日常と彼女
夜中、ふと目を覚ますと、彼はいつも居間にいた。
道具を丁寧に手入れしていたり、翌日の作業の準備をしていたり。
時には、膝の上で小さな刺繍を縫っている姿もあった。
ひと針ひと針、細かな花の模様を静かに布に刻んでいくその手つきは、
戦いとはまるで無縁の、穏やかで平和な営みだった。
そういえば、彼が休んでいる姿を、私はまだ一度も見たことがない。
――魔族である私がここにいるせいで、気を抜けないのかもしれない。
そう思えば、納得はできる。
だが、ならば――
なぜ、私を助けたのだろう?
なぜ、何も問わず、この場所に置いてくれるのだろう?
その問いが心に浮かびかけたとき、私は思考を断ち切った。
考えたところで、答えは出ない。
それに、彼の振る舞いを見ていればわかる。
計算高くもなく、利口ぶったところもない。
ただ、淡々と、まっすぐに生きている。
損得で人を量るような人間には、どうしても見えなかった。
「帰らなければ」と思う気持ちと、
「帰りたくない」という想いが、夜ごとに胸の中でせめぎ合う。
そのせいか、私は深く眠ることができずにいた。
――帰ったとして、今の私に何ができる?
魔法を失った今の私は、ただ身体能力の高いだけの魔族にすぎない。
遠く離れた祖国まで、この足で戻ることはできるのか?
いや、それは言い訳だ。
少し前の私なら、どんな状態であろうと、祖国のために迷わず帰還していただろう。
それでも、今はまだここにいる。
この暮らしが、どこか心地よくて――離れがたいのだ。
生まれて初めて、「生きることが気持ちいい」と思えた。
朝、森を歩き、軽く走り、枝を振る。
川のせせらぎを聞きながら釣り糸を垂れ、気づけば陽は傾いている。
水面に映る空の色を眺め、体を洗いながら、今夜は彼と何を話そうかと考える。
私は軍の出身で、会話といえば戦いにまつわる話ばかり。
最初はそれしか知らずに、戦場の話をしてみたが――
彼は静かに相槌を打つだけで、
その表情には、どこか困ったような影があった。
それに気づいてからは、私は散歩の時間を長くとるようになった。
山の中で見つけた珍しい草花のことや、
小さな動物の動き、風に揺れる木々の音――
話題を集めるために、私は自然の中を歩き回った。
こんなふうに、ゆっくりと時が流れる日々を過ごすのは、生まれて初めてだった。
私にとって、生きることは常に「戦い」だった。
強くなるのは、敵を倒すため。
仲間を守るため。
自分が生き延びるため。
けれど今、傷もなく、痛みもなく、ただ静かに一日を終えられるだけで――
それだけで、十分に幸せだった。
ふと、気づいた。
「彼の名前、知らないな」
不思議なことに、これまでそれに疑問を抱くことがなかった。
二人の生活に、名前を呼ぶ必要はなかったのだ。
声をかければ自然と目が合い、言葉を交わせばそれだけで通じ合えた。
彼もまた、私の名を尋ねたことはない。
けれど、知っているのだろうか?
この山に暮らしていても、私の名くらいは耳にしたことがあるかもしれない。
――それでも、私は偽名を名乗ろうとは思わなかった。
彼なら、名が何であろうと、それだけで態度を変えるような人ではない。
それは、この二週間を共に過ごす中で、はっきりと感じていたことだ。
「明日、彼の名前を聞こう」
私はそう決めて、そっと目を閉じた。
夜の静けさが、心の奥深くまでしみわたっていった。