第2話《side:カサネ》
シナトが執務室を出て廊下を歩いていく。その後ろに従いながら、カサネはシナトをじっと見つめた。カサネの方が背が高いので見下ろす形になる。
腰まで伸びた長い髪が歩調に合わせて揺れている。くくらないのかな?と思う。思ったので聞いてみる。
「髪、くくらないですよね。あんまり」
「くくらないな」
「不器用ですもんね」
「不器用だな」
「きつく縛りすぎてしまって頭が痛くなるんでしょう。よかったら俺が教えましょうか?手取り足取り。以前仲良くなった女の子に教えてもらったんですよ。髪の毛の結い方」
「いや、鬱陶しくなったら切るからいい」
「人間って髪に触れられると大人しくなって、少し従順になりません?あの感じ、好きだなぁ」
「人によるだろう」
「そうかな」
「カサネに触られたら誰だって固まるだろ、とっつきにくい顔してるんだから」
「とっつきにくい顔……」
カサネが呟いた時、二人の背後から声がかかった。
「やぁ、カサネ。どこかへお出掛けかな?」
シナトとカサネが足を止め振り返ると、白の法衣を纏った男が一人こちらに向かって歩いてくるところだった。
「ああ、ヴァンクリフ一級神官。おはようございます」
「おはよう。君は相変わらず比類なく美しいね、カサネ」
鼓膜を撫でる声は低く落ち着きがあり、演説向きの声といえた。自信に満ち溢れた美声で美麗辞句を並べ立てれば民衆の耳によく馴染みそうである。
「こんな部下がいて全くうらやましいよ、シナト三級神官」
男性神官は二人の前で歩みを止めた。
肩から白い紋章が刺繍された紫色の帯を垂らしている。一級神官の証だ。
年の頃は30代後半、緩く波打つくすんだ金髪と堀の深い顔立ちの持ち主で、なかなかの美丈夫であった。
「おはようございます」
機械人形の方がまだ愛嬌があるのではないかと思わせるような愛想の無さでシナトが挨拶を返した。
半歩下がって控えるカサネにはシナトの表情は見えないが、どんな表情をしているかは想像がつく。
笑顔はないが怒っている訳ではない、目付きは鋭いが睨んでいる訳ではない、といった表情だ。つまりカサネに向けられる表情と変わらない。シナトは誰に対しても対応があまり変わらない。
美点である。
そして欠点でもある。
勿論シナトは目の前の上官をわざわざ不愉快にしようとしているわけではない。
むしろ失礼のないようにと考えて接しているのかもしれない。
カサネは清らかな微笑みを浮かべながら、眼前の背中に視線を投げた。
四級神官は漆黒の法衣だが三級以上の神官は全員白い法衣で、肩から垂らした帯で階級を見分ける。
シナトの肩からは浅黄色の帯が歪みなく下に伸びている。シナトは姿勢が良い。
真っ直ぐに伸びた背中に、カサネは内心で語りかける。
貴女はいつも平等であろうとするけれど、平等っていつも不平を招く。なぜだろうね?
シナトは当主の娘といっても妾腹で立場は弱く、また上級神官達の覚えがめでたいという訳でもない。
対するヴァンクリフ一級神官は教会の中でトップクラスの異形の討伐数を誇り、当主の対抗馬になりうると目されている男である。媚びを含んだ眼差しと愛想笑いと社交辞令を浴びるのが常の人物が、シナトのこの対応で満足を覚えると本気で思っているのだろうか。
甘く加工された水を溺れる程注いでほしいと欲している相手にシナトはいつもコップ一杯の水しか差し出さない。それでは相手は渇きを自覚するだけだろう。
その一杯は神秘の森に涌き出る美しい水ではあるけれど。
ああ、しかし今のヴァンクリフ一級神官の心を染める真の感情を彼女の瞳は読み取ることができるだろうか。
熱に浮かされた、ほの暗い高揚を。
「そういえばね、シナト三級神官」
ヴァンクリフが口を開いた。
「はい」
「カサネを三級に推薦しようかと考えているんだが……どうかな」
「どうかなとは?」
「かまわないかな?」
「ご随意にどうぞ」
愛想の欠けた、単調な声。きっちり第一ボタンまで留めた、乱れのない制服のような隙のない声。
俺はそのボタンを引きちぎりたくなるけれど……シナトさん?少しはご機嫌伺い?とか覚えた方がいいんじゃないかな。陰口とか言われるよ。
周囲が敵だらけになっちゃうよ?
勿論、カサネはその方がいい。
そうなればカサネだけが構い倒せる訳だし、そのままこちらに依存してくれると尚更いい。俺のことだけ見て、俺の言葉だけを聞いてくれると、とてもいい。
(ならないけどね、貴方は)
ヴァンクリフ一級神官の話はまだ続いている。
「彼は目立った功績はないが、高い術力を持っている。才ある者のもとで術を磨けば素晴らしい術者になるだろう。そしていずれ我が部隊に入隊し、私の補佐をしてもらえればと思ってね」
「そうですか」
シナトがカサネをちらりと見遣って、それから上級神官に視線を戻した。
「推薦の件については一級神官の判断でなさりたいように。ですが、カサネがどこに所属するかは教主が決定することですので私には分かりません。辞令が下れば私もカサネもそれに従うでしょう」
淡々とシナトが言葉を紡ぐ。
(おっと……)
カサネは口許を弛めた。対するヴァンクリフの眼差しが先程よりも熱を孕んできていることに気が付いたからだ。