第26話《side:カサネ》
(誰だったろう)
昔、誰かが話していた。
組織から逃げ出し、あてもなくさ迷っていた頃。追っ手に見付かるかもしれない恐怖と寒さと空腹を抱えて、長い長い夜を過ごさねばならなかった。
そんな時は誰かがポツポツと話すのだ。組織に売られる前の話や、子供の頃読み聞かせてもらった物語なんかを。
その時は、誰だったかな……。やっぱり思い出せないけれど、その時の話は強く心に残っている。昔、寝る前に母親が読んでくれたんだという導入から始まった、異国の物語である。
……ある美しい女のもとへ幾人もの求婚者が押し掛けてくる。女は彼らに無理難題を吹っ掛ける。求婚者は女の心を手に入れる為願いを叶えようとするが……結局誰も女の心を手に入れることはなかった。
実は女は月の住人で、いずれ迎えが来て月に帰らねばならない。
育て親の翁は女を守るため厳重な警備を敷くが、天人には弓も当たらず、刀も届かない。
……願いむなしく女は月に帰ることになってしまう。
別れの時、女は地上での暮らしを名残惜しみ涙をこぼすが、天人に天の羽衣を着せられると翁を気の毒だ、不憫だと思っていたことも心から消えてしまい、天上に昇っていく……。
その話を聞いた時からずっと、カサネはその天の羽衣とやらが恐ろしい。これを着た人間は思い悩むことがなくなってしまうという。
(心を失った女はさぞ美しいことだろう)
そしてなんと恐ろしいのだろう。
自分はどうだ?復讐という目的を遂行するため、どんどん異形の力を解放している。どんどん人の心を失っている。
いつか自分は仲間との思い出も、彼女と過ごした時間も忘れてしまうんじゃないか?
そうして自分はいつか組織の言うように更なる力を求めてあの人を手にかけてしまうのだろうか。
……彼女を遠ざけねばならないと思う。組織の悪意から。何よりも自分から。
そう強く思う半面、同時に自分がいなくなった時、誰が、一体誰が、彼女の隣に、
(駄目だ)
まるで子供の癇癪のように、我慢がならない。
彼女を遠ざけねばならないと思うのに、彼女の隣に立つのが自分ではないと考えただけで血液が沸騰しそうになる。
彼女が自分ではない誰かの手を取り、微笑みかけたら……?
(その時、俺はどうするんだろう)
(俺は)
(あの人を)
彼女の左手の薬指が目に入る。
誰もそこに指輪をはめられないように、食い千切ってやろうか。
「カサネ」
「ねぇ、シナトさん」
お互い同時に名前を呼んだ。シナトが声音に苦笑を滲ませた。
「普通に喋れるのか……」
「え?何ですか?」
「さっき私が呼びかけた時、無視したろ」
「したかな」
「したな。まぁ、いいや。何だ?」
「はい、えーと。何だったかな……」
シナトもまた黒い靄のようなものに身体を包まれていた。背後から抱き締められているような格好だ。動けないのだろうが、そもそも抵抗しようともしていなかったのが彼女らしく、靄を背もたれにして、ゆったりと身体を預けていた。
いまいち緊張感のない態度にカサネは困った気分になる。頬が緩んでしまいそうになる。
この人は……愛想がなくて、冷たい眼をしているくせに。プライドが高そうで短気に見えるくせに、本当はとても気が長くて……優しい。
呑気さにつられて、一緒にいて自然と笑ってしまって、居心地がいいなんて。駄目なのにな。
「困ったな」
「困ったな?」
「シナトさんが俺の事、嫌いになってくれると助かるんですけど……」
「いや、だからならないって」
「貴女がね、俺を『嫌い』って、『怖い』って一瞬でも思ったら、それを貴女の瞳の中に見つけることができたら、そうしたら俺はそれを言い訳にして貴女から離れられるのに」
「何だそれは。私の事が嫌いなら、言い訳なんか探さなくても離れればいいだろう」
「ふふ」
随分簡単に言ってくれる。
「本当は貴女を俺の問題に巻き込むべきじゃない。離れるべきだと分かっていても、もうどうしたって俺からは手を離してあげられないんですよ。それについては、全面的に貴女が悪いんだけど」
一緒にいることで、いつか傷付けるかもしれないのに。居心地のいい、この人が悪い。
「だから貴女から逃げてください。最後のチャンスですよ。今だって貴女をどうやって俺に縛り付けようかって、そんな事ばかり考えてるんです」
「どうやって」
「そうですね。依存させる方法で一番手っ取り早いのは、一緒に罪を犯すことでしょうね。共犯者というのはとても強い結び付きです。俺やナキやミカエルなんかはそういう絆がありますよ」
「それだけの絆じゃないだろ」
「そうだなぁ……手始めにヴァンクリフ一級神官を始末するのを手伝ってもらえませんか?一緒に心臓を抉り出して組織に送りつけたら、きっと今より深く繋がれますよ、俺達」
シナトから溜め息の気配。
「貴女にはできないかな?清廉な人だから。では俺を断罪するのはどうです?俺はこれからも罪を重ね、色んな人を不幸にしていくだろうから、聖職者として俺を追及するっていうのは?そういう展開も燃えますよね」
「私は共犯者にも、断罪者にもならないよ、カサネ」
「ならいっそ貴女もその他大勢のように俺に全てを捧げてくれますか?そうしたら俺はつまらなくなって、貴女を捨ててあげられるかもしれない」
「……」
溜め息さえない、沈黙。
流石に怒ってくれただろうか。
俺が何をしても、どんな人間でも、この人は心からは怒らないんじゃないか。俺のせいでどんな目にあっても許してしまうんじゃないか。
心のどこかでそんな風にも思いながら。
逃げて出して欲しくて、
逃げないで欲しい。
ゆっくり近付いて、シナトの身体を押し倒す。自分の身体はまだ狐の姿のままだ。爪を彼女の白い法衣に食い込ませ、耳を舐めながら尋ねた。
「貴女も俺に全部捧げてくれる?」
至近距離で、凍った湖を思わせる蒼い瞳がこちらを見ていた。
「カサネ。私はカサネの為には死なない」
「そう」
想定通りの答えがシナトの唇から返ってくる。
次はとうとう愛想が尽きたという温度の台詞が紡がれるのか。紡がれる前に塞いでしまおうか。
しかしカサネがその唇に噛みつく前に、シナトが少し笑って言った。
「でもカサネの為に生きてやる」
「……」
「カサネがこれから悲しいことをしなくてもいいように、誰も犠牲にしなくてもいいように、傍にいるよ。カサネが間違ってると思ったらぶん殴るし。命はあげられないけど、人生はあげてもいい」
カサネは呼吸が止まってしまう。
「貴女は本当に……愚かなんだなぁ……」
「何て言い草だ」
またシナトが笑った。
「ま、そんなに怖がるな」
「怖がる?俺が?」
「うん。何かそんな風に見えた。カサネに関しては摩訶不思議な内面をしていて私にもよく視えないから間違った解釈かもしれないけど」
「へぇ?どう見えてるんですか?」
「そうだな……」
「うん」
「カサネは……光と影、何をどれだけ取り込むかで色が変わる宝石。今はグレーがかった紫。どんな色でも綺麗なんだけど、私は明るい場所で見るのが好きだ。キラキラ光って、太陽より輝く時がある」
「……酷いな、シナトさん」
「ん?」
「それで口説いてる訳じゃないなんてね」
「いや……見たままを言ってるだけだから」
「……」
ため息が出る。
(俺はいつか地獄に落ちなきゃいけないのにな。貴女との思い出を持ってたら、そこは地獄じゃなくなってしまう)
ポスッとシナトの胸に頭を預けるとカサネは目を閉じた。
彼女の心臓の音が心地よかった。




