第23話《side:シナト》
ぐいぐいと毛玉に引っ張られ廊下に出てみると、銀色の細い糸がきらきらと光っているのが見えた。
水銀の色。
辿ろうとシナトが一歩踏み出した時、手を掴まれた。
振り返らなくてもその力強さで誰の手なのか分かる。ミカエルだ。
視力を奪われているので表情は分からないけれど、彼女の心はよく見える。鮮やかに天を焦がす紅蓮の炎は彼女の怒りだ。
……いや。怒っているようだけど、内包する感情はそれだけではない。
「馬鹿じゃないの」
怒っているだけではないが、飛んできた言の葉はやはりトゲトゲしていてシナトの肌を突っついた。
「変なものつまみ食いしてんじゃないわよ」
「ああ……」
シナトは自身の腹部に手を当てて目をつぶる。腹の中に確かに違和感がある。
「まぁ、大丈夫。それなりに人を視てからやってるから。さっきも言ったと思うけど、他者の考えや行動を変えるのはとても難しいことだから本来時間をかけて誠意をもって説得すべきだけど……彼の妹に関してはそんなにのんびりしない方がいい気がした。だからちょっと……荒療治だな。……バレたらまた怒られる」
「教会が動くって本気で思ってるの?」
ミカエルの呆れたような声。
「あの子が組織の情報を話した所で教会は動かないでしょ。あんた心臓食い潰されるわよ」
「教会が動かないなら、ここが終わった後私が行ってくるよ」
「は……」
「心配どうも。それよりこの屋敷の空気が悪くて、そっちの方が大丈夫じゃないな」
「別に心配してないわよ」
「空気?」
リリールゥカが首をかしげた。
「何か……プラスチックゴミをバンバン燃やした黒煙をずっと吸ってるみたい。頭痛くなりそうだし、体力削られてるのを感じる」
「よく分かんないけど、確かにさっきから足が重いような気がするわね」
「カサネの方で何かあったって事だろ」
そう言うナキをシナトはじっと見つめる。なぜかナキは未だに白狼の姿だった。やや硬そうな上毛に覆われた身体は筋肉質だったが、尻尾はフサフサで思わず目を奪われる。
ミカエルがふと気付いて尋ねた。
「あんた元に戻んないの?」
「戻れないだろ」
「何で?」
「服がない」
「あー……その辺のカーテンでも巻き付けときなさいよ」
「断る」
ミカエルとナキの会話を聞きながら、シナトも内心で得心する。
「とにかく急ぐぞ」
その声を合図に先を急ぐが、シナトが今目が見えない。毛玉に誘導されながら他の三人の気配を頼りに進んでいるのだ。あまり速く走れないので先に行ってほしいと声をかけようかと思った時、隣にナキの気配が並んだ。
彼の術力は色で表すと白緑だ。視ていると心が落ち着く。リリールゥカは愛らしい菫色だし、この三人の組み合わせは良い相性だなと思った。
「五年前」
「ん?」
「五年前、組織から一緒に逃げてきた仲間が死んだ。そいつは一番カサネに心酔してた」
「心酔?」
「そいつは組織の追っ手に殺されたけど、ほとんど自殺みたいなもんだった。カサネの目の前で言ったんだ。自分の命をカサネに捧げるって。その言葉を最期に、そいつは殺された」
「……」
「カサネは組織を逃げ出してから九尾の力を使って仲間を守ってきた。けど仲間が目の前で死んで……自分はもう皆とはいられないって言った。自分がここにいれば全部壊れるってな。確かに仲間達はおかしくなりかけていた。組織を倒すためではなく、まるでカサネの為に血の道を引きたがっているみたいだった。もしかしたら俺達は組織から逃げ出せたんじゃなくて、カサネを異形の王にする為に、わざと逃がされたのかもしれない。そう俺は思った。そしてカサネはいなくなった。俺とミカエルも協力した。心酔してた分、逃げたってわめきたてた仲間もいたけど、そうじゃない」
「カサネ様は私達を守るために出ていった……」
リリールゥカが震える声で呟いた。
「そうだ。出ていく時、組織の追っ手を全て自分に引き付けて俺達を逃がした」
「どうしてそのことを仲間に言わないの」
「これ以上あいつに心酔する仲間を増やす訳にはいかない。それならいっそ恨まれた方がマシなんだ」
「……」
「あいつは、自分が仲間を殺したって思ってる。……なあ、アンタにはあいつが救えるか」
「救う?」
問い掛けられて、シナトは考えながら言った。
「本人が救われたがってるなら、いつか救われるかもしれない。けど本人にその気がないなら救われることはないと思う」
「そうか」
「私には傍にいることしかできないな」
「……そうか」
何故かナキは笑ったようだ。
「嘲笑?失笑を禁じ得ない感じ?」
「違う」
ナキが否定する。まぁ、知っていた。彼から伝わる感情にはシナトへの敵意や侮蔑といったものは含まれてはいない。出会った時からずっと。
「ただ急に興味が湧いただけだ。カサネが過ごしたこの五年間に」
穏やかな声だった。
「あいつのことだから誰彼構わず誑かして、家にころがりこんで利用して、でもそつなく別れて……協力者は増やしても誰にも心を開かない……そんな五年間だと勝手に思っていたからな。俺とミカエルは定期的に連絡を取ってはいたが……いちいち聞かなかった。だから正直意外だった、あんたみたいな人が傍にいたのは」
「いや、度々外泊していたから普通に爛れていると思う。カサネの生活は」
「あの、馬鹿……」
その時、バサッ、バサッ、という音が聞こえ、全員がその場で足を止めた。
大きな鳥が空を羽ばたいている音だ。
しかしこれは窓の外から聞こえるのではない。長い廊下の向こうからだ。
「……近付いてくる」
リリールゥカの声に緊張が滲んでいる。
「……」
しかし悪意の針は音の方角ではなく背後から刺さった。
シナトの手の中に氷の小刀が現れ、それを降り上げた時、ガキィィンという音が響いた。シナトの小刀が誰かの太刀を受け止めている。
「ヴァンクリフ……!?」
声を上げたのはミカエルだ。
シナトの眼には黒い案山子のように視えたそれはヴァンクリフ一級神官であったらしい。彼の身体を押し戻し、シナトは後ろへ下がって距離を取る。
「一級神官の遣り方としては、随分こすい手では」
「黙れ小娘!!」
なかなかの剛力だった。手がビリビリする。
シナトは眉をひそめる。
「一級神官、妙な気配がしますが」
「私の身が破滅する前にお前を始末する‼お前はあの方の不名誉にしかならない、白磁を汚す染みめ」
「染み?」
体勢を立て直しながら思わず少し笑ってしまう。頭の中に何故か新雪を踏み荒らす足跡の情景が浮かんだ。ヴァンクリフにとってシナトは気に障る染みであり、不心得者の足跡なのだ。彼は決してシナトを対等の人間だと見ることはないだろう。対等の立場ではないということは話し合いは無意味だということだ。
「まぁ何だっていいけど……と、ちょっと待って下さい、一級神官。何か良くないものを食べたのでは。魂の状態が悪い」
「黙れ黙れ黙れぇぇぇ……っ」
「何なの」
不審そうな声はミカエルのもの。きっとリリールゥカは心配そう顔をしてこちらを見ていることだろう。しかしシナトは今はリリールゥカを振り返ってやることはできない。眼前でメタモルフォーゼを遂げる魂を見ていたからだ。
……彼の魂の元々黒く荒んでいた所に卵のような物がくっついている。その黒い汚れを養分にして卵は急激に育ち孵化しようとしていた。
「……」
ヴァンクリフ一級神官はシナトを対等の人間とは決して認めない。話し合いや説得は無意味である。が、そうと知っていてもシナトは言わずにはいられない。
「一級神官、教会へお戻り下さい。そして教主のもとへ赴き、それを浄化してもらって下さい」
「うるさいうるさいうるさい!!お前ごときが私に命令するな!!」
ヒステリックな叫びに触発されたのか、ヴァンクリフの魂に寄生する何かの卵にヒビが入った。
「ヴァンクリフ一級神官!」
「うるさい‼」
そしてとうとう卵が孵化してしまう。
ゆっくりと広がる大きな黒い翼。
「鴉……?」
これはシナトの特殊な目でなくても見える現実だったようで、ミカエルの「何。気持ち悪」というシンプルな感想が耳に届いた。
「シナト!!」
リリールゥカの声。その瞬間、ヴァンクリフを包む黒い妖気が床を這い、シナトの足元まで伸びた。
シナトの足がドプンと影の中に沈む。
水の術者が使う技ではない。異形の力の領分である。
「ちょっと!!逃げなさいよ!!」
「協会で会った時は異形の気配は感じなかったはずだけど……」
「いいから‼」
しかし逃げろと言われても両足が膝まで沈んでしまっている。
「永遠に闇の中に沈んでいろ」
「シナト!手を!」
リリールゥカが手を伸ばしてくれたようだ。しかし体格的に手を掴むと彼女をこちらに引きずり込んでしまう気がする。
逡巡していると、結局それを掴む前に金色の光がシナトを包み込んだ。
「……?」
光の塊はふわふわだった。……毛玉?ナキ?違う。
この世のどんな上質な織物より魅力的な触り心地。
その眩しい色に見覚えはあるのだけれど、鼻をくすぐる柔かな毛並みは人のものではない。視界の端にちらりと映る尾は九つに分かれている。
白面金毛九尾の狐。
「……カサネ?」
美しい狐はシナトに抱きつくというより押し倒して、そしてそのままシナトと一緒に床に沈んでいった。




