報告
あの夜を境に、僕たちは名前で呼び合うようになった。
僕は彼女を「イフリータ」と呼び、彼女は僕を「シュウジ」と呼ぶ。
最初は少し照れくさかったが、呼び慣れていくうちに、
それが僕たちの距離を縮めていった。
畑仕事も、一緒にするようになった。
料理も、洗濯も、掃除も、二人で分担するうちに、
まるで家族のような時間が増えていった。
笑顔も、言葉も、少しずつだが確実に増えていく。
彼女の剣を握る手が、スコップに変わる。
その光景が、どこか信じられない気持ちにもなった。
彼女が僕の傍を少しでも離れると、腕輪が小さく光を点滅させる。
――アリスが呼んでいる。
「……そろそろ頃合いか」
僕はイフリータに街へ行く旨を伝えた。
一泊二日の予定。できれば日帰りしたいが、念のため泊りであることを伝える。
「その間、家を守ってほしい」
そう頼むと、イフリータは静かに頷いた。
信頼に応えてくれているのがわかった。
彼女の目に、ほんの少しだけ寂しさのようなものが浮かんだ気がしたが、それ以上は言わなかった。
* * *
王城。アリス王女の私室。
「呼んでも来ないと思ったら、急に現れるのね」
僕の姿を見ると、王女は驚いた表情を見せたが、すぐに表情を戻してソファに腰掛けた。
その仕草は、彼女なりの「座れ」の合図だった。
僕とアリスとの関係は、特異なものだ。
召喚され、交渉の末に解放された存在。
その代わり、月に一度の報告義務。
だが今回は、1か月も遅れてしまった。
つまり2カ月ぶりの顔合わせになる。
「行きたい気持ちはありました。が、急用がありまして……アリス様もご存じでしょう」
「ええ、知ってるわ。……イフリータ、でしょ」
その名前を口に出したときの彼女の声音には、静かな棘があった。
「私は今、あなたにこの国の現状を話すべきか迷っているの」
「……理由はわかります」
「本気で、こっちは困ってるのよ。冗談抜きで」
「でも、僕はどちらの味方でもありません。
アリス様とお喋りをする友人として、ここに来ていると思っております」
その言葉を聞いた瞬間、アリスは鋭く僕を睨んだ。
「彼女はだめよ。イフリータが人類にとってどんな存在か、あなたも知ってるはず。
どれだけの命を、あの女が奪ったかを」
「聞いたことはあります。ただ、それは一方的な記録であり、魔物側のプロパガンダかと」
「違うわ。それは現実。記録にすら残せなかった戦場もあったくらいよ。
……だからあなたを、一度でも戦場に立たせるべきだったのよ」
苛立ちを隠しきれない彼女が、机のベルを鳴らした。
すぐに忠実な侍女が現れ、お茶の準備をすると告げて退室した。
「彼女を引き渡せとは言わない。やりなさい。」
「それはできません。僕は彼女と……友達になりましたから」
その一言に、アリスは沈黙した。
けれど、表情にはまだ諦めがなかった。
「だったら、絶対に彼女を――」
続きを言いかけたところで、アリスは言葉を飲み込む。
そして、深いため息をつく。
「……負けたの」
彼女は重い口調で国の現状を語り始めた。
前線で、赤の勇者が戦場に立てなくなったこと。
「あの勇者が?」
「ええ。最後まで彼女と相対したの。
イフリータの“狂気”に触れて、戦場そのものを恐れてしまったのよ。
心が、折れたの」
それは、理解できる話だった。
死が間近に迫る真の戦場の恐怖を、ようやく知ってしまったのだろう。
「無理に立たせれば、むしろ武器が発現しない可能性もある」
「……そうなの。だから、あなたが必要なの」
「僕には心の武器なんて出せません。だから、戦場には立てない」
「わかってる。……それを信じて、あなたを解放した。
そして、あのときのその言葉を鵜吞みにした過去の私を今も責めている」
アリスは淡々とそう言いながら、テーブルにあったクッキーを無造作に口に運んだ。
「それで……これからは一旦国の防衛に力を入れるわ」
アリスは頷きながら、静かに目を閉じる。
戦略を、脳裏に描いているのがわかった。
「……一年でもう一度戦えるようにする」
その言葉に、僕は思わず笑ってしまいそうになった。
無茶なスケジュールだ。
だが、彼女なら――王女アリスなら、やり遂げてしまうかもしれない。
いや、やり遂げてしまうのだろう。
それが、王女アリスという人間なのだ。