姨捨〜山に捨てられてた伯母の話〜
おやお坊さま。こんばんは。今お寺におかえりですか?
こんな山の中で、老婆が何をしているのかって?
そうですね。月を見ていたのですよ。今夜は本当に月が明るい。
天からお迎えに来そうな夜ですね。
いいえ。狸や狢ではございませんよ。きちんと、人から生まれております。
信じておりませんね? では、人である証に、私の一生でもお話し致しましょうか。
そんなに面白い話ではないですし、お坊さまに聞いていただくほど深刻な話でもございません。しばしこの年寄りにお付き合いくださいな。
私は山の中で生まれました。細かいところはもう年で忘れてしまいましたけど、幸せな暮らしだったはずですのよ? 両親と、弟と、山の麓で暮らす人たち。いつも仲良しではないし、喧嘩もしたけれど、楽しく暮らしてましたとも。
ただねぇ。ご縁がなかったのか、嫁にもらってくれる人はいなかったのよ。
そりゃ、天女さまみたいに美しいわけでもないですから、簡単に結婚できるとは思ってなかったけど。
あら、そんなことない? 優しいお坊さまですね。でも、いいのよ。こんな腰の曲がったお婆に。
どこまでお話し致しましたっけ?……あぁそうそう。姉の私に反して、弟は良いご縁に恵まれてねぇ。幼馴染の女の子と、すぐに身を固めて結婚いたしましたのよ。
結婚して翌年、男の子も授かったんです。
それがまぁ可愛らしいこと。蓮の花みたいに白い肌で、この世のものとは思えないほど柔らかくて暖かくて。私の甥は、前世は天女さまに違いないって思いました。
男の子なんだから、天女さまはおかしい?
……まあ、そうですわね。でも、産んだわけでもない私が言うのですから、可愛らしさは並々でない事には違いありません。そう思いませんこと?
……何か言いたいようですが、言わずともよいですわ。続けましょう。
でも、そうですね。産んだわけではありませんが、育てたんです。
えぇ。義妹はあの子を命懸けで産んで亡くなり、まるでその後を追うように、弟も谷から落ちて。
家長を失ったために、隠居していた私の両親は塩をかけたナメクジみたいにしおれていきました。すぐに2人とも死んでしまい、私と甥が取り残されてしまいまして、本当に悲しかった。愛別離苦とはまさにこの事ですね。
それでも、麓の人たちの力を借りて、なんとかかんとか暮らしたんです。あの子を背負いながら小さな畑を耕して、子守唄を歌いながら糸を紡いで。その甲斐あって、こんな年寄りになった伯母の事も、大切にしてくれるいい子に育ったんですよ。立派に育ち、お嫁さんも迎えるようになりました。
本当にいい子に育ったんですよ。
今日だって、畑から帰ってから
「寺でありがたい法要があるから、一緒に行こう」
と言って、大切に運んでくれた。
あの子の背中は本当に大きくなりました。こんなエビのように腰の曲がった伯母を背負って、あまり揺らさないように運んでくれるんです。いつもそうして山を登ってくれるのですよ。
私は本当に幸せです。嫁ぐ場所もないのに、こうして子供を育てることができて。
もう思い残すことはございません。あとは、お迎えを待つのみです。
……そんなお顔をなさらないでくださいな。
わかっておりますのよ?
いくら今夜の月が明るくたって、普通は夜中に出歩いたりしない。
どこの寺も、法要なんてやっていない。
あの子はもう、私のことなんて大切にしていない。
私はあまり賢くはないから、ついに気がつかなかったのです。
山の麓で育ったあの子の嫁が、私のことをあまりよく思っていないことも。
あの子にあることないこと吹き込んでいたことも。
私は山奥に捨てられるということも。
いいえ。気がついていました。気が付かないふりをしていただけでした。
いつからでしょうか。
「あの子はいい子だ。優しい子だ。立派な子だ。私が育てたんだから、間違いない」
って、暇さえあれば、胸の中で唱えていたんです。
あの嫁から雑な扱いを受けても、気が付かないように。
山の木々が芽吹いても、家の裏の桑の実を摘んでるときも、木々の葉が色づいても、それが落ちるのを眺めているときもずっと。
お坊さま、今夜は本当に月が明るいですね。
それを理由にしても、ここまで高い場所に運ばれて、あの子に降ろされたとき、とうとう気がつきました。
今生の別れなのに、あの子は振り返らずに山を駆け降りていきましたから。
私は愚かなことに、まだ信じていますのよ。
「あの子はいい子だ」って。
まだ、心の中で、迎えにきてくれると思っていますのよ。
もう、夜も更けてしまっているのに。
あぁ、お付き合いくださりありがとうございます。
もうお行きください。私のことはこのままにしてください。
先ほど申し上げたように、もう思い残すことはございません。
この場所で、こときれるのを待とうと思います。
……おや? いかがいたしましたか?
お坊さまは、今朝夢を見た?
若い男が、山の中で人を探している?
あの子が私を迎えにきている?
……あぁ、そうだったのか。
今生の別れではなかったのか。