第03話 メタバース
約束の時間にメタバースにログインすると、俺は昨日ログアウトした宇宙港からスタートする。
高速エレベーターに乗って、地表へと上昇して行く。俺の感覚では下降しているのだが、スペースコロニーでは回転軸から外周部の方向へ移動することを上昇と言うらしい。
仮想空間だからと言って、どこでも好きな場所にログイン出来る訳ではない。前回、ログアウトした場所からの続きになる。
地形による起伏がないコロニーでは、移動手段は端から端まで一直線に続くリニアモーターカーが数本と路線バス、それにタクシーが走っているだけだ。
フルダイブ型と言われる仮想空間で、そこには現実と錯覚するほどの都市がCGて作られている。VRインターフェースを使用することにより、あたかも自分がそこに居るかのような感覚を味わうことが出来るのだ。
巨大なシリンダーが回転することにより重力を模倣し、その内側に都市が造られている。頭上には反対側の街が小さく見えて、運河のように延々と続く採光窓からは、宇宙空間に展開したミラーに映った星が、流れるように輝いていた。
時間の経過が現実とは数時間ずれているのは、スペースコロニーだからという演出だろうか。
コロニーは『シャングリラ』と『エデン』の二つが同時に建造され、シャングリラの方は既に完成しているものの、エデンの方は内部の都市がまだ開発途中だ。
俺の父親が手掛けたプロジェクトで、志半ばでこの世を去ってしまった。現在は会社の経営を引き継いだ母親の手によって継続されている。
コロニーでは、まだ午後の明るい時間帯で、採光窓に架かる橋を渡ると、噴水広場に集まる人影が見えて来る。
噴水の縁で待っていた詩音は俺に気付くと、モフモフの尻尾を振っている。
詩音のアバターはセーラー服の女子に、ケモミミと尻尾が生えた狐のキャラクターだ。セーラー服と言うと誤解されそうだが、水兵の方だ。
元々は以前にやっていたゲームで、俺とパーティーを組んでいた時のキャラクターだ。そのデータをメタバースでも流用している。
アバターの顔は自由に設定できるのだが、自分の顔をスキャンして使うのが一般的だ。知人同士がお互いを認識できるようにということもあるが、現実とリンクした様々なサービスがあるので、本人確認を簡略化できるということもある。
俺はゲームでは旧日本兵のような軍服を着ていたのだが、メタバースでは現在の姿をそのままアバターにしている。
「メタバースの待ち合わせに、手書きのメモなんて、面白いことするな」
「触感フィードバック付きのVRインターフェースを買ったけど、昨日はそれを言う暇がなくて」
「へえ、そうか」
そう言いながら俺は、詩音のケモミミを摘んでモミモミする。見る見る内に、彼女の顔が赤くなった。
触感フィードバックとは、仮想空間の中で触ったり体に触れたりした感覚を、実際に感じることが出来る機能だ。逆に体に現れた反応はアバターに反映される。顔が赤くなったり尻尾を振ったりするのも、その機能のお陰だ。
「やだ…くすぐったい…」
「実際には、人間にない部分も感じるんだな。よく出来てるよな」
「手触りが分かるようになったから、色々試してみたくて」
「そうか、ちょっと待ってくれよ」
目の前の何もない空間を、タブレットを操作するように指先でタッチすると、半透明のウィンドウが開く。それを操作して、イベントやレジャー施設を検索した。
「俺がやってみたいのは、大気圏突入なんだけど、地球に降下したら、またシャトルでシャングリラまで来るのは面倒だしな。今日、行けるのは切り裂きジャックの殺人現場とか、グレムリン・カフェとか…」
「グレムリン?行ってみたい!」
せっかく触感フィードバックがあるんだから、手でも繋いでみようかと俺は手を差し出した。現実世界ではそんなことはしないが、お互いにアバターだから抵抗がなかったのかもしれない。でも、詩音はモジモジして、なかなか手を出さない。
「ん、どうした?」
「か、海里君のそういうとこ、良くないと思うよ。優しくされると女の子は、勘違いするから」
「ああ、六花にも残念な人だって言われたな。気を付けるよ」
「べ、別に断ってないから…」
俺が手を引っ込める前に、詩音は尻尾を振りながらその手を握った。俺のVRインターフェースには元々、触感フィードバックが備わっているから、ちょっと汗ばんだ彼女の手の感触が伝わって来る。
幼馴染というほどではないが、詩音のことは中学生の頃から知っているから、変に意識したりはしていなかった。同じ趣味を共有できる仲間と、同じ高校へ進学したという程度の認識だ。
実は小学校も同じだったのだが、一度も同じクラスになったことがないので、俺は詩音のことを知らなかった。
そして、高校生にもなると、男女の違いを意識しなければいけないのだろうか。六花のような美少女と同居することになって、それは実感している。
「エデンの開発も順調に進んでるみたいだね。海里君のお父さんが亡くなった時には、どうなるかと思ったけど、安心した」
「エデンはスタジアムやアリーナを中心に開発して行くみたいだからな。完成したら賑わうぞ」
切っ掛けは中学一年生の時、クラスメイトだった詩音が、VRインターフェースのカタログを持っていたことだ。教室の片隅で、一人ポツンとカタログを広げて見ていた。
当時は、まだ健在だった父親の会社の商品だから、当然のように俺は彼女に声を掛けた。
詩音に嬉々として、VRインターフェースを買ったら、使い方やゲームのやり方を教えてほしいと頼まれたのだ。
あまり他の生徒と絡んでいる印象がなかった詩音が、前のめりで話しているのが意外だった。まだ高価だったVRインターフェースを大した知識もないのに買おうとするなんて、俺なりに嬉しかったことを今でも覚えている。
初めにやり始めたのが、絶海の孤島でモンスターを狩るゲームだった。詩音の狐のアバターも俺が作った物で、小柄で小動物のような彼女にそんなイメージを持っていた。
その後も色々なゲームに手を伸ばしたが、詩音がそのキャラクターを気に入っていたので、データをそのまま流用していた。メタバースに舞台を移した今でも、それは同様だ。ゲーム用のキャラクターがスペースコロニーを闊歩しているのも、仮想空間ならではだろう。
俺達がゲームをやり始めた頃は、まだ触感フィードバックが技術的に未熟で、痛いとか熱いとか、刺激の強い感覚しかなかった。そんな苦痛を味わってみたいと思うドMなプレイヤーでなければ、わざわざ高額な触感フィードバック付きのVRインターフェースを買ったりはしないだろう。
だから詩音も、その機能がないインターフェースを使っていた。でも、最近では技術が向上して人間が感じられる感覚は殆どサポートしているし、コストダウンで価格も下がっている。だから、彼女もインターフェースを買い替えたということだ。
商業ビルの二階にある『イタズラ好きの妖精カフェ』という名前の店に入ると、猫のような鳴き声が俺達を迎えてくれた。
グレムリンはヨーロッパの伝説や民間信仰などに由来する存在で、小さな悪戯好きの妖精とされている。
映画では水を与えると増殖したり、夜中に食べ物を与えると変身したりしていたが、それは映画のオリジナル要素だ。
グレムリンが実在している訳ではないが、そんな空想の生き物と触れ合えるのも仮想空間ならではだ。
「いらっしゃいませ」
AIで動作する店員にルールを説明され、俺達は店内に入った。
店内にはソファやテーブルが置かれていて、壁には猫カフェのような棚やトンネルがある。毛足が長くリスを一回り大きくしたような見た目で、二足歩行をしているグレムリン達が、そこで客と戯れていた。
そんなグレムリンの一匹が詩音に近寄って来て、彼女はその場に蹲り優しく抱き上げた。
「凄い、モフモフしてる」
そのグレムリンもAIによって動作しているのだろう。イタズラ好きと言うだけあって手にマジックを持っていて、抱き上げた詩音の顔にヒゲを落書きしている。そんなことをされても、詩音は特に怒ったりはしない。
ただ、ちょっと残念なのは、会社でエンジニアが触感の調整をしているところを見ているから、そういう知識があると純粋に楽しめないということだろうか。
「海里君はグレムリン、苦手なの?」
眺めているだけで、グレムリンに触ろうとしない俺に詩音が聞いた。
「いや、生き物は全般的に嫌いじゃないよ。詩音のアバターだって狐だしな」
詩音がパタパタと尻尾を振ると、その尻尾に別のグレムリンが鈴を付けて、チリンチリンと音がする。俺はグレムリンの感触を味わうよりも、そんな光景を見ている方が楽しかった。
ソファーに座ると、更に別のグレムリンが俺にすり寄って来て、スケッチブックにマジックで書いた文字を見せて来る。そこには『Are you a man?』と書いてある。
こいつ、握り潰してやろうかと思いつつ、そんなグレムリンを抱きかかえて、腹話術の人形のようにしながら詩音に話し掛けていた。
「六花みたいなタイプは苦手か?」
「素敵な人だと思ったよ。海里君に、あんな綺麗な従妹が居るなんて知らなかったから」
「詩音に嫌われてるんじゃないかって、気にしてたぞ」
「私なんか、一緒に居ても釣り合わないから」
「釣り合うかどうかで、友達を選んだりしないだろう?誰も詩音と比較なんかしてないから」
「でも、初対面の人と話すの苦手だから」
「それじゃ、メタバースの中なら話せるだろう?また今度、六花も誘ってみるから」
「うん…それなら…」
「よし、じゃあ六花のアバターも作っておくよ。詩音が気を使わなくていいようなキャラにしとくからな」
「あ、それならロリータがいいな。綺麗な人だから、絶対似合うと思う」
「ロリータか…そっちの方面には疎いから、何か資料があったら送っといてくれよ」
「うん、分かった」
六花のためのVRインターフェースには当てがある。後はアバターの制作だが、ロリータだということは実際にログインするまで本人には内緒にしておこう。
グレムリン・カフェを堪能した後は店を出て、今日はログアウトする。
VRインターフェースは目と耳を覆うようにリング状の形をしていて、後頭部にコントロールユニットが取り付けられている。
メタバースの中で手足を動かしたり喋ったりしても、現実の自分はたまにピクッと動く程度らしい。神経をバイパスしてアバターを動かしているという話しだが、詳しいことは俺もよく知らない。
VRインターフェースを外すと、目の前に中学生くらいの女の子が、俺の顔を覗き込んでいるのが見えた。その距離があまりにも近いので、俺の方が仰け反ってしまったほどだ。
「うわっ!誰?」
「七瀬って言いまーす。夜間の交代要員どぇーす」
六花とは随分、違うタイプの少女だ。髪をお下げにして、オーバーサイズのパーカーから脚だけが見えている。小柄で少し幼い感じがするのだが、夜間の警戒が仕事だから、六花のように格闘技が出来る訳ではないのだろう。
「ああ…聞いてるよ。俺がメタバースにログインしてたから、六花は気を使ったんだな…」
「海里クンって、女の子みたいな顔してるね。男の子にしては華奢だし、可愛いよね」
「俺が弱々しいから、脅迫状なんか送り付けられたんだろうな」
「大丈夫だよ。海里クンのことは、私が守ってあげるから」
「それは頼もしいな。他にも人員は居るのか?八とか九とか」
「二十四時間体制なんて殆んど需要がないから、学生専門は今のところ私と六花タンだけだよ。費用もバカにならないのに、海里クンはママに愛されてるよねぇ」
「そうだな…今の所、母さんが筆頭株主だから、後継者は俺ってことになるし」
その時、話し声が聞こえていたのか、ドアをノックする音が聞こえて、返事を待たずに六花が顔を覗かせた。お風呂に入っていたらしく、トレーナーにハーフパンツという、ラフな格好をしている。
昨日は寝ていないし、お風呂にも入っていないから、しっかり髪を洗ったのだろう。タオルで拭いただけで、まだ乾いていない状態だ。
丁寧な六花が返事を待たずにドアを開けたのは、少し焦っているようにも思える。まあ、七瀬が自由な行動をしているから、その気持ちも分からないではないが。
「申し訳ありません。私が勝手に、七瀬を家の中へ入れました」
「ああ、それは構わないけど」
「七瀬は夜間の警備、お願いね」
「はぁーい」
向きを変えて部屋を出て行こうとしていた七瀬は、途中で立ち止まり振り返った。
「どんな奴が襲って来ても、海里クンには指一本触れさせないからね」
「ああ、頼りにしてるよ」
七瀬は親指を立ててニッコリ微笑むと、ドアの所に立っている六花の横をすり抜けて、部屋を出て行った。入れ代わりに六花が、部屋の中へ入って来る。
「七瀬は、お調子者だから、あまりその気にさせないでください」
「まだ、義務教育だろう?いつ寝てるんだ?」
「パーカーの下に制服を着てるんです。仕事が終わったら直接学校へ行って、帰宅してから寝ます」
「そうか」
法律上、十八歳未満は夜間の勤務が出来ない。ただし、例外がある。報酬を受け取るのではなく、純粋に家族の助けとして行っている場合だ。
多分、七瀬はボディーガードを派遣する組織の、ボスの家族なんだろうなと思っていた。