第8話《side:シナト》
青年の口元を覆うのは氷ではなく血だった。
先程の鼻血に加えて、どうやら地面に顔を打ち付けて氷を割ったらしい。更に出血していた。
(首の拘束はどうやってはずしたかな……)
普通の青年にシナトの拘束は解けないはずである。
地面に縫い付けられていたはずの青年は顔を真っ赤に染めて立ち上がりこちらを睨んでいた。
シナトもじっと青年を見つめ返す。表情や肉体でなく、その中身、術力の流れを見きわめようと目を凝らす。
(染まってる……いや、というよりは侵食されてる感じか?)
彼の本来持っている術力はそれほど大きくはない……聖職者になれるかどうかは微妙な所だろう、ただ彼の術力がどんどん侵食されて別の力に塗り変えられている。だからそれほど大きい力ではないけれど、濃い。どす黒い力……。今日見たのはこれで何回目だろう。
『術力を強化する薬』
『人智を越えた力が手に入る』
彼もまたそんな謳い文句に心引かれたのだろうか。
……リリールゥカを襲う前に服用していたのかもしれない。
シナトはポケットから例の錠剤を取り出して青年へ向けて掲げて見せた。
「コレ飲んでますか」
充血した目がドロリと溶けたように歪んだ。ああ……笑ったのか、と理解するまでに一呼吸必要だった。
「何だ、それ持ってるってことはお前もお仲間か?」
「違うでしょうね」
淡々と否定する。途端、相手の悪意や敵意といった感情が煮詰められたように濃くなったのが分かった。青年が両手に巻かれていた包帯を外す。
シナトは目を細めた。
手首を幾重にも走るのはリストカットの痕か。
青年は何事かをブツブツ呟きながら、両手の爪を自身の顔面に突き立てて、そして掻きむしった。
「いや、痛いな……」
思わず呟いてしまった。
青年の手が赤黒く染まっていく。
いや、染まっていくのではない。覆われていく。両手だけにとどまらず肩まで赤黒く覆われ、やがてそれは硬質で醜悪な籠手になった。
ただの鎧ではないと知れるのは爪の部分が異様に長く鋭いからだ。まるで獣の爪…そう思った時、点と点が線で繋がる感覚があった。青年に確認する。
「昨夜の通り魔?」
「ああ、それを調査してたのか。はは、じゃあ良かったな、聖職者。そうだ、あいつらを襲ったのは俺だ」
血だらけの顔の下、青年が頬を歪ませた。
「いつもいつもいつもいつもいつもいつも俺を馬鹿にしてた癖にあいつら!!さんざん玩具にしてた俺にさぁ土下座してたんだ!!助けてくれって!!」
「怨恨。なるほど」
どうしたもんかなとシナトが考えていると、隣から声がかかった。
「生ぬるいことしてんじゃないわよ」
ミカエルとナキが進み出て、青年の前に立ちふさがった。
「あんた弱いんでしょ」
赤毛の美女の燃えたぎるような言葉。触れれば火傷ではすまない温度でシナトに向かってくる。
「親の七光りがなきゃ本来四級神官にもなれない術力。カサネ様には相応しくない。下がってなさい」
「……」
袖が引っ張られて、シナトは振り返った。リリールゥカが法衣の袖を握り締めて一つしかない大きな瞳でこちらを見上げていた。
「こっち」
ぐいぐい引っ張られてシナトは路地裏に身をひそめた。リリールゥカか遠慮がちに声をかけてくる。
「あの、ミカは言葉は強いけど、本当はすごく」
「ああ、平気です。危ないから下がってろってことでしょう」
シナトが平然としているのを見て、少女はほっとしたようだ。
「そういうのも見えるの?」
「悪意の乗った言葉かどうかは見えます。彼……彼女?の言葉は燃えているけれど、傷つける為の炎ではない。あの二人が強いのも分かります。どちらかというと心配すべきはあちらだろうな……」
シナトの視界の中で、血だらけの青年は手に入れた力に酔いしれているのか、ところ構わず殴りかかっていた。赤黒く染まり強化された腕で殴られれば少なくないダメージを被るだろうが、当たればの話だ。
青年の身体の動かし方は目茶苦茶で、その大振りの動きのせいで体力は一気に底をつきそうだが、目玉だけは爛々と輝き自分の疲労に気付いていないようであった。
青年から距離をとっていたナキが洗練された野性動物みたいに動いた。武器も何も持っていないが彼には必要がないのだろう。
研ぎ澄まされている。
彼自身がどんな武器にも勝る。
白銀に輝く、
(狼だ)
ナキは瞬き一つの間に間合いを詰めてしまうと、迫り来る大雑把な攻撃をかわして相手の懐に入りこみ、強烈な拳を腹に叩き込んだ。青年の身体がくの字に折れ曲がり、口から血と胃液が溢れた。
「痛い。彼、術力使ってないな。普通に喧嘩が強い」
シナトが端的に感想を口にする。
「うん。ナキ君はすごく強い。いつも皆を守ってくれる」
「頼りになる」
「うん」
「あー、しかし私が市民に守られてボーッとしてるのは不味い気がするな……」
「ふふ」
リリールゥカは少し笑ったようだ。
余程やる気がないように見えたのだろうか。確かにやる気があるとは言いがたいが。
「貰ってる給料分は働かないと……」
とはいえ今うろちょろしても邪魔になるだけだろう。
眼前の光景から目を離さないままシナトはぽつりと呟いた。
「術力は本来肉体を傷つけない」
「え?」
リリールゥカが眉をひそめてシナトを見た。
「あの爪で引っ掛かれたら、ナキ君もミカもきっと怪我をするよ。傷付くよ」
「そう。それはどうしてかといえば、術力と術力は反発するから。つまり他者から攻撃を受けると自分の力が過剰に反応して自分の肉体を傷付ける」
説明する舌先は動かし続けながらシナトは青年を観察する。
彼はいまだどす黒い力に蝕まれている。その顔面から滴り落ちた血液はカサカサと生き物のように地面を這い回り青年の足に絡み付いた。
青年がミカエルに向かって一歩踏み出すとピシッと石畳が割れる音が響いた。
ミカエルは動かない。何もしていないように見えるが、本当は彼女…彼の周りでは目まぐるしく術力が動いている。術力を動かしているのはミカエルの指先だ。
周囲一帯に美しいレースが編まれている。
……蜘蛛の巣だ。
「術力はどこから生まれるか知ってますか」
「核……?」
「そう。核は胸の中心くらいの位置にある術力を生み出す器官。小さな……ビー玉くらいの大きさ。つまり、ここだけ攻撃すれば肉体を大きく傷付けることなく術力の供給を止められる。術者や異形を相手する場合、この核を壊して捕らえること望ましい。力がぶつかり合って周囲へ被害が及ぶこともないし、相手を無力化して拘束できる」
「それは……」
「ん?」
「核を壊すなんてできるはずないよ。小さい場所だもの。そこを戦闘の最中に正確に破壊できる訳ない」
シナトの視線の先でミカエルに襲い掛かろうとしていた青年の動きが止まった。止まらざるえない。彼の身体中に蜘蛛の巣が絡まっている。
「終わったみたい」
「……」
リリールゥカが呟いたが、シナトは青年から視線を外さないまま、じっと見つめていた。