第21話《side:ヴァンクリフ》
「こんにちは。気分はどうですか」
重厚な扉を軽やかにノックしてカサネが室内に入ってくる。
黄昏に染まる部屋の中、執務机の前に立っていたヴァンクリフは脳天から足の爪先まで電流に貫かれたような感覚に身を震わせた。
美しいその姿を目にしてしまうと、ただ立つという行為さえもはや難しい。グラグラと足下が揺れているような感覚。目線をどこに定めればいいのか、手を、足を、口を、呼吸を、今までどんな風にしていたのか。分からなくなって溺れそうになる。
そしてその無様な、池の鯉のようにパクパクと口を開けている自分を……彼が見ている。
それはとても惨めで、情けなく、しかしだからこそ彼の完璧な美しさが際立つ最高の瞬間でもあった。ヴァンクリフは恍惚と息を吐く。
段々と日が沈み、夜の気配が濃くなっていく。暫く換気も行われていない室内は冷たく埃っぽい空気が沈殿していた。
「気分は最高だよ……。君に会えたからね」
自分の声が他人の声のように感じる。ヴァンクリフが身じろぎし、空気が揺らぐ。
……光輝く髪は陽光を思わせるというのに、柔らかな微笑みは春の伊吹を感じさせるというのに……闇を従えるその姿のなんと美しいことだろう。
「ああ……」
自分の中で何かが砂のように崩れていく。さらさらと、何か、これまでの自分の内側の隅々まで詰まっていた何かが、急激に色褪せて、価値を失って崩壊していく。
カサネが耳元で囁いた。
「貴方はとてもいい人だ。俺の見たい景色を見せてくれて、聞きたい事を何でも話してくれる。囀ずる小鳥のように。そうでしょう?」
「はい……」
カサネに見つめられると頭に霞がかかったように何も考えられなくなる。
「ありがとう」
カサネがそう言って微笑むと、自分の心の中の疑問や反発心などは一気に消えてしまう。自然と跪く。彼の目が自分を見下ろしている。それだけでゾクゾクして気持ちいい……。
「どうしたの?下品な顔してる」
クスッとカサネが笑った。
「あ……捧げます……貴方に、全て……」
「そう。じゃあ少しお話をしよう」
それから幾つかカサネが質問した。
自分の唇が答えを返す。知っている情報の全てを。その度にカサネが微笑み、褒めてくれる。自分が何を喋っているのか頭で理解できない。喋っているのかというより垂れ流しているようだ。自分の意思で止められない。カサネの唇は微笑んでいるが、その瞳はまるで興味のない本を眺めているように冷静だった。
「そうです。組織はこうも言いました」
誰かの声が耳に届く。誰の声だと疑問に思ったが、しばらくして自分の声だと気付く。不思議だ。どうやって声を出しているのか分からない。何も分からない。
「この世で最も愛する人間を自分の手で殺めた時、異形の力はより強まり、真価を見せると……」
その言葉をカサネが聞いた時、口許がこれでにないほど酷薄な微笑を湛えた。あまりに美しく目が釘付けになる。
その時、身体に微かな振動を感じた。
「これは……」
背後を振り返ると、執務机の上の切立型の丸いプレートのような物が置いてあるのが目に入る。金の装飾が施されたその中には薄く水が張ってあった。振動に合わせてチャプチャプと揺れている。
「水の一族が使うという水鏡だ。見てみたいな」
無邪気で麗しい微笑みに抗う術も理由もヴァンクリフにはない。
ぎこちなく身体を動かし水鏡に向き直った。そっと水に触れ、己の術力を水に混ぜ込むことを意識しながら水面に術式を書く。揺れる水面が淡く発光し、やがて光が消え去った時そこに映っているのは己の顔ではなかった。
水の中に映っているのは、白く輝く狼である。
「おや、ナキ。異形の姿になっているのか」
覗き込みながらカサネが暢気な口調で言った。
「どうしてだろう」
「あれに持たせた興奮剤の匂いに反応したんでしょう」
「ああ……。そんな薬をどうして使おうと思った?」
「組織からの命令です。異形として覚醒を促す為、人狼が人間を食い殺すように仕向けろと。それに肉の味を覚えた異形は言うことを聞かせやすいからと」
「ああ、餌付けされかけてるんだ、ナキ。ふふ、どうだろう。『待て』のできる男だよ、我らの番犬は」
その言葉通り水鏡に映る白い狼はなかなか食い殺す素振りを見せなかった。注意深く距離を取っている。興奮剤の存在に気が付いたのかもしれない。運命に爪を立てて抗っている。
「ね?」
カサネが微笑む。
「それにしても組織の命令をまだ貴方が聞くとはね。やはりこの力は加減が難しい。強すぎれば言うことは聞くようになるけど心が壊れてただの人形になってしまうし、弱ければ今のように他からの命令や暗示が通ってしまう。俺がもっと異形の力を完璧に使いこなせれば、貴方は俺の役に立つ事だけを考えて行動する兵隊になるのかな?」
カサネの人差し指が背中をトンと突いた。
「心臓はこの辺りかな……」
「捧げます、貴方に。何もかも、全てを……」
「そんな事を言うのに、組織の命令を聞いた訳だ。あんな薬を使って、俺の仲間に酷いことをする」
「貴方の為です……」
「俺の為?」
「はい。貴方はいずれ異形の王となって、組織に帰ってくる方です。その時に必要なのは仲間などではなく、有能な配下であると」
「なるほど?壮大だ。……ああ、ミカエルとリリーが来たね。それに……」
カサネの声に僅かな戸惑いが混じったのを、ヴァンクリフは聞き逃さなかった。
「シナトさん……」
自分の心臓に亀裂が入る音を聞いたと思った。あの貧相な小娘が、この完璧な人の心を不当に占拠しているのが分かったからだ。美しく区画整理されている街中に突然現れるゴミ屋敷のような不愉快さであった。
灰色の髪の女は戦闘に加わることなくひっそりと壁際に立っていた。が、不意に顔をあげてこちらを見た。
「……!」
この水鏡は術者同士の通信手段としても使われるが、今回はそんな使い方はしていない。余程感の良い者でなければ見られていることには気が付かないはずだ。
しかしシナトはじっとこちらを見ていた。
水鏡を通して視線が交わる。
視線はすぐにそらされた。そしてそれっきりシナトはこちらを見なかった。
カサネも何も言わなかった。
……結局、ナキは人を食い殺さず、ならばと組織から暗示を受けている青年が魔眼の少女に命を捧げようとするも、それもまた上手くはいかなかった。邪魔したのはあの小娘だ。
目障りなことこの上ない。
「あの娘……消しましょうか」
「ん?」
「あれは貴方には不要な存在です。力も弱く、利用価値もない」
「あの人は……」
口を開きかけたカサネが怪訝な表情になり、首を巡らせて窓の方を見る。
ふと、どこからか鳥の羽ばたきが聞こえた。




