第27話《side:シナト》
白金の柔らかい毛が鼻を擽っている。黒い靄に拘束されているので掻くことができないのが地味に辛い。カサネに退いてくれというのも何だか憚られる空気である。
堪えるか……と思っているとカサネの身体が動いた。頸動脈の辺りに鼻を押し当てられた。
「……?」
じっとしていると今度は頬を舐められた。ザラザラとした狐の舌。カサネを見ると彼もまた未だ靄にまとわりつかれているが、シナトと違って比較的自由に動けている。何か考え事をしているのか先程から無言が続いているが、こちらを見下ろす碧眼は澄んでいた。
されるがままになっていると、耳元で囁き声が聞こえてくる。
「何考えてるんです?」
「いや、ボーとしてた」
「抵抗して。興奮するから」
「……」
ペロリと首筋を舐められた。
「止めてって言って逃げ出してみて。逃げ道全部潰して、追い詰めて捕まえたい」
「色々ヤバイな。知ってたけど」
「そうだね。でも俺がおかしくなってるのは全部貴女のせいだよ。責任とってね」
どこかいつもと声の響きが違う。流石のカサネでも声に酒精を含ませることはできないと思うが、聞いているだけでクラクラする。酔う。
「……」
それからしばらく横たわっていたシナトだったが、頬に触れる鋭い爪の感触が消え失せ、ひやりとした指先を感じた時、声をかけた。
「……そろそろ退いてくれ」
首筋にかかる毛は獣のものではなく、人の髪の毛である。
カサネが身体を起こし、そこだけは変わらない、紺碧の瞳と視線が交わった。
「うーん」
カサネが唸る。
「何だ?」
「意外と貴女は色々緩いから、いけるかなーと思うんだけど、結局毎回いけないなーと思って」
「緩くないわ。失礼なこと言うな。……というかカサネは今、素っ裸なのか」
「なぜ?」
「いや……ナキさんは服がないから人の姿に戻れないと言っていたから」
「ああ、俺はちゃんと服は着てますよ。ナキは変身だけど、俺は変化の術ですから」
「……なるほど?」
納得できるような、できないような。
「ねぇ、シナトさん」
「なに」
「舌出して?」
「何でだ」
「噛むから」
「何でだ、やだよ」
「どうして?さっきさんざんキスしたけど嫌がらなかったでしょう」
「してない。さっきは狐に舐められただけだ」
「貴女は俺を家族だと思ってるんでしょう?でも俺は貴女を家族だと思ったことは一度もないですよ」
「……」
「もっと汚い感情で貴女を見てる。ずっと」
サアァァァと靄がカサネの周りから引いていく、シナトを拘束していた分も巻き込んで。
それは一枚の布のようになって、カサネとシナトをくるんだ。
「お願い、シナトさん。貴女は誰でも受け入れる人だから不安なんです。俺だけが付けられる場所に傷をつけたい」
「……」
カサネの指が唇に触れた。親指と人指し指にふにふにと揉まれ、爪で優しくなぞられる。
「そのまま」
顔が近付いてくる。シナトの目を見つめながら。
「……」
シナトもカサネの目を見ていた。
「……っ!?」
「痛った……」
ゴツッ!!という鈍い音と同時に、瞼の裏に星が瞬いた。その理由は誰より自分が知っている。自分が渾身の力でカサネの額に頭突きを食らわせたからだ。
額から鼻筋に向かって何かがたらりと流れる気配。乱暴に拭うと、白い法衣の袖が赤く染まった。
カサネといえば額が赤くなっている程度だ。この石頭め。
「……えーと?」
「誰にも付けられない場所に傷を付けたいんだろ。いまだかつてデコから流血したことなんかないわ。昔落石が当たったのは側頭部だった」
「えー……」
「今はこれで勘弁してくれ」
「今は。ということは、そのうち舌を噛むのも、首輪をつけるのも、おへそを舌先でグリグリ舐めるのも、オーケーってことですか?」
「要求が増えてる!変質的なのが!」
「貴女が知らないだけで一般的ですよ。まぁ……今日はこれで許してあげますよ」
カサネが額にキスを落とし、それから舌で血を舐めとった。
「……なぁ、カサネ」
「なんですか?」
「いや、まぁいいや。そろそろ出してくれ」
「ん?」
「ここ、ヴァンクリフ一級神官の 作った空間じゃないだろ」
「ん?」
「一級神官の作った空間に、誰が干渉して、拡張して、複雑な作りにしてる。誰かっていうかカサネだけど」
「はは」
白々しい笑い声が返ってくる。
「ナキ達に任せておけば何とかなりますよ。もうちょっと、ここにいません?」
「……」
シナトは無言で法衣の懐からライターを取り出した。何の変鉄もないライター。
「あ。そんな乱暴な」
「巻き込まれるなよ」
しゅっ、とささやかな炎が揺れたと思うと、周囲は白い爆発に包まれた。




