第1話《side:シナト》
教会の一室。
朝日が差し込む狭い執務室にはコーヒーの香りが漂っている。新聞に目を通していたシナトはまだ半分以上残っているコーヒーカップを机に置いてため息をついた。
紙面には、どこぞの廃工場で爆発があっただの、通り魔が出ただの、物騒な文字が躍っている。星座占いは11位。同僚とぎくしゃくしてしまうかも。穏便にね。
「……」
ふと、シナトが顔を上げた。少し怪訝そうに。数秒後、扉をノックする音が聞こえ、彼女は凍った湖を削り出してはめ込んだような蒼い瞳を部屋の入口に向けた。
「どうぞ」
入室してきたのはシナトの副官である美しい青年だった。名前はカサネ。シナトの唯一の部下である。彼は薄い茶封筒を手に携えていた。
「ただいま、シナトさん」
常の事ではあるが、やや糖度を間違った甘やかな声音。
芸術の神が創造し命を吹き込んだとしか思えないような白皙の美貌の持ち主は部屋の中へ入ってくるとデスクの上に封筒を置き、椅子に腰を下ろした。陽光を集めたような金糸の髪が輝き、碧眼を縁取る長い睫毛が目元に影を落としている。
彼の身を包むのは、教会に属する聖職者の中で最下級の者が纏う漆黒の法衣だ。
「おかえり」
愛想のかけた声でシナトが返事を返すと、カサネは上司の蒼い眼に視線を絡ませ美しく微笑んだ。
「ああ、シナトさん。貴女の視線が今、俺の眼球を舐めてる。仕事中にそんな不埒な事をして、貴女は俺をどうしたいんだろう……」
「控えめに言っても気持ち悪い」
「控えめに?過激に言うと?」
「……」
「お前は塵と目が合ったことがあるか?ただ視界に入っただけのゴミが、視線が絡まったなどと思うことすら烏滸がましい……という意?」
「言ってないよ」
どっと疲れた気分になって、シナトは肩を下ろした。凍てついた視線の一つでも送りたい気分だ。
「貴女が俺を見てくれるなら、どんな視線でもいいですよ」
シナトの考えを読んだかのようにカサネが言った。
「勿論、嫌悪感を含んだ視線でも。貴女が俺を嫌って、俺の悪口を考えて、俺の事で頭をいっぱいにしてると思うと嬉しいです」
にこやかに言われ、最大限好意的に解釈しても気持ち悪いなとシナトは思ったが、カサネは相変わらず汚れを知らないような笑顔を絶やさないままだ。
「嫌いになりましたか?俺のこと」
「いや、ならないけど……」
「ふふ」
何故かカサネが笑った。
「愛してますよ、シナトさん」
薄い唇が紡ぐ軽薄な愛の告白に、ふと、シナトが表情を改めた。
「カサネ」
「はい」
「そういう言葉遊びを老若男女、至る所で垂れ流しているようだけど」
「うん?」
カサネが小首を傾げて見せる。人懐っこい笑顔もつけて。
「気を付けな?本気にする人間がいれば傷付けることになる。それに恨みを買うことだってあるんだからな」
「んー…」
カサネが川底の砂金を見つけるような慎重な目でシナトの顔を覗き込んだ。
「嫉妬じゃないなぁ……」
「心配している」
「誰を?」
「カサネを。刺されても自業自得な気もするけど、普通に心配もする」
「……」
考え込むように白い指で顎を撫でる姿は、やはり彫刻のように美しい青年であった。
「シナトさん、愛してる」
性懲りもなくカサネが言う。
「だから…」
「愛してる。本当ですよ。俺は貴女のことを目に入れても痛くないくらい可愛いがっているんだけどな」
「祖父母か」
「本当に目に指を入れてくれても構わないんですよ?」
この世で最も軽薄に、魅力的に、カサネが微笑んだ。
「この目が最後に見る景色が貴女の指先だなんて、最高の幸福じゃないですか」
「カサネの言動って本気だったら怖いし、冗談だったらスベってるよな……」
半ば本気で心配すると、カサネが今度は少年のように声を上げて笑った。
昔。
異形と呼ばれるもの達が蔓延っていた頃の話である。
鬱蒼とした森に囲まれ、更に周囲を山脈に取り囲まれるようにして、その小さな国はあった。滅多に陽の光が射し込まないことから、周辺の国からは『太陽に嫌われた国』と呼ばれ忌み嫌われていた。
しかし太陽に嫌われた国は、それ故に闇を住処とする異形からは寵愛を受けたらしい。
もはや本当の名前は誰も呼ばない、忌まわしい名前の国は、異形が支配する国であった。
そんな国を勇者と聖女が訪れたのは、頭上の空が一際暗い冬の終わりのこと。
彼らは自らを神の使徒だと言った。
勇者は荒廃した街を見て怒りの咆哮を上げ、聖女は痩せ細った子供達を見て涙を流した。
その温かい涙は見る者の凍った心を溶かし、心の奥底にまで染み渡り、諦念とともに横たわっていた希望を呼び起こした。
そして勇者の怒りは延焼を繰り返してどこまでも燃え広がり、やがて国民の総意となった。
国民は勇者と聖女とともに、武器を手に立ち上がった。
勇者が剣を振るえば炎が舞い、その灼熱の腕で異形を抱き締めた。人々を震い上がらせていたはずの恐ろしい存在は、断末魔の叫び声すらことごとく灰となって消滅した。
聖女の涙はいつしか雨となり、大地に降り注いだ。それは人にとっては恵みの雨であったが、異形にとっては死の雨となった。雨に打たれた異形は、まるで泥人形の如く溶けて消えたのだ。
怒号と殺意が国土を覆い、悲しみと祈りが大地を洗い流した。
そして。
いつの日にか埋めた希望の種が芽吹き、自由が、歌が、笑顔が、愛が、花開くことになる。
やがてその国は『神に祝福された国』と呼ばれるようになった。
そんな勇者と聖女の逸話から幾星霜、かつて二人が救ったという国では勇者を始祖とする炎の一族と聖女の先祖に持つ水の一族が栄え、今も異形の者共から国を守っている。
この教会は水の一族が創設した組織であり、悪を討伐する事を目的としている。
一族の人間だけでなく術力の高い一般人も積極的に勧誘し、術者として育成しているので今年聖職者となった者だけでも100人近くいるではないだろうか。反対に炎の一族は炎操術を門外不出の秘術としている。
水の教会では特級、一級、二級上、二級、三級、四級という順に階級を分けており、これは経験や人格、異形討伐の実績などによって決められる。
上の階級に上がり、多くの部下を従え、異形をより多く祓う事、これが聖職者にとって誉れとされている。
…らしい。
シナトは水の一族の当主の娘である。歳はもうすぐ22。階級は三級神官。本来その生まれであれば若年であっても二級神官以上の階級で、数多の部下を引き連れ、第一線で悪と戦っているのが普通である。
…らしい。
らしいのだが、何せ教会という場所に足を踏み入れまだ半年と経っておらず、おまけにシナトは生まれつき術力が少ないのだ。四級神官にも劣る。さらに面倒な事情…一言で言えばシナトは当主の愛人の娘なので、取り扱いに困ったのだろう、色々たらい回しにされた末、この窓際部署と呼んで差し支えない狭い部屋でカサネと顔を付き合わせているという訳だった。別にシナトは誰の部下にも上司にもなりたくなかったので全く不満はない。
とりあえず今の所は当主から投げられる雑多な任務をこなす毎日だ。
シナトの母は正確に言うと愛人ではなく、当主が結婚前に付き合っていた恋人なのだが、何度訂正しても妾腹と言われるので面倒になって最近は放置している。
カサネに関しても彼があまりに美貌の青年であるので、様々な臆測を呼んでいるらしいのだが放置しているのは同様だった。
唯一の部下であるカサネは血の繋がりはないが、シナトにとって身内のような存在だ。5年前母親と暮らす森にカサネが迷いこんできたのだ。いくあてがないと言うので、家にいればいいと提案してから早5年。半年前母がこの世を去った時、それを切っ掛けにカサネも出ていくかと思ったものの、彼は出ていかなかった。
部下といっても聖職者としての経験はカサネの方が長い。母親の遺言で聖職者を目指したシナトより一年ほど早く法衣を纏っていた。シナトより術力も随分高いのだし、本来カサネが上司であるべきだ。勝手に決められて不服はないのだろうかと思うが、カサネはいつもシナトの顔を見てニコニコしていてよく分からない。
『シナトさんの傍以外、帰る所なんてないよ』
この5年間ずっとそんな風に嘯くこの青年であるが、別に記憶喪失ということではない。自分がどこから来たかはっきり覚えているが、あそこには帰る場所はもうないと言う。彼の年齢についてはもっとあやふやで、
「シナトさんのタイプが年上なら24歳、年下好きなら20歳にする」
とふざけたことを言っている。シナトは多分20歳前後ではないだろうかと思っているが、時々…いや、やっぱりよく分からないなとシナトは思う。
勿論この顔なので男女問わず興味を持たれることが多く、かつ好奇心に任せて誰にでもホイホイ着いていく男なので、度々外泊しては数週間帰ってこないこともざらにある。しかし誰もが鳥籠に入れたがるこの美しい鳥は恋であれ好奇心であれ長続きしないのか、いつの間にか舞い戻り、気が付くとシナトの傍らで羽を休めている。今もまた短い休息期間のようであった。
「それで?それは何」
カサネの机の上に無造作に置かれた茶封筒を眺めやって、シナトはお世辞にも機嫌がいいとは言いがたい声を出した。しかし別に怒っているというわけではなく、機嫌が良くても大体こんな声である。
「ああ、そうでした。俺、貴女のお父様から仕事を頼まれたんです。これ渡しておいてくれって」
「仕事なぁ……」
カサネの差し出す封筒を受け取りながら、シナトは眉をひそめた。
シナトの父親ということは水の一族の当主、この教会の教主だ。これまで数回しか会ったことのない父親を脳裏に思い浮かべながら茶色い封筒を受け取る。
カサネは時々ふらりと姿を消して、いないなと思っていると教主からの仕事を持って帰ってくる。
「偶々廊下でお会いして」
教主という立場の人間に偶々廊下で会えるのだろうか。少なくともシナトは会ったことはない。
「すみません、俺が受け取ってしまって。お父さんに会いたかったですか?」
「いや……別に会っても会わなくても、それはどっちでもいいんだけど…」
強がるでもなくシナトが答える。
周囲からはどう思われているか知らないが、シナトにとって数回しか会ったことのない父親は父というより上司であって、それほど複雑な感情を抱いているというわけではなかった。
森で母と二人きりで暮らしていた子供の頃から今に至るまで、父親の立場のせいでそれなりに散々な目にあってはいる気はするが、シナトの中にとぐろを巻くドロドロした黒い感情はない。むしろ父に対する感情を色で説明するならば、それは無色透明に近い。
きっと母が命が尽きるその時までただの一度も父に対して文句も恨み言も言わなかったからだろう、とシナトは思う。
何事であろうとも微笑んでみせ、華麗に流していた母。
母が黒い感情に囚われないようにという意図を持って子育てをしていたのであれば汲みたいというのがシナトの考えである。
なので父から渡されたという封筒を見てシナトが眉をひそめたのは別に父親を恨んでいるからという理由ではない。
「なんか変なのが入ってるな」
受け取った封筒を開けてもいないというのにシナトは不機嫌に断定した。カサネが微笑む。
「何が見えてるんでしょうね、貴女の目には」
「開けたくないな。開けたら吐きそう」
「じゃあ俺が開けてあげますよ。吐いてもいいですよ。見たいな?苦しそうにむせる所も、涙を滲ませる所も、あと汚れた…」
「あ、結構です」
「遠慮しないで」
椅子から立ち上がったカサネがシナトの背後に回り込み、抱き締めるように手を伸ばし封を開けた。開けた途端、我知らず仰け反ってしまい、後ろにいたカサネに頭をぶつけてしまう。少し屈んでいたのか多分肩に後頭部が当たった。
「ごめん」
振り返って謝るとカサネはにこりと微笑んだ。
「いえ。気持ち悪いですか?背中擦ります?」
「平気」
「そう、残念。おっと間違えました、良かった。何でしょうね?コレ」
封筒から出てきたのは小さな透明の袋に入った白い錠剤だった。つまみ上げたそれを眺めながらカサネが首をかしげた。
「薬かな?薬ですね。俺、飲んでみます?」
「何でだ。飲むな。何かあったらどうする」
「何かあったらどうにかするのは俺じゃなくてシナトさんですよ。とりあえず人工呼吸してくれますか?心肺停止してなくても」
「しないから飲むな」
「今度は残念。錠剤の他に入ってるのはこれだけですね」
渡されたのは数枚の書類だ。
錠剤の入った袋は爪でつつくようにして机の端に遠ざけつつ、文字の羅列にさっと目を通す。内容は勿論今回の仕事についての詳細だ。
「昨日未明、男性3名が花柳街の路地裏で倒れてるのが見つかった。発見時は1名は意識があったが現在は3名とも意識不明の重体。獣の爪のようなもので皮膚を切り刻まれており、顔も判別不能な状態だった為身元はまだ分っていない……。ああ、今朝の新聞の通り魔ってこれか。……この錠剤は近くに落ちていたもので、発見時意識があった青年が言うには犯人が落としていった物だ、との事。ちなみに彼らが倒れていた付近では最近若者グループの間で妙な噂が出回っており、それは」
「術力を強化する薬が買える?」
シナトが振り返った。
「知ってた?」
「最近ね、酒場の噂で聞いたんですよ。その時は眉唾物の笑い話だっけど、本当だったんだ?」
「さぁ。……この薬の成分については調べている最中で、まだよく分からない。ともかくコレについて調査しろと」
「なるほど?」
「酒場で聞いた噂っていうのは?」
「んー確か……」
カサネの指先が顎をなぞる。答えが返ってくるまでにそれほど時間はかからなかった。
「ああ、酒場のマスターが言ってたんです。最近若い子達の間で合言葉みたいに交わされる文句がある。曰く、月のでない夜に闇の囁きに応えてみるといい。そうすれば人智を越えた力が手に入る」
「つまり新月の晩に売人がウロチョロしてるってことか。滅茶苦茶怪しいだろう。誰が釣れるんだそんな文句で」
「そうだなぁ……素直な、扱いやすい人が釣れるんじゃないかな、きっと。ああ、昨晩は新月でしたか」
シナトが後ろを振り返ろうと顔をあげたが、一瞬早く、カサネの手が動いた。ピンっと髪が引っ張られて、シナトは中途半端な体勢で停止を余儀なくされる。
シナトの長い灰色の髪を一房とらえ、カサネは目を細めた。
「毛先が痛んでる。今度の休み、切ってあげますよ。俺に髪を触られるの好きでしょう?」
「いや、好きでも嫌いでもないけど」
「ええっ?」
「どういう反応……」
「だってね、シナトさん。髪を切るってことは、頸動脈の近くで刃物を構えて髪を切り落とすってことですよ?俺が一番安心して任せられるでしょう?」
「いや……」
「ん?あれ?貴女じゃないか。つまり安心するのは俺ですね。貴女の首筋に赤の他人が刃物を当ててると思うと俺が不安になるんです」
「……」
「こう言うと、貴女は次も俺に切らせてくれる。そうでしょう?」
シナトが鬱陶しげに首を振ると、カサネの指から灰色の髪はするりと逃げた。
ふわりとカサネが笑う。
「ねえ、シナトさん。薬を作る人間、売る人間、飲む人間。誰の気持ちが一番分からないですか?」
本題から飛んでいた話が急に近くまで戻って来た。
「全員分からんけど」
「ふふ。まぁ、他人を完全に理解することなんて不可能ですよね」
「全く理解できない人間もいないけどな」
「へぇ」
「とにかく、これ以上流通する前に作る奴も売る奴も買う奴も全員捕まえればいいんだろう」
シナトは椅子から立ち上がった。