第9話《side:ミカエル》
突然青年が地面に手をついた。四足歩行の獣のように。いや……足には糸が絡み付いている。下半身をよじらせ手の爪を地面に食い込ませて、赤子のずりばいのように前に進んでいく。口からは血の混じった涎が滴り落ちている。
獣とも呼べない、別の生き物だった。
「あいつらを路地裏に追い詰めて刻んで刻んでグチャグチャにしてやった。謝っても謝っても許さない。許すわけないだろ。けどまだ終わりじゃない。俺を笑った奴ら全員刻んでやる。刻んで刻んで死ぬギリギリまで刻んで、でも殺さない。簡単に死なせるなんて生ぬるい。治療させて、また刻んでやる。生きていることを後悔して自殺するまで追い込んでやる。俺はまだ捕まらない」
血と胃液と共に呪詛が滴る。
本来この男が扱える力を振り切って肉体の方が悲鳴をあげている。こいつは気付いているのだろうか、赤黒く染まった皮膚が前に進む度にボロボロと剥がれ落ちているのに。
「ちょっと……薬が切れたら死ぬんじゃないのコイツ」
ミカエルが呟いた時、視界の端に白いものが映った。
白い法衣だと気づいて瞠目する。
シナトがナキとミカエルの間をすり抜けて、青年の前に屈むところだった。
弱っているとはいえ、この至近距離なら青年が腕を振り回せば 簡単にシナトの身体は貫かれるだろう。特殊な目などなくともこの青年が今、恨み辛みだけを原動力に身体を動かしているのだということは分かる。命を燃焼させて鮮烈に輝いているのだ。
(気味の悪い目を持ってるんだから、それくらいわかるでしょう!)
離れろと怒鳴るより一瞬早く、シナトが青年の手の上に自分のそれを重ねた。
……カサ、カサカサカサ。
と、音が聞こえるようだ。ミカエルのこの世で一番嫌いな茶色くて油光りするあの虫のようなおぞましい動きで、青年の腕から赤黒い血がシナトの手の甲に移動した。
蒼い瞳の聖職者は顔色一つ変えなかった。猫か何かがすり寄ってきた時みたいに少し目許を和らげただけだ。
「私もさっき貴方の顔面を蹴りました」
「何……?」
青年が顔を上げた。充血した目がシナトを射殺すように見た。
「復讐なら手始めに私を刻んだらどうだろうか。刻み終わったら、それで一端休憩。これから他の連中を刻みにいってたら多分一人目を襲う前に貴方は死ぬ」
「俺は死なない」
「死ぬ。絶対に。本来貴方の身体の中にはない力、薬によって得た力が貴方の肉体を傷付けているから」
「……」
「さっき私に蹴られた時、目茶苦茶痛かったと思うけど、それは靴底にチタンプレートを入れているから。鼻骨も折ったし、まぁ流石にそれで殺されるのは勘弁だけど、ちょっと刻むくらいならいい。どうしますか」
「……」
血走った眼差しが聖職者の真意をはかろうとしていた。鋭い爪が白い頬に触れる。あとほんの少し力を入れれば食い込む。そのまま手を少し動かせば一生消えない傷が出来上がるだろう。
「お前も俺を馬鹿にするのか!?出来ないと思ってるんだろ!!」
シナトの眼差しはしんと冷えて、落ち着いている。相手の皮膚も骨も血も何もかもすり抜け、心の奥底を見据えている。
「まぁ正直、出来ないと思ってる」
シナトが言った。
「何だと……!?」
「私は人を見る目がある。いじめっ子に復讐する時は薬を飲んで闇討ち、少女を襲う時は背後から。そんな男が私の顔に傷が付けられると言うならやってみろ」
「……!!」
青年の顔が屈辱に染まった。
シナトは視線をそらさない。
……思っていたより、暑苦しい女なのかもしれない。
冷えた眼差しと冷静な態度の裏に生来の強情さが見え隠れしている。
ミカエルはシナトという人間に抱いていたイメージをやや修正する。
「……俺は捕まるのか」
結局、青年はシナトの身体を傷付けることはせず、別のことを言った。
問い掛けられてシナトは瞬いた。まるで度の合わない眼鏡を外した直後のように、眉根を寄せて数回瞬きを繰り返した後、ようやく青年と視線が出会ったように見えた。
「しない方向?……まぁ、そういうことになるでしょうね」
だらりと腕を下げた青年の瞳からは急速に熱が失われていくのが分かった。ぽっかり穴の空いたような目でシナトを見ている。
「……俺が助けを求めても何もしてくれなかったくせに、俺が罪を犯せばすぐに捕まえにくるんだな、お前達は。おかしいよ、そんな法律」
「昨日の一件は正当な復讐だっていう言い分かもしれないが、ついさっき無関係な女の子襲ったのは明らかな犯罪だ。暴力で人を支配しようとしてたろ」
「それは」
「殺したいくらい嫌いな奴と同じことをするなよ」
「……」
青年が無言になった。しかし次のシナトの言葉にぎょっとすることになる。
「それからこの薬はもう飲まないように。この薬は術力を強化してるんじゃなくて、異形の力を注ぎ込んでるだけだから」
「な……っ」
「何の異形だろうな……爪に毒がある?屍食鬼……いや、他にも色々混ざって闇鍋か……?まぁいずれにしてもこんな生産者の顔も見えない、お客様相談室もない、クーリングオフもききそうにない得体の知れんもんは飲まない方がいい。これから教会に連れていくけど、先に医術師に看てもらいましょう」
「……」
青年が血で穢れたシナトの手の甲を眺め、何か言おうと口を開きかけた。
しかし、結局その言葉は紡がれることなく彼の口の中に止まることになる。
……まるで背中に死神の接吻をうけたように、
冷たく、
重く、
けれど甘美な気配がその場を支配したからだ。
今すぐに頭を垂れて跪きたいという願望が、抗いがたく脳髄を痺れさせる。
「……!」
その願望を瞬時に振り払い、ミカエルは顔を上げて背筋を正した。傍らにいたナキも同様の反応を示す。
二人の視線は同じところを向いていた。
建物の影から姿を現したのは、よく見知った、しかし何度見ても慣れることのない美しい顔だった。
「カサネ様……」
「……」
こちらの呼び掛けに返ってきたのは、静寂だ。一瞬の沈黙。しかし彼はすぐに微笑んだ。
「やあ、ナキ。ミカエル。リリールゥカ」
ミカエルはちらりとナキと視線を交差させた。
カサネは相変わらず神々しいまでの美貌だが、どこか変だ。どこが?表面上はいつもどおり蕩けるような笑顔。昔からいつだってそうだ。
どんな相手を前にしても、腹の底にどんな劇薬を沈めていたとしても、微笑んでみせる人だ。
カサネが白い法衣を纏った後ろ姿に声をかける。
「遅くなってすみません、シナトさん」
……シナトの目の前では青年が頭を地面に擦り付けている。見えない力に押さえ付けられているかのように。リリールゥカが少し離れた場所で身を固くさせているのが見えた。
シナトが振り返る。
「いや……、結構前からその辺にいただろう。何を盗み聞きしてたんだ」
「盗み聞きなんて……。ただ浸ってたんですよ。貴女が俺の仲間が楽しくお喋りしてるなんて、俺にとっては感動の光景ですからね」
「何が感動……」
「それに可愛かったですよ。敬語が苦手な貴女が仕事中は頑張ろうとしてるんだけど、時々忘れちゃう感じとか」
「うるさいな。いや、まぁいい。とりあえず私はこの青年を教会に連れて行く。あと教主の所へ報告も行くから、カサネは……」
「彼が教会へ行けばいいんですね?」
地面に這いつくばったままの青年をカサネは睥睨する。碧色の視線が未だ重なったままの二人の手に落ちた。
突然カサネが青年の腕を掴んで引っ張りあげ、その耳元に唇を寄せた。そして厳かに命じる。
「教会に行って、自分の罪を懺悔しておいで」
ビクリと青年の身体が一度跳ねた。
一瞬の静寂の後、カサネは青年の腕を離す。離す直前、もう一度囁く。
「嫌いな奴と同じじゃ駄目だ。嫌いな奴よりもっと酷いことが出来なければ勝てない。……ね?」
「……」
青年はぼんやりとした表情で頷き、ぎこちなく歩き出した。糸で操られたマリオネットを思わせる動きで、怪我だらけの身体を労る様子もない。
「いやいやいや……」
「仕事は終わりですか?」
「いや、あちらさん怪我しているから」
「心配ないですよ、シナトさん。あれぐらいじゃ死にませんよ。貴女がいいところで止めてしまったから」
「おい……」
「なんてね?大丈夫ですよ、すぐ近くに貴女のお父様の部下が待機してますから」
「……」
「後の事は任せましょう。報告の必要もない。今回の件は貴女のお父様も色々根回ししてますからね。貴女なら気付いたでしょうけど」
「……」
頬に触れようと伸びてくる手からシナトは顔を背けて逃れる。
……どんなに必死にそらそうとしてもどうしても視線が吸い込まれてしまう。そんな美貌の主を前に平然としているシナトを、ミカエルは信じられない思いで見ていた。不感症としか思えない。
シナトが口を開く。
「カサネが復讐の為にヴァンクリフ一級神官を利用することも、教主と取引して悪巧みすることも、私は一向に構わんと思っている」
「そうでしょうね」
「けど一般市民に妙な薬をばらまいてるとなると話は別だ。放っておけない」
「あれ、俺が疑われてます?……あれをばらまいてるのはヴァンクリフ一級神官ですよ。俺は貴女のお父様から頼まれて内情をさぐってるんです。それにね、シナトさん」
ふわりとカサネは蠱惑的な微笑みを浮かべた。
「ヴァンクリフ一級神官にも別に酷いことは何もしてしませんよ。話を聞いて……優しくして……丁寧に扱っているつもりです」
「……」
「妬ける?」
「むしろ冷えてる」
「おかしいな?……おっと、どこへ行くんですか?ヴァンクリフ一級神官の所はダメですよ。こちらにも色々段取りがありますからね」
ピタリ、とシナトが身体の動きを止めた。やや、不自然に。
「……なぁ、カサネ」
「はい」
「さっきから…私はどういう理由で怒られてるんだ。見当もつかない……訳ではないが、私にも言い分はある」
「貴女は今、俺に怒られてるんですか?」
「何か……そういう感情がこっちに向いてると思う」
「怒り?なるほど……そういう解釈ですか」
得心のいった表情になって、カサネは「ナキ」と友人の名を呼んだ。
「何だ」
「先に戻ってくれないか。俺もすぐ追いかける」
「……分かった」
「ミカもリリーも、後でね」
「は、はい」
それだけで腰が砕けそうな微笑みを送られて、ミカエルとしては頷くしかない。
去り際、ちらりと後ろを振り返ると、シナトが未知の食べ物を食べた時のような顔で佇んでいたのが見えた。
カサネは後ろを向いていて、その表情は窺い知ることはできなかった。