第20話《side:リリールゥカ》
回し蹴りによって昏倒した青年は床の上で大の字になって倒れていた。
見事な足技を披露したのはミカエルだ。
彼女は青年の胸ポケットをまさぐり乳白の石を取り出すと、それを空中に放り投げた。
ヒュ……ッと音がして、丸い石は細切れにされる。
「……これでナキは元に戻る?」
「はずだけどね」
強靭な蜘蛛の糸によって拘束されたナキは唸り声を噛み殺している。瞳の奥で理性が凶暴な衝動に必死に抗っているのが分かった。
鋭い爪が床を掻きむしって嫌な音を立てる。
「ナキ……どうしちゃったの」
ムーンストーンで人狼に変身したとしても普段の彼なら異形の本能に飲み込まれたりしない。なのに今はとても苦しそうだった。
「……おっと」
シナトの声。
リリールゥカが顔を上げると、抱いていた毛玉が腕の中から飛び出し、ぐいぐいと引っ張られているシナトの姿が目に入った。毛玉は倒れている青年に近付いていくと彼の足元に纏わり付く。
「どうしたの?」
「何かあるって」
「え?」
視力が封じられているシナトの代わりにリリールゥカが屈んで青年のズボンの裾を触った。すると確かに違和感のある膨らみがある。
「何だろう……これ、匂い袋?っていうのかな」
そこに縫い付けられていたのは小さな黒い袋、中から微かな甘い薫り……。
「ん、貰う」
シナトが手を差し出してきたので掌に匂い袋を乗せると、清涼な冷気がリリールゥカの頬をふわりと撫でた。と思うと小さな袋は一瞬のうちに氷の中に閉じ込められていた。
卵型の氷。その中身は空洞であったのだろう。シナトが手首を傾けると氷の中で袋が動き、口を閉じていた紐が弛んで中身がこぼれ出た。
「わ……綺麗……」
リリールゥカは思わず呟く。
卵の内部をキラキラと光る粉末が舞っていた。それはスノードームを思わせる愛らしい光景であったのだが、ふと見るとシナトは眉をひそめていた。苦手と言っていた蜘蛛に襲われた時でさえ保たれていた冷静な表情が、嫌悪感……?のようなもので翳っている。
「シナト?」
「……胸糞悪いことに、見覚えがあるわね」
耳に届いたのはミカエルの声だった。振り返ると彼女と目が合う。
「組織にいた頃にね。特定の異形に作用する興奮剤の一種。ナキの様子がおかしかったのはコレのせいだったって訳ね」
「……興奮剤?」
「つまり自分が自分じゃなくなる薬よ。最低のバカが使いたがるのよ」
リリールゥカはナキを見遣る。清らかな氷によってその悪意は閉じ込められた。おかげでナキは少し落ち着いたのか、唸り声はもう聞こえてこない。床に伏せ目を瞑っていた。しかしこちらの視線を感じたのだろう、片目を開けるとふさふさの尻尾を一度大きく振って見せた。心配するな、というように。
「けどどういうことかしら?じゃあコイツはナキを凶暴化させて、自分を喰わせるつもりだったってこと?」
大理石の床の上に転がった青年を睥睨したミカエルはつかつかと近付き、そしてその背中を踏んだ。
「……か、っは」
「起きなさい」
「ミカ」
「あたしは遠慮しないわよ。組織の犬っころには」
青年が身体を起こす。身体の動きはぎこちなかったが目には光が戻っていた。憎しみの光だ。彼は自分達を憎んでいる。
(どうして……)
ただ一つ言えることは、それを支えにして彼は身体を起こすことができたのだろうということだけだ。
「お前等の本性は人の命を喰らう化け物だ。それを思い出させてやっただけだ」
青年が吐き捨てるように言った。
「見ろよ、あの狼を。少し薬を使われただけで涎を垂れ流しながら俺を襲ってきやがった」
「馬鹿言ってんじゃないわよ。ナキがホントにあんたを殺すつもりなら、あたし達が来る前にとっくにやられてるわよ。ナキはね、その胸糞悪くなる匂いに酔って暴れてただけの酔っぱらい、ただの迷惑野郎ってだけなんですけど?何が人の命を喰らう化け物よ」
「……おい。フォローしてんのか、貶してんのか」
ナキの不本意そうな抗議の声は鮮やかに黙殺される。
「あんたを噛み殺すのに一秒もいらないわよ。けどあたし達はね、あんたみたいな小物をいちいち殺さない」
「馬鹿に」
「あんたなんか殺しても何にも変わらない。終わらない」
ミカエルがピシャリと言う。
「そりゃあたし達はもはや人間じゃないわよ。けど理性を失った化け物なんかでもないわ。あたし達は組織を潰す、今度こそ。だからこそ組織の人間を殺す時は、自分の意思でやる。自分の人格の支配者は異形ではなく、自分自身だからよ」
「……」
青年はミカエルの言葉を聞いていた。
その顔からは不思議なことに憎しみが消えている。素直と言っても差し支えないほどの無垢な表情は幼く見え、リリールゥカは違和感を覚える。
「組織を潰す……」
「そうよ」
「組織が無くなれば俺は、俺達は……解放される……?いや違う。駄目だ、駄目だ、駄目だ‼」
突然青年が叫んだ。両手で頭をかきむしる。その顔には再び憎しみが戻っている。
「お前等のせいで!!お前等が逃げ出したせいで!!お前達の代わりに俺達が実験される羽目になったんだ!!」
リリールゥカは息を呑む。
「あんたは……あたし達が逃げ出した後に組織に売られた子供って訳ね……」
「お前等は特別で、丈夫で、殺されることなんてないんだから、組織に大人しく飼われてば良かったんだ‼」
「ふざけないで‼」
自分でも驚くほどの声が、喉の奥から迸った。ミカエルが吃驚した顔でこちらを振り返るが、構う余裕もなかった。頭に血がのぼって、リリールゥカは胸ぐらを掴まんばかりに青年に詰め寄った。
「ふざけないで‼特別ですって⁉身体を好き勝手に使われて、死ぬこともできないで、明日が来ることがどれだけ怖いことか、あなたに分かるの!?」
「リリー」
「私達が逃げたせいで貴方達が犠牲になったなんて……そんなことカサネ様が……あの優しい人が聞いたら……っ」
ボロボロと涙が溢れてくる。それが嫌だった。こんなことくらいで、泣く。いつもでも子供で、弱い。すぐにいっぱいいっぱいになって、自分と同じ苦しみを持つ人を責めている。この人を責めても何も変わらないのに。
(悔しい)
両手を強く握りしめる。
「……」
青年はリリールゥカの涙を凝視したまま、ぜんまいの止まったからくり人形みたいに動かなくなった。
「後ろの子は大丈夫なの」
しんと静まり返っていた室内の空気を揺らしたのはシナトのそんな言葉だった。
リリールゥカを見ていた青年が険しい表情に戻り、シナトを無言で睨み付けた。しかしそれと彼女の視線が交わることはない。シナトは青年の背後をじっと見ている。
「術力の状態が随分不安定だけど、ずっと喋らないし、怪我でもしてんじゃないかと」
「誰の話よ」
「いや、だから今さっき喋ってた子の後ろ。小さい子がいると思うけど」
「急にホラーなんなの?冗談を挟むタイミングもセンスも何もかも最悪。誰もいないわよ」
「いない?」
シナトが驚いた表情になった。
「誰もいないの」
毛玉を盲導犬代わりにして一歩踏み出したシナトは青年の横を通りすぎ床に片膝をついた。ゆっくり手を伸ばし、そこにいる誰かの頬に触れるような動きを見せる。注意深く、優しい手付き。それを傍らで毛玉が見守っている。
「……」
斜め後ろに攻撃的な態度の青年がいるというのに相変わらずシナトは目の前のことしか気にしていない様子だった。いつ青年が攻撃の態勢をとるのか、彼女よりもよほど自分やミカエルやナキの方がヒヤヒヤして見守っているに違いない。
「麦色の髪の女の子、十代前半に見える。酷く痩せてる。左手の小指におもちゃの指輪、リボンのモチーフ」
シナトが小さな声で、しかしはっきりと言った。
青年が振り返る。しかし勿論そこにいるのはシナト一人で、女の子の姿はない。
「……何で……何でお前が俺の妹のことを知ってるんだ」
「妹」
「……っ俺は妹を守る!!例えそのせいで他人が不幸になってもだ!!」
噛みつくような青年の声。ミカエルがはっとした。
「もしかしてあんたの身体を実験台として差し出せば、妹は助けてやるって組織に言われてるの?」
「俺なんてどうなってもいい。俺の身体も命もとっくに汚れた。けど妹だけは」
「あのねぇ……」
ミカエルは青年が再び立ち上がる気配にうんざりとした顔になった。青年の身体は既にボロボロだが、彼は最期まで闘う気がした。譲れないものの為に。そしてそれは自分達も同じなのだ。自分達の望みのために彼の祈りを潰さねばならない。
例え偽善者と言われようとも、それはリリールゥカ達にとっても哀しいことだった。
「自分の行いは自分に返ってくるよ」
淡々と言ったのはシナトだった。
青年が白けた笑い声を上げた。
「はは……っ。やったことはやり返されるか。そんなことは百も承知だ。殺す覚悟を決めた時、殺されることも覚悟してる。当たり前のことだ」
「いや、そっちじゃなくて。貴方のしたことと同じことを妹がするだろうという意味だけど」
「何?」
「組織の人間は妹にこう言うだろう。『君を守るために、君のお兄さんは酷い目に合っている』。そう言えば今度は兄を助けるために妹がその身を差し出す」
透明なナイフで心臓を一突きにされたかの如く、青年が一瞬息を止めた。
けれどすぐに反論する。
「馬鹿なことを言うな。組織は俺に約束した。俺が言うことを聞いていれば」
「人を薬漬けにして、人体実験を繰り返す組織は約束を守らない」
スパッとシナトが言った。
「貴方が妹を想うのと同じくらい、妹も兄を想ってる。貴方が妹にやったことは、妹にもやり返される」
「嘘を……、妹は」
「随分薬を使われて、恐らく暗示もかけられている。だから誰にでも分かるようなことが分からなくなってる」
納得できないという表情の青年にシナトは淡々と台詞を続ける。
「妹の思念が形となって貴方の傍に留まっている。実体と見紛うくらいの強い思念。無意識にそれができるということは多分とても強い術力の持ち主なんだろ。兄である貴方よりも。組織の狙いは最初から妹の方で、貴方は利用されたと考えるべきかもしれない。ここで貴方が死ねば復讐心につけこんで更に妹を御しやすくなるという所だろう」
「な……っ」
ちらりとシナトが視線を送ったのは青年ではなかった。
視線の先でミカエルが腕を組み、嫌そうに顔をしかめていた。
「血の味を覚えさせれば、異形の力はより強大になり、人である自覚は薄れる。……よく組織の馬鹿共が言ってたわね。つまりナキに人殺しをさせて異形として覚醒を促し、その子の妹も唆して組織の手足にするっていう糞みたいな計画。ほんっと最悪。組織の連中全員、ダンゴムシ千匹喉に詰まらせて窒息死すればいいのに」
「どんな状況だよ」
ナキが尻尾をパタリと振りながら言った。ミカエルは少し笑ったし、ナキの口調も穏やかですらあった。
しかしリリールゥカには二人が沸き上がる感情を押さえるためにわざと軽口を叩いているように見えた。
「提案ですけど」
シナトが口を開く。
「組織について教会で話せば、妹君を助けるのに教会を動かせるかもしれない」
「だから組織を裏切れって?」
はっ、と青年が笑った。ミカエルとナキの視線もシナトに向けられる。
「結局どいつもこいつもそうだ。自分の為に俺達を使う。俺を教会に売ればお前の株が上がるって訳だ」
「……」
「提案?脅せばいい。妹を助けたかったら言うことを聞けってな‼」
シナトが瞬く。
「じゃあ……そうだな。昼間その薬を使ってた人が血で虫みたいなのを作ってたんですけど。アレできる?」
「何?」
「できますか」
訝しげな顔のまま青年が指先を動かすと床に点々と付着していた血液が集まって1匹のゴ……黒い塊になった。相変わらず見ていると背中をがぞわぞわするようなソレは青年の掌の上で動きを止めた。
「これが何……」
言いかけて、青年の唇が固まった。
一口ちょうだいとでも言うように親しげに彼の指先に顔を寄せ、シナトがその黒い塊を口に含んだからだ。
ごくん、と喉がなる音がした。
「な……っ」
最初に声を上げたのはミカエルだったか、リリールゥカだったか。ほとんど同時に怒声が重なった。
「馬鹿じゃないの!?」
「何してるの!?」
青年はめいっぱい目を見開いてシナトをじっと見ていた。
「何してんの……」
「まぁ、教会もろくな場所ではないけど。組織が100%クズの集まりだとしたら教会は8割人でなしの2割はマシな人で構成されているから、まだ未来を切り開ける目は残ってる。万が一私が貴方を裏切ったり騙したりした場合、今飲み込んだ虫で心臓を食い破ったらいい」
「な……」
「妹の術力の状態を視るに急いだ方がいいとは思う」
「は……痛っ!」
突然毛玉が青年の顔を踏みつけ、跳ねて、扉に向かって転がりだした。
鎖に引っ張られ、シナトも半ば引き摺られるようにして駆け出す。
「あー、とりあえず私はカサネの所へ行くので、今話した件は考えておいて下さい」
「ちょっと!待ちなさいよ」
ミカエルとナキもシナトを追いかけて部屋の外へ出て行く。
リリールゥカは呆然としている青年に何か声をかけようと口を開いたが、結局何の言葉も思い付かずシナトの背中を追いかけた。




