第19話《side:名もなき青年》
青年の目の前で『彼』の身体に変化が生じたのは、ムーンストーンを目にしてすぐのことだった。
ピアスだらけの耳が形を変え、先端を尖らせると同時に白い毛に覆われていく。
爪は鋭く伸び、口元は大きく裂けて太い牙を覗かせ、瞳は紅く染まった。
四つん這いの姿勢になり低く身体を臥せたと思うと、一気に跳躍した。辺りに破れた衣服が散乱する。
身体を自由に動かせることに歓喜しているのか、部屋の真ん中に着地すると大きく咆哮した。
「……!!」
地鳴りに似た轟音が青年の鼓膜を貫き、全身がビリビリと震える。
青年の前に立ちはだかっていたのは、一匹の美しい獣であった。
白く輝く狼。
「これが……人狼か。下等な雑魚どもとは一線を画す、高位の異形……。そしてその移植に堪えうる術力を持った、特別な子供……」
ギャッ、と鳴いたのは自身の右手と同化した穢れた刃だ。高位の異形の放つ凄艶な妖気に焼かれたのだろう。
青年の手の中のムーンストーンは勿論普通の宝石ではない。
組織から与えられたそれは、月光から生まれた妖精を百匹捕らえ、殺し、その涙から生成されたというおぞましい石だった。
人狼は月の影響を特に受けやすい異形だ。このムーンストーンを見て、彼の理性は溶けたのだろう。
本来の残虐さを取り戻した白狼は強く、美しい、組織の自慢の作品だ。
だからこそ、
「哀れなことだ。組織はお前たちを諦めたりしない……」
よろよろと立ち上がり、随分重たくなった腕を持ち上げる。
「……逃げ出した子供達、全員を捕らえるまで永遠に追い続ける。何もかもを巻き込んで……!」
地面を蹴りつけて、疾走するイメージで駆け出す。実際はボロボロの身体は鈍い足運びだったに違いない。
渾身の力を込めて腕を振り上げる。
しかしその刃が白い毛並みを紅く染めることは叶わなかった。
二度目の咆哮が刃を振動させる。それだけで、刀身は形を保てなくなった。
足元にびちゃびちゃと赤い液体が滴る。
「……」
青年は下を見た。
血溜まりに、唇がプカプカと浮かんでいる。弓張月のような形をしている。俺の数秒後の未来を嘲笑っている。
哀れはどちらだ。狼に食われるぞ、と。
しかし青年は俯いたまま、彼には見えない角度で微笑む。
(これでいい)
(俺は役目を果たした)
ひたひたと背後から近寄ってくる死の気配に目を瞑った。
(さよなら。愛しているよ)
目を瞑ってしまえば脳裏に浮かぶのは、美しく恐ろしい獣ではなく、真っ暗な死でもない。最愛の存在だ。
自分は責務を全うした。
充足感が胸を満たしていく。
あとは最期の瞬間を、ただ待つだけでいい。
しかしいつまで待ってもその瞬間が訪れることはなく、訝しげに目を開いた。
するとそこには噛み締めた口の端から涎を溢しながらこちらを睨み付ける獣の姿があった。
「!何で……」
その時足音が聞こえた。はっと振り向くと同時にバタンッと扉が開け放たれ、二人の女が部屋に飛び込んできた。
「ナキ!?あんた人狼になってんの!?何で!?」
「あ!駄目だよ‼どうしよう、ミカエル!!」
最初の怒声は赤髪の女。
悲鳴のような声で言ったのは眼帯をつけた少女だった。少女は蝶の髪飾りをつけている。
今にも動き出しそうな細やかな細工の蝶に目が止まった。
(買ってやりたいな、妹にも……。きっと似合う)
こんな時だというのに、そんなことを思った。
白狼が唸る。こちらに飛び掛かろうと態勢を低くした時、彼の周囲がキラキラと光った。
何だと思ったと同時に、狼の身体は幾本もの糸によって拘束されていた。
蜘蛛の糸。あっという間の早業は見事なものだ。糸を操る指先の主は女郎蜘蛛、いや、その異形を取り込んだ赤毛の女だ。
しかし狼が唸りながら身を捩るとほとんどの糸はすぐに千切れる。残った僅かな糸が健気に彼をその場に引き留めているが、それも長くは持たないことは明白だった。
「何か様子が変ね……。なに見も身も心も獣になっちゃってる訳?ほんっと、組織と関わるとろくなことがないわ」
彼女の視線がスライドし、こっちを一瞥した。しかしそれは一瞬のことで、すぐに視線は隣の少女に移された。
「リリー、ナキの動きを止められる?」
「う、うん。やってみる!」
「赤いのが彼女で、菫色がリリー……。白緑が彼で、黒いのは薬……。灰色は何だ……」
緊迫感を含んだ二人の会話とはやや温度が違う呟きが聞こえた。
声の主は純白の法衣を纏った女だ。扉の近くで突っ立ったその女は何故か白い毛玉を抱き抱えている。
それ以外は特段目を引く所のない、地味な女だった。
「ねぇ、ナキ?あたし、あんまりその犬っころの姿好きじゃないのよね。服に毛が付きそうじゃない?」
赤毛の女が軽口を叩く。平然としているように見えるが、その指先は忙しなく動いている。
「カサネ様が命じれば、すぐに人型に戻れるんだけど。主と定めた者の命令は聞く。けどカサネ様がいないんだから、石を壊すしかないわね」
「石……」
「満月の代わりとなる石をみて変身したはずだから、それを壊すのよ。けどそれを探す前にナキの動きを止めないと。急ごしらえで作った糸じゃ長くは拘束できな……っ」
話を途中で切り裂いたのは、白狼の鋭い爪だ。鼻先にまで迫ったそれは糸に阻まれ届くことはなかったが。
「ちょっとナキ。じゃれついてこないでくれるかしら?」
女が指先を操ると糸が再び狼の動きを縛った。
刹那、獣の咆哮が室内を満たした。
「……っ」
暴風に煽られたようだった。
衝撃に自分も女も少女も足を踏ん張って堪える。
後ろから「あ痛」と声がした。法衣の女が腰を壁にぶつけたようだった。
もう一度、狼の咆哮。その直後、引き絞った弓の弦が切れるような音。
「馬鹿力ね……っ、リリー!!」
「うん……!」
糸を引きちぎり体躯を躍らせる白狼の前に緊張した面持ちの少女が立ちはだかる。そしておもむろに眼帯を外した。
現れたのは菫色の瞳。
(魔眼)
見た者を石に変えてしまうという異形。
伝説では頭部から蛇を生やした妖艶な女の魔物だというが……その目を移植されているのは妹とさほど変わらない年頃の少女である。
心の片隅に墨汁を溢したような、黒い不安が広がっていく気がした。
その正体が何かを見定めようとするが、そうすると頭に霞がかかったようになる。
何か、大切なことの尻尾を掴んだ気がしたのに……それが何だったのか思い出せない。いや、思い出した。
頭の中を覆っていた霞が晴れていく。
とてもスッキリした気持ちがする。思考がクリアになって、自分のやるべきことが天啓をうけたかのごとく、はっきりと分かる。
(俺、は)
彼女の目を見なくてはいけない、と思った。
魔眼を見たものは石になる。しかし自分の身命を持ってして、彼女に、彼女達に思い知らさねばならない。優秀な異形の器達。どこへ逃げても、その異形の本性からは逃れられないということ。異形の本性とは、すなわち人を命を喰らうということだ。抗うことは許されない。
自然と身体が動く。
白狼は少女の瞳を見ても石になることはなかった。しかしその場に縫い付けられたように動けなくなった隙に、恐らく先程よりも強靭な蜘蛛の糸によって拘束されていた。
誰もこちらを見ていない。俺など歯牙にもかけていない。
気付けば俺は、菫色の瞳の少女の前に飛び出していた。
「あ……!」
少女が俺を視認し、声をあげた。
彼女が何を思ったのか、本能的に理解した。高位の異形ならば、つまり人狼ならば魔眼を見ても動きを止められる程度ですむだろう。しかし、自分ごときの術力では。
妖しく光る瞳の美しさに心奪われ、視線を動かせない。えもいわれぬ心地に恍惚とする。
この瞬間が、永遠になる。
……不意に何か目の前を横切った。ひらりと。
「……あ?」
それは少女の髪にとまっていた、あの蝶の髪飾りだった。
いや、ひらひらと飛んでいるのだから髪飾りではなく、本物の蝶であったのだろうか?透き通るほど薄い、青色の羽。
蝶は自分と少女の視線の交わる場所でホバリングしていた。
気付けば少女は手で片目を押さえていて、魔眼は見えなくなっていた。
「あ……」
ひらひらとまた蝶が飛んでいく。今度は少女の髪ではなく、存在を忘れかけていた女の所へ。
ひらひら、ひらひら、ひら、ひ、ら。
そして白い法衣を纏った女の掌に止まり、直後、石になって砕けた。
「……」
白い法衣は聖職者の証。
特別美しいという顔立ちではないが、女の静かな横顔に釘付けになる。
また、目の前を何かが横切った。
今度は蝶ではない。
誰かの靴底だった。




