第18話《side:ナキ》
「ああああああ!」
胸を掻きむしりながら頭を床に打ち付ける青年を見て、ナキは舌打ちする。
異形の力を過剰に取り込みすぎた為に起こる拒絶反応かもしれない。
とりあえず胃の中身を全部吐かせて、気絶させる。
そう考えた時だった。
青年が激しく咳き込み始めた。えずきながら咳き込むので思わず声をかける。
「おい」
しかしそこでふと……小さな違和感を感じた。何かが頭の隅に引っ掛かった。
(……甘い)
微かではあるが……甘ったるい香りが鼻孔をくすぐったのだ。
何の香りだ。
香水?
どこか懐かしい……。
「!」
視界の端で何かが煌めき、ナキは後ろへ飛びす去る。
先程までナキが立っていた空間をナイフが切り裂いていた。ナイフの柄を握っているのは……苦しんでいたはずの青年だ。
刃先が描いた軌跡には迷いもブレもなく、向かってくる眼差しには薬による混濁も見受けられなかった。
「……仮病かよ」
「騙される奴がいるんだな、こんなのに」
「あー全くだ。あの馬鹿は知ってて……」
ガシガシと白髪をかき混ぜながら、ナキは一人ごちた。
「あんたはここで足止めさせてもらう」
青年がこちらを睨みながら言う。先程は顔付きを確認する余裕などなかったが、思ったよりも年若いようだ。上級神官の屋敷の使用人らしく品のよい制服を着ているが、大きい眼と薄茶色の短髪のせいで幼く見え、彼の印象をアンバランスなものにしていた。多分17、8歳ではないだろうか。
先程の香水の香りはもう漂ってこない。鼻が慣れてしまったのかもしれない。
青年がナイフを高く掲げたのが見えた。しかし今回刃先が向かったのはナキのもとではない、勢い良く振り下ろした先は自らの右手だ。
「……!」
ナキは目を見張った。
鮮血がはぜる、と思ったが血が周囲を汚すことはなかった。切り裂かれた皮膚から飛び出した血液は床に滴り落ちるのではなく、それ自身が意思を持っているかのように動き、掌を染め上げ、指先からさらに伸びて赤い刃となった。
昼間にもよく似た光景を見たばかりだ。
この青年もまた例の薬を服用しているのだろう。
「それがどういう薬か知ってんのか」
「勿論」
「屍鬼、吸血鬼……の中でも雑食の低位のやつ、そういう雑魚を精製して作った薬物だろ。一時的に力を手に入れても、それはまやかしだぞ」
「まやかしなんかじゃない。今!現実に!俺の手の中にある力だ!」
赤い刃がナキに迫りくる。上体を反らせて避け、体勢を整えながら反撃する、はずだったがナキは途中で動きを停止させた。止めようと思ったわけではない。
目が合ったからだ。刃と。
「……っ」
柘榴色に染まった刀身にはギョロギョロと動く目玉がいくつもあった。それから口らしきもの。そこからウネウネと動くどす黒い舌。
その舌が一瞬動きを止めたナキの首元を舐めようと蠢くのを後方に飛び退いて避ける。舌がずるりと伸びて一瞬追いかけるような動きを見せたが、すぐに諦めたようだった。しばらく空中でゆらゆらと揺れながら唾液をこぼしていたが、やがて垂れ下がり、先程までナキが踏んでいた地面を舐め始めた。びちゃ、びちゃ、びちゃ、という音。
味わわれている、と反射的に理解してしまい虫酸が走る。
「……おい。気色悪い事この上ないな」
もしこの場にミカエルがいたなら、あまりの気色悪さに「重罪よ!!」とか喚き散らしながら激怒しているところだ。
「コイツはあんたの術力が気に入ったみたいだよ」
汚されたような気分になって何となく靴底を床に擦り付けながら、ナキは青年を見た。
昼間の男とは動きと力の扱い方が違う。
訓練を受けている者の動きだ。
「組織に利用されているのか」
ナキは青年に問う。
「それとも自分の意思で組織にくみしているのか」
「俺の意思だ」
僅かの逡逡も見せず、青年は言い切った。
「そうか。……なら遠慮はしない」
瞬き一つの間にナキが間合いを詰めると、けたたましい奇声を上げながら刃が首もとに迫ってくる。
「うるさいな……」
呟きとともにナキは腕を薙ぎ払った。
妖力を纏った腕は鋼の強靭さを誇る、ギャッと小さな悲鳴を上げて気味の悪い舌は千切れて飛んでいった。
一瞬の静寂の後、ヒステリックな絶叫。
ナキだけでなく、使い手である青年も顔をしかめる。
青年が後ろに飛んで逃げながら左腕に刃にあてると千切れて短くなった舌が伸びてきて腕に吸い付いた。
(吸血している)
術者の力を喰らい回復するつもりか。
待つ義理はない。ナキが再び腕を薙ぎ払うと、今度は風が巻き起こった。鋭い風の大鎌を青年は刀身で受けるが、勢いは殺せず、そのまま壁に叩き付けられる。
「ぐ……っ」
強かに背中を強打して一瞬息が止まったようだ。
壁際にずるずると座り込んだ青年にナキはゆっくり近付いていく。
青年は咳き込んでいるだけだったが、赤い刃からは威嚇するような絶叫が迸る。
「まだだ……っ」
青年が自身の肩に刀身を突き立てた。ゴクゴクとナキの耳にも届くほどの音をたてて血が吸われていく。
刀身から眼球が転がり落ち、代わり伸びてきた舌が襲いかかってきたのは次の瞬間。だがその速度も大したことはない。鈍重。動きも単調。
「……」
ナキは落ち着き払った態度で避け、同時に爪で切り裂いた。弾けとんだ赤黒い舌が床でグロテスクにのたうち回っている。
手負いの蛇のようにうねり、壁を舐め、床を抉った。ナキは無感動にそれ踏み潰して、壁際に目をやった。
青年は壁にもたれ掛かり、ゴロゴロという湿った咳をしている。
(弱い)
その一言が脳裏に浮かんだ。
弱さは罪だ。どんなに立派な御託を並べても、力がなければ何も守れない。
(弱い)
物足りない。
流れる血が少ない。
もっと、血臭で酔うほどの血が欲しい。
「……っ」
足元がふらついた。
自身の考えに慄然とした。
(何だ……!?)
自分の内側で、自分のものではない、凶暴な衝動を感じる。
何かおかしい。青年の身体から流れる血を見ると、甘美な陶酔感と興奮が沸き上がってくる。それはナキではなく、ナキの中の獣の本性のはずだ。
……血の匂いに混じって、やはりどこからか甘い匂いがする……。
耳をつんざく絶叫が響く。
何かが場違いに美しく光った。
目を向けると、青年が左手を高々と挙げていた。
手に握られているのは、半透明な乳白色の丸い石。重なりあった結晶層がシャンデリアに照らされて幻想的に光っている。
(ムーンストーン……!!)
その昔、この石は月の輝きが結晶化したものだと信じられていた。月の魔力の化身。
そう、月だ。
……忌々しい、夜空の女王。
ナキの身体の最奥で獣のうなり声が聞こえた気がした。




