第30話《side:リリールゥカ》
落下していたシナトがミカエルの張った蜘蛛の糸に手を伸ばし、しっかりと掴んだ。術力と妖力が反発してバチバチッと光が弾けたが、シナトは気に止める様子もない。落下の勢いがおさまるとパッと手を離し、静かに地上に降り立った。
リリールゥカもナキの背中に乗せてもらい地上に下りてきた。……ナキの前足の爪にはヴァンクリフが引っ掛かっている。リリールゥカの魔眼を見た彼は眼を見開いたまま身体を硬直させていた。
勿論生きている。彼の身体にはまだ水の一族の清らかな術力も残っているようだから、しばらくすれば魔眼の力も浄化されてしまうだろう。
ナキが足を払い、ヴァンクリフの身体を地面に放り投げた。その横たわる身体にたちまち蜘蛛の糸が巻き付き、彼はぐるぐる巻きになってしまう。それでもギョロギョロと目玉だけを動かし、シナトを見つけると憎悪を込めて睨み付けた。
視線を受けて、シナトは一瞬だけ痛みをこらえるように眉根を寄せたが、すぐに顔から感情を消して前を見据えた。
「魂の状態が悪い」
ぽつりとシナトが言った。ヴァンクリフは『あ、あ、あ……』と掠れた声を搾り出しながら多分シナトを呪っていた。
「組織の人間に異形の遺伝子を入れられたんだ。遠隔で操った鴉を使ってね」
カサネが悪意の眼差しを遮るようにシナトの前に立った。
「何か変なものでも食べたのかと思ったら異形か」
「不味そうだよねぇ」
「うん」
「俺は多分美味しいよ。食べてみます?」
すっとカサネが指先をシナトに差し出す。シナトは動揺するでも、恥ずかしがるでもなく、怒ることもなく、淡々とした態度で首を振った。
「食べない」
「公衆の面前だから?」
「私が平凡な感性の持ち主だから」
「残念。非日常が体験したくなったら、いつでも声かけて」
「あ、お気持ちだけで」
「ふふ」
カサネが微笑む。何と言うか……日頃のシナトの苦労が偲ばれる会話だった。
正直、ちょっとびっくりした。
あのカサネ様がじゃれて……甘えている。そんな風に見えた。そしてシナトは淡々とそれを受け止めている。
「今の彼の状態は、貴女にはどう視えてる?」
「一級神官の魂にくっついている異形が彼の本来持つ術力に当てられてどんどん衰弱していて……何とか回復しようと手当たり次第に回りをつついて養分を奪ってる……という感じかな。なので異形を浄化するのがいいと思うけど」
「それは彼を助けるということかな」
カサネの問いかけ。それを聞いた瞬間、批判的な感情が沸き上がったことをリリールゥカは否定できない。
シナトがカサネを見る。
「助けるんじゃなくて、裁判を受けさせたい。死体では償えないから。でもそれでは手緩い?」
「手緩いわよ」
答えたのはミカエルだ。
「こいつは根っからの悪人よ。何の罪もない子供を組織に売り飛ばし、市中に得体の知れない薬をばらまいた。調べれば他にもボロボロ余罪が出てくるわよ、どうせ」
カサネが指をパチンと鳴らすとヴァンクリフの口を塞いでいた蜘蛛の巣が燃えた。
「何が悪い!!」
途端にヴァンクリフが怒鳴った。魔眼の効力は消えたらしい。
「何で燃やした?」
訝しげなシナトの問いにカサネは短く答える。
「面白い言い分がありそうだったから」
「へぇ」
「何が悪い‼生まれの卑しい者共を利用して何が悪い⁉どうせ何かしらの罪を犯しているか、今は犯していなくともいずれやるような連中だろう!!どちらにしろ我々聖職者に捕まる運命だ。それを私が有効に使ってやると言っている!!」
ヴァンクリフの表面化する感情は極めて不安定で、発言は幼稚なものになっていた。カサネの暗示、組織の支配、彼の願望が織り混ぜられていた。
「ね?面白い」
「いや、不快だろ」
「ふふ、ねぇシナトさん。彼は人間などではない。害虫だ。放っておけば害になる虫を殺すことが、どうして罪になるんだろうね。何故罪悪感など抱かねばならないんだろう。そうでしょう?」
冷たい声でカサネが言った。
「……」
「あ、ところでシナトさん」
「何」
「もし俺達が彼を殺したら、貴女はどうするんですか?俺達を捕まえる?」
その質問にナキとミカエルとリリールゥカもシナトに視線を向けた。
「殺人を犯した人間を捕まえるのも聖職者の仕事ですもんね?でもそれってとても不条理だとは思いませんか?悪人を裁いて罪に問われるだなんて」
「そうだな」
「人を裁くのは法だ、私刑は許されない……なんて、そんな綺麗な言葉を俺達に与えてくれる?貴女は……綺麗な人だから」
「そんな展開にはさせない」
「俺が一級神官を殺すのを貴女が止めるから?」
「そう」
「ふふ。それは何故?何故彼を殺してはいけない?納得させてほしいな」
「理由は幾つかあるけど、一番の理由は目撃者がいること。それも複数人」
目撃者。
そう言われて、リリールゥカは辺りを見回した。広い屋敷は主の終焉を悟っているかのように、しんと静まり返っていた。静かすぎるほどだ。この騒動に使用人が一人も姿を見せない。
シナトが言葉を紡ぐ。
「カサネにまとわりつく黒い執着の帯は多分組織の人間がこの場を観察しているということ。それから我々を監視している視線、気配、これは教会の人間だろう。これだけの人間に見られているんだから、今犯罪を犯すのはお薦めしない 。一級神官が所謂クズであったとしても、殺せば犯罪者。教会に追われる立場になる。それは彼の価値に対してカサネ達に発生する損害が大きすぎるのではないかと思う」
「んー……ねぇ、シナトさん。俺は今、善とか悪とかの話をされてますか?」
「いや、カサネとカサネの大切な仲間の利益になる行動とは何かを考えてるつもりだけど。やっぱり犯罪は、特に殺人はリスクが高いだけでメリットは薄いと思う。利益ではなく感情の問題だと言われたら、私には反論できないけど。私は当事者ではないから。でも、やっぱり」
シナトは周囲を見渡した。
不思議な視線の動かし方だった。まるで空中に文字が書いてあって、それを読み込んでいるかのようだった。
「今、カサネ達を見ている人達は一級神官を殺せと願っている。思惑は色々あって、心に罪悪感だとか絶望だとかを植え付けたいと思っていたり、罪を犯せば捕まえる理由ができると考えていたり、色々だけど。あなた方の不利益を祈ってる人達の思惑通りに動かないでほしいって、私は思っている」
「……」
黙り込んだカサネをナキとミカエルはただ見守っている。カサネの判断に委ねるつもりなのだろう。
「そうですね……。じゃあどうしようかな。俺達の最大の利益はね、復讐が果たされることだよ。彼を無罪放免にはできない」
「聖職者は大きな権限を持つが故に、犯罪を犯した場合は一般人よりも重く罰せられる。一級神官の罪が公になれば、彼は重い罰を受けるはずだ」
「……」
カサネが口を開きかけた時、笑い声が聞こえた。
それは嘲笑から哄笑へと変わっていく。
「何?とうとうぶっ壊れたのかしら」
誰だと疑問に思うまでもない、笑い声の主はヴァンクリフ一級神官だった。
「小娘。お前は教会というものがまるで分かっていない」
「……」
シナトがヴァンクリフを見遣った。
「どういうことでしょう」
「こういうことだ」
ヴァンクリフが顎をしゃくった。
(いつの間に……)
リリールゥカは息を飲む。気付かなかったのは自分だけだろうか。知らぬ間にリリールゥカ達は法衣を纏った十数人の聖職者に取り囲まれていた。彼等は皆フードを目深に被り、表情は確認できなかった。それでも重厚で、冷淡な雰囲気に気圧される。
ヴァンクリフの仲間だろうかと考えたが、ヴァンクリフ自身の発言によってそれはすぐに否定された。
「教主の親衛隊の皆様、御足労いただき恐縮です」
教主の親衛隊ならばヴァンクリフとは敵対関係にあるはずだ。しかし彼は媚びた笑顔を親衛隊に向けている。
「ヴァンクリフ一級神官の身柄は、我々が預かる」
親衛隊の一人が言った。顔は見えないが、声は若い。自負心が滲んだ声音だった。
シナトが眉をひそめる。
「預かる、ですか?」
「そうだ」
「彼の犯した罪について報告があります。また彼が属していた組織に妹を人質にとられている少年がいます。教主に話をさせてください」
「その必要はない」
「いや、あるんだが」
「ない。ヴァンクリフ一級神官は失脚し、その行動は一生監視される。もう彼がその組織とやらに荷担することはない。この屋敷にいた違法な薬物を使用していた者達についても制圧は完了している」
「何ですって……?」
空気が怒りに震えた。発信源はミカエルだ。
「このクズは罪に問われないということかしら?」
「彼は教会の一級神官だ。在職中に重犯罪に手を染めていたなど、教会の威信に関わる大問題だ。一介の神官の不祥事ではすまされない」
「だから何。無かったことにするって訳」
「……」
ミカエルが殺気立ち、ナキは無言でリリールゥカの前に立った。
……ここは、神様が用意した運命の分かれ道だろうか。ここで何が起こるか、それによって自分達の未来の大筋が決まる。リリールゥカにはそんな風に感じられた。
見えないコップに水がギリギリまで注がれている。何かの切っ掛けがあれば一気に溢れてしまう……。
しかし聖職者達は一級神官を捕縛すると言いながらなかなか動かない。
(ミカ達を警戒してる……?違う、待ってる?)
水が溢れるのを?何故だろう。そう考えた時、先程のシナトの台詞が脳裏によぎった。
『罪を犯せば捕まえる理由ができると考えていたり』
つまり教会は自分達が歯向かってくるのを待っている……?結局教主はカサネのことを不穏分子だと判断したということだろうか。
その時。
バサッ、と。
羽音が聞こえた。
同時に闇が一滴、落ちてきた。
違う。鴉だ。一羽の鴉が舞い降りて、ヴァンクリフの肩にとまった。
鴉。
組織の。
リリールゥカの心臓が、悪い予感にドキリと跳ねる。
パキパキパキ……という音に導かれて視線を向けると、ヴァンクリフの首元近くにある地面から氷の柱が伸びている所だった。鋭く尖った切っ先が美しく光っている。
ヴァンクリフはカサネを見ていた。世界に自分とカサネ、二人だけしかいないような顔をしていた。
「ああ、懺悔します……私は彼らの姿を見た時、浅ましくも命が助かることを期待しました。しかし私は何と幸せなんだろう……こうして罪を償い、何よりも貴方に私の愛を捧げる姿を見ていただける……」
ヴァンクリフは蜘蛛の糸で幾重にも巻かれ地面に転がされるという滑稽な姿で、ほぅ……と息をついた。
それは醜悪で、憐れで、しかしリリールゥカはその宗教画のような表情から目が離せなかった。
その幸福な横顔をうらやましいとすら思ってしまった。ミカエルやナキ、教主の親衛隊という人達でさえ、そう思ってしまったのではないか。
誰も動かなかった。
このまま何もしなければ、一級神官は自らの意思で喉に氷を突き刺すだろう。自分達が教会に歯向かう必要はなく、手を汚すこともない。
自分達の望みは叶う。
(でも)
(駄目だよ)
リリールゥカ自身が、何度も言っていたことではないのか。
(カサネ様は、とても優しい人なのに)
もうこれ以上、この優しい人に重荷を背負わせてはいけないのに。
何も捧げさせてはいけない。
その瞬間、リリールゥカは唐突に理解した。
これは神様の用意した運命なんかじゃない。
組織のお膳立てした実験場だ。
「駄目!!」
手を伸ばした時、シュボッという音がした。
刹那。
爆発音。それに氷の割れる音が重なる。たちまち白煙が周囲を包み、やがて煙が晴れた時リリールゥカが目撃したのは、氷のナイフで胸を貫かれたヴァンクリフの姿だった。




