんどくさいことになるのはわかりきっている。


 翠蓮の天界嫌いは今に始まったことではない。

さっきのわけのわからない被害届の体をした駄文に比べたら、数段マシではある。

 翠蓮がこういうタイプの報告書を書くと、今度はそのまま《天界》や《幽界》に提出したのか、としつこく聞いてくる。売った喧嘩を向こうが買ってくれないとなるとまた一段とめんどくさくなる。

 

《天界》だろうとなんだろうと、たった一人でも事を構える。そういう奴だ。

牡丹も翠蓮の言うことに共感できることも多い。

ただ、一緒に任務に就く身としては、もう少し周りに配慮してもらいたい。やらかした後の始末を誰がしているのか、ということをもうちょっとわかってほしい。

 

 また口笛を吹きそうな感じである。

少々ムカつきを覚える。

「今晩の当番勤務」についてもまだ知らないそうだ。

まったくいい気なもんである。


「ねえ、今日の当番勤務の編成、変わったのよ………見てないの?」

「まーだー」


 やっぱり。翠蓮は書類を書き終えた安堵からか気の抜けた返事をしている。

牡丹は翠蓮の肩を掴み、メモを突き出す。


「よく見なさい。─────《三界連携活動》だってよ。三界調整官の業務監査もあるんじゃないかしら?獄界職員による天界職員用官服着用についての業務監査って話になってるわ」

「なによソレ!」

「あんたね、あんたがやらかしたんだから、いい加減腹括りなさい。着用の有用性についてちゃんと証明しなさいってことじゃないの?」


 翠蓮はメモをマジマジと見つめている。

見つめたって何も変わらない。

だから前もって華子さんに伝えてほしいと頼んだのだ。

「翠蓮ちゃんもいろいろ大変なのね」と言って、秘蔵のお茶菓子も用意してくれた。

なのに、コイツと来たら、自分のことしか考えてない。


 今回は《天界》側の動きが速かった。先手を打たれた。それも正攻法である。

抗いようがない状況に追い込まれた。

 はっきり言って翠蓮のおかげである。大迷惑でしかない。


「─────まあ、調整官は李花っていう人みたいね。公正な判断ができるって評判の調整官よ。〈天界警察〉からは警備部特殊機甲大隊第一中隊。あんたにセクハラを仕掛けられた中隊長さんの部隊。〈幽界〉は境界警備隊特殊武装警備隊第二連隊と幽界警邏庁警備救難部特別救難隊。んでもって、ウチからは公安部公安三課第二中隊と広域警邏部特殊警邏第二連隊だってよ。迷惑なことよ、マジで」


 翠蓮はふるふると拳を握りながら、イライラをつのらせている。

「はっきり言っちゃうけど、あんたのせいだと思うわよ」


 なにやらなんだかよくわからない奇声を発している。ブチ切れやがった。

 牡丹はサッと踵を返す。後ろから聞こえてきた翠蓮の声を無視して、自分の持ち場に戻ることにする。

もうここには用はない。


 集合場所は天界治安警察機構の現世合同庁舎。

そこまで出向かないといけない。まあ、隣といっちゃ隣だけど。

 課長はまだ戻って来てないし、隊長はいつも上番時間ギリギリにしか来ないし。

隊員達をこの歩く大迷惑と私で引率しないといけない。


 翠蓮は少し放っておく。そのうち向こうからやって来るだろう。


 隊長への連絡は華子さんがしてくれている。ほんの少しでいい。早く来てくれることを願う。

第二中隊の面々を捕まえて、お出かけの準備もさせないといけない。

 ついでに誰かに荒ぶる翠蓮を押し付けておかないといけない。

やらないといけないことは山ほどある。

 あーあーあーあーあー。また貧乏くじを引いてしまった。

牡丹は大きくため息をついた。

いよいよ本編スタートです。

楽しんでいただけたら幸いです。

今日から【四話】まで公開していきたいと思います。お楽しみに。

明日も午前0時に公開します!

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