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私のヌーボー

作者: スヌー

昔書いた物ですが、最近発見したので、載せようと思いました。誤字脱字あるかもしれません。

楽しかったらコメントくださいませ。

 小学生の頃に鬼を見てから、私は生き物ではない妙なものを見るようになった。

 私としては正直、見るなら断然妖精の方が良かった。

 よく話に聞く小さいおっさんなんかが、例えばお風呂場で体を洗ってる最中に現れたってむしろドンと来いだったし、他に妖精以外で何か見えるのなら人のオーラとかが良かったといつも思っていた。

 だけどやっぱり思い通りにはいかず、どこかひねている天邪鬼のようなものが、現実らしさなんて言えるのかもしれない。

 私に見えるのは「真希ちゃん……真希ちゃん」と私の名を呼びながら部屋のエアコンから顔を出す貧相なおじさん(しかし高田純次似)だったり、教室や下着売り場とか場違いな所に現れるボロッボロのラッパをぶら下げた兵隊さんだった。

 つまりは幽霊だけだったのだ。

 だから幽霊ではないそいつと会った時、いつもと違う感覚に私は、また鬼の再来か?なんて怖気づいたものだった。

 幽霊が見え始めた頃の私は精神的に参ってしまい中学に入ってもまだ父と一緒に寝ていた。

 父の学生時代から長きに渡っての彫刻趣味は、私が執拗に嫌がったため途絶えることになった。

 私が嫌がったのはもちろん鬼が現れた原因が父の彫った面にあると考えていたからだ。泣く泣く彫刻を辞めた父は少しして病気になってしまったので、あれはあれで父にとっては生きる活力だったのだろう。しかし病気になると分かっていても私は必ず父の彫刻を辞めさせただろう。

 私が幽霊が見えると言うと家の周りは囲いのように盛り塩だらけなった。

 母がもともと信仰色の強い村の出だったため昔から幽霊の類が苦手だったのだ。

 隣の家のおばさんに尋ねられた母親が「うちは食べ物を扱うから一匹でもナメクジがでたらいつも塩を蒔くの」なんて言い訳してたのを私はずっと覚えている。

 今でこそ、中島みゆきの歌みたいに「そんな時代もあったね」と笑える話なのだが、その頃の私たち荒沢一家は本当に危うかった。父は肺を悪くして一時入院し、弟は登校拒否、娘の私は幽霊に怯えていた。そして、それらのせいで母は少し精神を病んでしまい、挙句ただ自転車を崇めるという近所の変な宗教に入る寸前だった。

 なぜ自転車?と思ったものだが、後の母曰く、「忌み嫌っている自分の田舎が大蜘蛛を崇める信仰だったから、命あるものよりも無機質なものを崇めたかっただけ」ということだった。とはいえ、そういう理由を聞いた所で私たちの「だからと言ってなぜ自転車?」という疑問はもちろん消えなかった。さらに言えば母の田舎が大蜘蛛を崇める村だったという、ついでのようにされた告白にも私は少なからず衝撃を受けていた。そういえば母は確かに蜘蛛を異常に怖がっていたのだ。

 そういうこともあって、うちはめちゃくちゃだった。今ではちょっとやそっとことでは、びくともしない肝っ玉の据わった家になったんじゃないかと思う。

 私がそういう危うい時期を乗り越えたのは中二の夏だ。

 退院したての父と嫌々ながら女子プロ観戦に行って以来、私はすっかりそのバトルに魅了されてしまった。強い女同志の戦いというものにハマったのだ。

 女子プロは美しい。

 男より男らしいし、いさぎが良い。男の男らしいは、なんだかカッコつけた感じが少しあって胡散臭いが、女の男らしいはかっこいいと思った。

 それに筋肉の付いた肌は男よりも滑らかで光っていて、普通ではなく、なぜか気高くわたしには映ってそれも美しいと思わせた。

 何故こんなにも女子プロに魅了されるのか自分でも不思議だった。

 初観戦の日は、なんでだろうと家に帰って、興奮のさめやらない頭で色々考えたもだ。もしかして自分はレズビアンなのかと一瞬考えたこともあったけど、これこそ、そんな時代もあったねと笑えるエピソードの一つだ。でもそういうことじゃなかった。簡単にいえば私は逃げていたのだ。

 幽霊の見える環境から抜け出したいと毎日心の内で嘆いていた。父の隣で布団を頭までかぶって眠ってしまうまで、朝が来るまでずっと嘆いていた。

 私はか弱かったし、無意識に自分を型にはめて生きていたと思う。

 女子プロを観てそれに気付かされた。

 どこかに「女だから弱い」なんていう卑怯なズルさが踏ん張りどころでいつも内在していた。

 自分の性格の根底に巣食う男性に守ってまらえる「女の美徳の嫌らしさ」に気付いた。別に女子プロレスラーのようじゃなくとも、芯の強い女性はいっぱいいるし、私が女らしさを誤解していたのだ。

 その気付きは立ち向かうことをしなかった私にとってとても大きなものだった。

 私は昔から叶うことはない兄という存在を欲していたのだが、それだって守ってもらいたいという単なる逃げの表れだと気付いた。

 父と一緒に寝るのもあっさり辞められた。

 夏の終わりには高校も行かず女子プロの道を歩もうか真剣に悩んだ。だけどいくら食べても私の体は一向に大きくはならなかった。食も骨も一貫して細いし、いくら鍛えようとしても筋肉がつく前に力尽きるは、動けば脂肪がなくなるはで、こりゃ向いてないとその道をすぐに切り捨てた。潔さも私の求める男らしさだった。

 それで再び目標が手持ち無沙汰になった私は芸大出の父の遺伝もあってか絵ができたのでその道を目指すことを決めた。

 思い立ってすぐに帰宅部から美術部に入った。

 前から憧れていた油絵をやってみたけど、私にとってはいくらヒビッドな色を塗りたくってみても静か過ぎて、というかどうやっても、自分の内面と現段階の技術とが釣り合わなくてすぐ飽きたのだと思う。私の内面は女子プロのような熱いものを求めていたから。それで今はペインティングナイフで躍動的に描くのにハマっている。なんだか名前の「ナイフ」の部分に女子プロに繋がりそうな攻撃的な響きもあったし、絵に力がこもる気がして好きなのだ。

 私は大好きだった神取選手を描くのにハマった。全く、炎に囲まれたリングの上の勇ましい女なんて誰が描くのだか。だがそれが故に私は熱中していた。


 うちの部は部員ばかりではなく顧問まで幽霊顧問なので、この三ヶ月間で名前は名簿で知っていても、私もまだ顔を見たことのない人もいた。だからいつもだいたい決まった数人で各々自由に描いている。私の他によく来るのは同じ二組の優子と、三組の幽霊部員、ではなく残念ながらいても幽霊のような無口な白川という男子だ。しかもこの男子は裸婦しか描かないというエゲツのない趣味をしている。私とその男子はお互い干渉し合わない。優子とて彼と会話しているのを見たことがない。

 考えてみれば裸婦しか描かない者もいれば、かたや女子プロばかり描いている者もいるとは。うちは人数は少ないが、案外個性溢れるの部なのかもしれない。しかし部内でのコミュニケーションはないに等しい。口をきくのは私と優子くらいなもんだろう。

 かといって別に楽しくない訳ではない。絵は一人で描けるものだし本気で絵に向かいたい私としてはこの環境の方がありがたかった。


 雨の日は湿気でキャンパスの張りが緩むから、梅雨入りしたここ最近の私は絵は描かずに、晴れた日に向けてキャンパスの布を刺しては帰宅していた。そうすると晴れた後日にはピーンと布地が張るのでキャンパスに向かう方も興がのる。

 私がそいつに遭遇した日も大粒の雨が降っていた。

 いつも通う登下校の道には小さく古い祠がある。その道は短い竹林と田んぼに挟まれていて、祠は竹林ちょうど終わりの所にぽつんとあった。

 私はその時何か考えごとをしながら帰っていたのだが、ふと前方の祠だけが周囲とは浮いたようにおかしく見えて立ち止まった。

 また幽霊かと思った。

 しかし幽霊というのはむしろ気付かないくらい周りと同調しているか、足か体の一部が消えている(なぜだか知らないが幽霊は本当に足から下のないものが多い)かなのでいつもの幽霊とは違うように感じた。

 近くまで来てみて、浮いたように見えたのは、祠の前だけ雨がきれいに消えているからだと分かった。その瞬間、雨音に混じって

「おいらが見えるのかいなぁ?」

 と声がした。

 私は慣れていたから特に臆することもなかった。

「あなた幽霊?」

「ふふふ、違うよ」

 そうだろう、幽霊とは何かが違うのが私には分かる。

「幽霊なんかじゃないなぁ」と黙ったままの私にまた声がした。

 そいつが喋ると、どこに口があるのかが徐々に分かっていった。そして口が分かると次に小さな鼻の形や目がぼんやり見えはじめた。焦点はあっているのに立体視をしているような奇妙な感覚だった。雨はその部分だけ消えていると思っていたのが、よくよく見ると、そいつに当たっているから雨粒がそこで消えたように見えたらしかった。

 こいつが透明だったから、そんな風に見えたのだ。なんとも不思議な存在だ。未知なる遭遇を今、私はしていると思った。

 しかし幽霊じゃないとするなら……と考えると私の胸は騒ついた。

 まさか鬼では、と思ったのだ。

 それで私が恐る恐る「……鬼?」ときくとそいつも「鬼?」ときき返した。

「鬼じゃないの?  よく見えないの」

「鬼なんかじゃないなぁ。あいつらは天敵なぁ」

「じゃなんなの」

「ヌーボーなぁ」

「へ?」

「ヌーボーっていうのなぁ、おいら」

 私は言葉を失った。

 ヌーボーって何。変なの、おかしみたいな名前。

 確かに幽霊ではない。かといって鬼でもない。鬼は絶対にこんなにフレンドリーじゃないし、変な喋り方もしない。

 幽霊でも鬼でもない者。

 とすると……。

「もしかして……妖精?」

「妖精?  ふんふん、そうかもわかんないなぁ」

 そう聞いて私は途端にワクワクしだした。

 やっとこさ出会えた!

 妖精だ。

 私が待ち焦がれていた妖精だ。

 こんな所でこんな形で遭遇するとは。

 これから自分はこの未知なる生物と時々ここで会って大きくなる。釈由美子はお風呂場に現れた小さなおじさんをお湯で排水口に流したらしいが私はそんなことしない。

 学校や日々のことを相談したりなんかするんだ。私の想像は一瞬にしてそんなところまでいっていた。

 私はヌーボーのことを色々聞きたくてしょうがなかった。

 だけど、話してみるとヌーボーは生まれたてらしく、自分のことをあまり知らなかった。いつもここにいたらしいのだが、夕方の雨の日じゃないと、喋ることはおろか姿も形成されないという。

 私はもっと話したかったのだが、私に質問をたくさん浴びせられて疲れたのか一言「もう行くなぁ」と言ってヌーボーはどこかへ姿を眩ませてしまった。

 今しがたまでヌーボーがいた空間は降りそそぐ雨で全て埋まっていた。


 翌日クラブも行かず祠へ直行するとヌーボーはちゃんとそこにいた。

 今度はあまりヌーボーのことを詮索せず、友好関係を築くため私は自分のことをたくさん話した。

 ヌーボーは人間と話す機会をこれまで一度ももたなかったようので、私の話をとても興味深そうに聞いてくれた。

 私は中間テストのことや、ワッタンというクラスの男子がルアーの針を後頭部に引っかけたまま登校してきたこと、私服を着て来てもいい遠足で、一人だけなぜか学校指定のジャージで来た違うクラスの男子のこととか、クラブの白川という男子部員が、無口なのに裸婦ばかり描いていることなど身の回りの思いついたことをどんどん話していった。

 気付くと二時間近く経っていて、この間、私はずっと取り止めもなく話していたのかと自分でも驚いた。

 ヌーボーがまた聞き上手で私の話に一々「それは腹が立つなぁ」とか「人間は面白いなぁ」とか返してくれるのでついつい話し込んでしまった訳だ。

 それでその日は私から別れを申し出た。

 少し離れて私は手を振った。そうするとヌーボーも振ってくれると思ったのに、ヌーボーは手がないみたいで何もせずただそこにいただけだった。

 次の日も雨が降っていて、ヌーボーはちゃんと祠の前にいた。

 ヌーボーを見つけると私は遠距離恋愛の相手に会った時のような感動を覚えた。そんな経験はないけど。

 その日の話は対ジャッキー佐藤戦の神取選手の男気溢れる記者会見に始まり、私がこれまで見たおかしな幽霊の話や実家の豆腐屋に来る顔なじみのおばちゃんの話、自分の家のことを話題に挙げた。

「ふーんなぁ。マキには弟がいたのかなあ」

「うん、六年生のね。今は普通に学校に行ってるけど、前は登校拒否っていって学校に行ってなかったのよ、一年も」

「いいなぁ、おいらも兄弟が欲しいなぁ」

「そうよね。ヌーボーはずっと一人でここにいるんだもんね、そりゃ寂しいよ」

「でもマキが来てくれるから全然寂しくはないなぁ」

 ヌーボーは私が言ってほしいことを素直に言ってくれる。

「……ヌーボーかわいい。私もヌーボーとおしゃべりすんのとっても楽しいなぁ」

 自然とヌーボーの口調が移ってしまった。

「はは、それおいらのマネなぁ」

 私たちは笑い合った。

 笑った後にヌーボーは言った。

「でも危ういなぁ」

「……ん?」

「離れた方がいいなぁ」

「え、何が?」

「弟だよなぁ」

「弟?」

「マキの弟はもう弟じゃないよなぁ」

 さっぱり言ってることが分からい。こんなことは初めてだった。

「弟じゃないって……どういうこと?」

「鬼だよなぁ」

 ヌーボーがそう言った時、私の思考はピタッと停止した。

 何を言ってるのか全く分からなかった。

「……おに?」

「そう鬼なのなぁ」

「待ってよ、鬼って、鬼の顔してるでしょ?!」

「ううん?  ……鬼に会ったことあるなぁ?」

「……うん」

「……なんで生きているなぁ」

「ちょっと待ってよ、なんで今頃鬼なの!」

「もう手遅れなぁ。すぐにどっかの山に捨てるなぁ」

 ……捨てる?

「鬼は一人でもいると、どんどん増えていくなぁ。だから手後れになる前に捨てるなぁ」

「……増えてどうなるの」

「皆一緒に、餓鬼道に堕ちるなぁ」

「がきどう?」

「マキの弟はもう鬼になる寸前なぁ」



 弟の颯は小学五年生のほぼ一年間、学校に行かなかった。小学生の登校拒否というのは珍しいのか、担任はもちろん初めは児童相談員と呼ばれる人も家を何度か訪れていた。その時の私はといえば、まだ急に見え始めた幽霊を恐れ、常に周囲に気を張っていた。

 だから颯が学校へ通うようになっても、彼に何のきっかけがあって学校へ行くことになったのか、いや、実は私はそれどころかなぜ彼が休み始めたのかすらも知り得なかった。

 聞きもしなかった。

 冷たい言い分かもしれないが私は私で大変だったのだ。正直いって弟どころじゃなかった。

 しかし休んでいた学校へ再び行くようになったからには、私が女子プロに救われたように、弟にも何らかの救いがあったのだろうと思う。

 私たち姉弟はそうして、お互いの抱えた闇を、お互いに干渉し合わないままに乗り越えたのだった。


 夕食になって、家族で食卓を囲みながら私は気が気でなかった。

 だけど颯はいつもの颯だった。

 風呂からあがった颯はおかしなところは全くなく、まだ梅雨の時分だというのによく日に焼けていた。

 私はヌーボーを思いながら、やめてよ、もう、鬼の片鱗もないじゃないと心の中で文句を言った。

「何?」

 私がじっと見ていることに気付いて颯が苛立ったように言った。

「別に。……あんたなんでそんな黒いのよ」

「外で遊んでるもん。プールも始まったし」

「ふーん……」

 会話はそこですぐ終わった。

 テレビではずっと歌合戦をやっていた。「あの人は今」に出てきそうな昔のアイドルを見て父が「この人ずいぶん老けたなぁ」と呑気に言った。

 食事が終わり私が風呂からあがると弟はすでに自室で寝ていた。

 弟の部屋にはノックするためのドアもなく代わりにスヌーピーの大きいタオルケットが仕切りになっている。覗いてみると弟はベッドに丸まって半裸で寝ていた。これから伸び盛りでまだ背は小さい。

 ……こいつが鬼になるなんて。

 もう知っている人が鬼に変化するなんて。あんな身の毛もよだつ思いはしたくない。

 私は自分の部屋で髪を乾かしながら、またヌーボーの言葉を思い出して変なこと言わないでよと軽く罵った。

 宿題を終わらせ、迫る中間テストに向けて苦手な社会を早い内に手を付けておこうと教科書の赤線をノートに書き出していく。

 明日の天気は曇りだったが雨は降らないのだろうか。

 ヌーボーに会ってから数日しか経っていないが私は前日に必ず明日の天気予報を見るようにしていた。

 それはきっとこれからも変わらないだろう。

 昨日までの私なら曇りという予報にがっかりするのだろうが今の私は嬉しくも落ち込みもしなかった。なんだかヌーボーに会うのが億劫だ。次に会った時何を話せばいいのだろう。

 弟が本当に鬼になるのか。

 寸前なんて言ってたけどそんな様子は全くない。私を怖がらせたいという思いでそんなことを言ったのかも。私が初めてヌーボーと会った時鬼のことを言ったからそれを覚えていたんだろう。そう願う。ヌーボーは子どもで生まれたてだからそんないたずら心をもってるのかも知れない。でも颯をこれからも観察していかなければならない。そういえばヌーボーは鬼を天敵だなんて言っていたけど本当は鬼のことなんて知らないんじゃないか。いや、でも増えるなんて言っていたし……。

 教科書を写しながら、そんなことをあれこれ考えいるといつの間にか時計は二時を回っていた。

 もう寝ようとベットに入ったが、まだ歯を磨いていないことに気付いて、私は洗面所へ行った。

 あくびをしながら洗面所のドアを開けると鏡の前に大きな人形が佇んでいた。

 私は声にならない悲鳴を上げ腰を抜かした。

 膝から崩れ落ちた私の恐怖心をさらに煽るように人形はゆっくりとぎこちなくこっちを向いた。

「……姉ちゃん」

 はっと正気づいた私が急いで電気をつけると、眩しそうに目を細める颯が目の前に立っていた。

「あんた……何してんの」

 颯は私が突然ドアを開けたことにも驚かず、今も放心した様子でいる。明らかに夕飯時の颯とは別人だった。

「……怖いんだ。ずっと頭の中で変な声が聞こえて、僕が僕じゃないような気がするんだ」

 その言葉を聞いて、自分の心臓が早鐘のように鳴るのが分かった。

 やめてよ。何でそんなこと言うの。

「怖いんだ。……ずっと前から」

 颯は弱々しく繰り返した。


 ——鬼だなぁ


 すぐにヌーボーの声が頭に蘇った。


「もう手遅れだなぁ」

「山に捨てるなぁ」


 気付くと私は抱きしめていた。目の前の、弟という個体をきつく。

 そうすることで、何かの拍子に抜け出してしまいそうな今の弟の中身を押し留めようとしたのだ。

 私の感情はまるでボールペンをクシャクシャに走らせたみたいに乱れていた。

 また鬼だ。あの醜く憎い鬼だと。

 鬼が今にも弟を奪おうと、見えないどこかから目を光らせているような気がしてならない。

 仲のよかった男の子が鬼たちによって奪われたように、またあの鬼が、今度は弟を連れて行こうとしている。

 腹がたった。

 私が守るしかないんだ!

 かよわい私なんかいらない、さようなら。

 今度は誰かじゃなく、私が、ちゃんと弟を守りきってやらなければならない。

 弟を抱き締める私の腕に自然と力がこもる。

「苦しい……」

 弟の声が耳元で聞こえた。

「あんたはいるの。いい?  あんた今、ここにいるのよ」

「姉ちゃん」

「私が抱きしめてる。あんたはいるのよ、ここに。どこにも行かないから、あんたも。……お姉ちゃんも。分かった?」

「うん……」

 淡い月明かりの中で私たちはそのままくっついてしばらく離れなかった。



 この日は曇ってはいたが、雨が降りそうになかったため、私はホームルーム後、久しぶりにクラブへ直行した。颯は家にすぐ帰っては来ないので、その間に絵に向き合いたかった。

 美術室へは一番乗りだった。雨の日に自分が張ったキャンパスを出そうと縦に並んだ画板を確かめて行く。

 白川君の描いた裸婦がその中にあった。二十代の髪を結んだ女性が裸で片膝を立て前のめりに座っている。女らしく細い体だが丸みを帯びているのが分かる。私は嫌悪感を抱きながらその絵を引っ込め、白のキャンパスを出した。

 今の私はいつも絵に向かっていた時ほど穏やかではない。静かな怒りがこもっていて、この感情を芸術へ向けても昇華しきれないであろうことはなんとなく予想がつく。

 しかし吐き出さずにはいられなかった。

 私はまず色に深みをもたすため黒の下地を画板全体につくってその上から赤を重ねて塗りたくった。

 油絵具をナイフで切るように走らせると赤が盛り上がり、炎のように荒々しく踊り立つ。

 私は何かを描こうと思いながら描いているわけではなく、自分の中のものを画板に、映写機みたいに映そうと思った。

 だからこれは抽象画になるはずだった。

 意図していなかったのに、なぜだか画板の中央寄りに人影があるように見えた。

 それが、果たして絵の中にあるのか、それとも自分の内にあるものなのか、描きながら自分でも区別がつかなかった。

 私は魅せられるがごとく、もっと浮きだたせようと焦げ茶とビリジアンを炎の中央に混ぜ合わせてみる。

 無心でどんどん色を重ねていく。

 そうすると今度は直感で、あぁ、これは私自身なんだと気付いた。

 私自身の置かれた環境。そして、そこで毅然と立ち向かわんと胸をを張っている姿を描いているのだと。それがなんだかいつもの神取選手と重なって絵が凛々しく思えた。

「なに。その絵……怖い」

 声に振り返ると、いつの間にか優子が後ろ立っていた。

「怖い?」

 私は心外に思いながら、再び画板に向き直ると、急なおぞましさに思わず持っていたナイフを投げ落とした。

 ほんの一瞬、燃えたぎる炎の真ん中に明らかな鬼を見たのだ。

 それはまるで地獄の業火からこちらへ歩み寄ってくるようだった。

「真希……大丈夫?」

 放心していると優子が心配そうに声をかけた。

 「……真希、ちょっと病んでたりする?」

「……本当ね、病んでるのかな」

「なんか悩んでるの?」

「ううん。でも……確かに今日は疲れてるのかも。……帰って寝ようかな」

「うん……」と心配そうに言いながらも、優子はいつの間にかナイフを拾い、布で丁寧に拭いて私を見つめていた。

「……後は片付けとくし、唐津先生には言っとくから。なんかあったら、本当に言いなよ……?」

「……優子、ごめん。ありがとね」

 私は笑顔で礼を言うと、優子に甘えて美術室を出た。

 優子は名前の通り優しい子だ。

 本当に親身になってくれているのが伝わってくる。

 でもあの顔は、一体何に思い悩んでるのか、本当は言って欲しそうだった。

 明日に話す妥当な理由をなんか考えなくちゃな。でもどうせバレるんだろうな、と家路を辿りながら私は思った。


 それからの弟は何かある度に私に甘えてきた。

 私は算数の文章題の宿題を分かるまで何度も教えてやったり、颯のクラスの悪ガキがやらかした火遊びのことなどを一緒の布団で聞いたりした。

 弟の変容ぶりには少し驚いたけど私も出来るだけ弟を一人にはさせたくなかった。

 そして皮肉にも、姉と弟の関係はこうあるべきなんだなと今更ながら知ることになった。私が求めていた兄の像を自身に置き換え、自分が望んでいたそのように弟に接した。

 今まで見せないくらい急に仲がよくなった私たち姉弟に両親は笑いながらも、段々、不思議なものを見るように傍観していっ、た。

 勘のいい母は「あんたたち何か隠し事でもあるんじゃないでしょうね」と疑った。

 しかし今さら隠し事なんて、私には何が隠し事なのかも分からないほどあるのに。

 弟が鬼に変わるかもしれないこと? 

 私がヌーボーと会ってること?

 そして、ヌーボーから「弟は手遅れだから山に捨てろ」と言われたこととか。

 だから私がそんな弟から常時目を離さないでいることとか。

 それらを全部口にするはきっと難しいことではないんだろう。だけど私はもちろん言わなかった。そんなこと言えるわけないのだ。ましてや私がそれ以外にも隠していることなんて他の女子中学生と同様、ざらにある訳で。


 学校へ行くのも煩かった私はかといって学校を休むこともできず、帰り道ヌーボーに会っては即、家で弟の帰りを待つという相変わらずの日常を送っていた。またヌーボーは鬼のことを聞いても、手おくれなぁの一点張りで私も前のように呑気に長話もしなくなった。

 この日、ふと、帰ってきたら颯をヌーボーに合わせてやろうと私は思いついた。夕飯時を過ぎて家に帰れなかったとしても母には何か適当に言い訳したらいい。

 雨の日の颯は友達の家で遊ぶ時以外は早めに帰ってくる。

 案の定、弟が帰って来たのはいつもより早めの五時過ぎだった。

 首を長くしていた私に連れられて、祠の前にやってきた颯の第一声は「雨が曲がってる……」だった。

「ヌーボーよ」

 私は言った。

「あぁはやてくんなぁ!」

 ヌーボーは颯だと分かると嬉しそうな声をあげた。

「真希ちゃん、ありがとうなぁ」

「え?」

「嬉しいな真希ちゃんの弟に会えて」

 颯の小学校と私の中学校は位置が正反対のため颯はここは通らない。

 ヌーボーに間違いだと言って欲しかった私は早速尋ねた。

「ヌーボー、もう鬼になってる?」

「姉ちゃん……何話してんの」

 颯は怯えたように私にくっつく。

「見えないの?」

 そう聞くと「また幽霊?」と私の影に隠れた。

「んー……思ったより大丈夫みたいだなぁ」

 ヌーボーは颯の反応を全く気にしていなかった。

「もしかしたらまだ間に合うかもなぁ」

「ほんと?!」

「明後日、一人でくるなぁ。もしかしたら間に合うかもなぁ。ヌーボーがまじないをかけるなぁ」

「明後日?  今じゃダメなの?」

「ちょうど明後日はお祓いにはうってつけのナゴシの日なぁ。その時、真希ちゃんは家の鏡を割るなぁ」

 なんだかよく分からなかったが鏡を割ると鬼が成仏するのかもしれない。

「分かった」

「間に合って良かったなぁ」

 私もうれしくなった。

「おまじないってすぐに出来るの?」

「出来るなぁ、真希が鏡を割った後、ヌーボーが息を吹きかけるだけなぁ」

 良かった。私は鬼のことを颯には一度も話していない。颯が怖がるし、鬼は自身が鬼になったことに気付くとよくないことは分かっていたからだ。

 颯は泣き出しそうだった。

「帰ろう!  幽霊なんでしょ」

「幽霊じゃないなぁ」

 ヌーボーは少し落ち込んでるようだった。

「ヌーボーの声聞こえないみたいね」

「残念なぁ」

 ヌーボーはそう言うと自分が怖がらせていると思ったのかすぐいなくなってしまった。

「颯が怖がるからどっか行っちゃったじゃない」

 颯はヌーボーがいたところをじっと見て「ほんとだ 」と言った。


 問題は颯をヌーボーのところへ一人で行かせることだった。

 私は翌日、美術室でキャンパスに向かいながら颯を一人で向かわせる方法を考えていた。描いていなければ落ち着かなかったのだ。

「……アマザラシ」

 背中でボソボソと声がした。私はどうやら絵に集中していると人の気配に鈍くなるようだ。優子ではない。聞き覚えのない声変わりしたて掠れた男の声だった。

 まさかと思い振り返るとやはり白川君が立っていた。裸婦の白川。初めて声をかけられた。

 驚いた私が「え?」と聞くと白川君は冷静に「ここ」と指をさした。

「あぁ、これ」

 それはかなり忠実に描けたヌーボーだった。

 しっとりと降りしきる白い雨の中、闇に浮かびあがるヌーボー。顔は雨のわずかな跳ね返りでうっすらと輪郭が分かる程度に描いている。白川君がまた口を開く。

「……知ってんの?  こいつ。アマザラシ」

「え? ……うん、まぁ」

 アマザラシ?

 知ってるには知ってるけどアマザラシってヌーボーのことを言ってるんだろうか。

「なんで?  荒沢さんも、もしかして見える人」

「も?  白川くんも見えんの、ヌーボー」

「ヌーボー?  ちょ、ま、待った。もしかして会ったことあんの?」

「え、うん、最近よく遊んでんの。ヌーボーっていうのよ。白川くんも見たことあるんでしょ」

 私は自分以外にヌーボーのことを知ってる人がいて嬉しかった。

「僕は……」

 しかし白川君は信じられない者を見る目で私を見た。

「見たことなんてないよ、ただ知ってるだけ。……そいつ今どこにいんの?」

「祠よ。帰り道にあるの……。ていうかすごいね、白川君、まさか見える人だったなんて」

 私の弾んだ声とは裏腹に白川君は呆然と立ったまま静かに説くように喋った。

「……荒沢さん、アマザラシはよくないんだ。というか、この世以外のものと遊ぶのは絶対ダメだよ。こっちと具体的な接触を持とうとするのは皆、悪い奴らなんだ。……騙したり、狂わせたりする」

 白川君のいつもの頼りない陰気な雰囲気ははどこかへいっていて、妙に話す言葉に説得力をもっていた。だけどそれは白川君が会ったことがないから分からないんだと思った。ヌーボーはそんな悪いやつじゃないのだ。

「ヌーボーはいい妖精よ」

「妖精? アマザラシは妖怪だよ。それも最悪の」



 白川君と一緒に祠へ行く間、私はヌーボーと過ごした数日について思い出していたが、やはり悪い妖怪とはとても思えなかった。白川君は私とヌーボーのこれまでのやりとりも力強く真っ向否定した。

 白川君の言うアマザラシとヌーボーとは何か違っているんだろうか。

「だから、そんなこと信じられない。アマザラシはそんな優しい妖怪じゃない」

「……でも、だって何もされなかったわ」

「もうされてるのかもしれない……」

 白川君は私をちらっと見ると、憂いを帯びた視線を遠くへ移した。

「アマザラシは獲物の深層心理に巣食うんだ。本人の気付かないところで虫歯むんだ。……たちの悪い妖怪だよ」

 嘘だ、ヌーボーはいい奴だ。私の妖精なんだ。

 しかしその時、そんな感情とは別の理性が私の頭の中で危険信号を発していた。


 ーー怖いんだ。ずっと頭の中で変な声が聞こえて、僕が僕じゃないような気がするんだ。


 ……颯が怖がっていた頭の中の声だ。

 まさか、あれはヌーボーが……?

 だとすればヌーボーの狙いは、初めから颯だったに違いない。

 私は祠へ向かう足取りを速めた。


 ヌーボーはいつもの場所にいた。

 白川くんも祠を見つけたと同時にすぐヌーボーが分かったようで私より先にいきり立って進み出た。

「お、お、お前、アマ、アマザラシだな」

 しかし白川君はヌーボーを前にすると途端に動揺していた。

「……ヨクシッテルナ。ソノナマエ」

 白川君に話しかけられたヌーボーの声はいつもの声とは全く違った。

「ちょっと! ヌーボー! どうしちゃったのよ、あなたヌーボーでしょ?」

 ヌーボーの声色は変わることなく冷たいものだった。

「マキハ、オニヨリツヨイ」

「……え?」

「ツヨイモノ二、テダシシナイ」

 ……手出してできないって、どういうこと?  何言ってんの。

「ヌーボー、本当に……騙したの?」

「モウオマエト、アソバナイ」

「ヌーボー……何で」

 私の目からは涙がどんどん零れていた。自分でも涙がこんなに出ることが、こんなに悲しくなるのが不思議だった。

 私を見ているはずのヌーボーの顔は読み取れない。

「ザンネンザンネン。オトウト、ウマソウダッタ」

 絶句した。

 ヌーボーはケラケラと軽快に笑った。

「うまそうって……。あんたまさか、た、食べるつもりだったの……?」

 私の声は震えていた。

「分かっただろう。こいつは最初からそのつもりだったんだ」

 ……こいつ、やっぱり初めから弟を狙ってたのか。

 私はこんな奴に騙されていたんだ。

「マキサヨナラ、モウオワリ、クイモノヨリ、ワガミダイジ」

 そう言うとヌーボーは奇妙な笑い声を残しその場から消えた。

「あいつ、逃げた」

「弟はどこにいるの?」

「弟? さぁ、知らない。家じゃない?  それよりもあいつーー」

「家?」

 と、白川君が語調を荒げた。

 やけに真顔だった。そして、その表情を見て彼が言わんとしてることが、何なのか私もすぐ分かった。

「急いで帰ったほうがいいな」

「……だね」

 ヤバい。颯が危ない。

 白川君が、あぁと思いついたように止まった。

「いや、家ならわざわざ帰らなくていいか、携帯は?」

「持ってないわよ」

 白川君はすぐ携帯を取り出した。

「あんたなんで携帯持ってんの?」

「今時持ってる奴の方が多いだろ」

「うそ、優子も持ってないし、まだ持ってない人の方が多いでしょ」

「んなもん、知らん。僕は友達いないから。ほら、貸すよ」

 携帯はぶっきらぼうに渡された。

「……ありがと」

 母はしばらく出なかった。私はコールの数だけ焦りが募る。母がでたのは七、八コール目だった。

「あら、真希? 何、どっから電話かけてんのよ」

 母の声の奥で揚げ物の音が聞こえた。

「お母さん!? 颯は? 今、家にいる!?」

「颯? さっき遊び行ったわよ。なんか、あんたの友達んとこって行ってたけど、なに、一緒じゃないの? 何かあった?」

「大丈夫、何でもない」

 私が電話をかけることなんて滅多にないため母は気掛かりそうだったが、それどころじゃない。

「私の友達の家に行くって言って出て行ったんだって。ねぇ、私の友達って誰よ!?」

「知らないよ。君の友達だろ。思い当たる節はない?」

「あんたと一緒」

「は?」

「私だって兄弟揃って遊びに行くようなそんな仲良い友達なんていないの!」

「……ふーん。じゃあアマザラシの仕業かもな……」

「颯……」

 今どこにいんの。何でこんなことになったんだろう……。

「学校行こうか」

「……うん」

「大丈夫だって。僕も行くから」

「白川君……なんでそんなに詳しいの?  妖怪だとか……あっ!」

 私たちの歩く道の先に颯がいた。雨で分からなかったがこっちに向かって歩いているのは確かにそうだ。

「颯だ」

「あの子?」

「どうしたんだろ、何で止まってんのかな」

「……何、いつもは人懐こいの?」

「うん……颯!  大丈夫ーっ!?」

「姉ちゃん」

 向かおうとする私を白川君が左手で制した。

「アマザラシをなめちゃだめだ」

「……どういうこと」

「分かっただろ、さっきので。あいつがどんな妖怪かさ」

「何?……また騙されーーまさか颯じゃないって言うの?」

「分からない……」

 目の前にいるのはどう見ても颯だった。これが颯じゃないとするのならどう見極めるというのか。

「何かそれと分かる合言葉みたいの決めてない?」

「決めてる訳ないでしょ、そんなの」

 そうこうしている間に颯は私たちの前

 まで来ていた。

「颯……あんた颯よね?」

「え、何が?」

「本物の颯?」

「……姉ちゃん何言ってんの?」

 そう、本当の颯だとしてもおそらく同じような反応をするだろう。

 じゃあ、これがアマザラシだとして……。颯しか知らなくてアマザラシが知らないことは……誕生日とか!  アマザラシは私の誕生日なんか知らないはずだ。

「私の誕生日は?  いつ?」

「7月……しか覚えてない」

「ちょっと!  確かめようがないじゃない」

「何がだよ。え?  姉ちゃんの誕生日いつだっけ?」

「言わないわよ!  颯なら覚えてるはずでしょ」

「覚えてないよ、二十三?」

「惜しいわね……」

「二十五!」

「離れてる、てかダメ。クイズになっちゃダメなの!」

「は?」

「怪しいわね。颯は私の誕生日くらい覚えてるわ」

「だって……姉ちゃんと仲良くなったの最近じゃん」

「……そうね」

 そうなのだ。そのことを言われると本物の颯だという気がする。

「じゃ本物なのね」

「本物?  そっくりさんに見えたの?」

「本物なら……良かった」

 なんだろう、この手放しで喜べない感じ。

 本当に颯、なのかな。

 疑心暗鬼だった。

 白川君も事の成り行きを見つめるように口を結んでいる。そういえば、颯は何でここに来たんだろう。

「ところで、あんた何で来たの?」

「……来ちゃ悪いかよ」

 そう言って颯はそっぽを向いた。

 ……おかしい。いつもの颯じゃない。いつもの颯は私をこんな風に突き放したりしない……。

「それは変ね……」

「何だよ、さっきから!  姉ちゃんがいないから、またここかと思ったんだよ、それに来いって言ってたしさ……」

「だってあんた怖がってたじゃない」

「だから!  姉ちゃんがいるって思ったの!!  もう何だよ!  何度も何度も!」

 颯はそう怒鳴り散らした。

 私は久しぶりに怒った颯を見てどうしていいか分からず、ただその様子を見ているらだけだった。本当の颯なのかも分からなかった。

 傘に当たる雨粒の音が急に大きくなった。

「……なんでそんな怒ってんのよ」

 私が間を置いて呟くと、颯は一息吐いてから、

「……その人誰?」

 と値踏みするように白川君を見た。

 急に自分に矛先が向いたことに動揺したのか白川君はわざとらしく空咳をした。

「美術部の白川……です」

 颯は傘をくるくる回し、前を向いたまま無愛想に「ふーん」と言った。

「あんた……」

 ……何、もしかして、颯の奴ヤキモチ焼いてんの?

 そう思うと私は可笑しくてとうとう笑ってしまった。

 前を歩いていた二人がポカンと私を見つめる。

 その時「あっ! あそこ」と颯が遠くを指差した。

 振り向くと、見るからに小学一年くらいランドセルを背負った小さなの女の子がちょうど角から現れたところだった。

「……何よ、あの子」

「じゃなくてほら! あいつ」

 そう言われても颯が何を言ってるのか全く分からなかった。

 女の子はピンクの傘をさしている。

 と、女の子が自分の右側を意識しながら泣きそうになっているのに気付いた時、ようやくその箇所の雨が丸く避けているのが分かった。

 ……アマザラシだ。

 見つけたのは私でも白川君でもなく颯だった。

 白川君はまた立ちすくんだ。

「こ、こんなところで……」

 アマザラシはあんな幼い子にまで手を出す気だ。

 これまでの喧騒のことも重なって私にはフツフツと怒りが込み上げた。

 そしてこの機を逃すものかと、持っていた鞄と傘をぶん投げ、目の前の弟を追い抜かし、白川君を突き飛ばすと、私は力強く地面を蹴った。

「てっめえぇぇぇぇッ!」

 そして女子プロさながらの怒声を上げながら、私はやっとこっちを見たアマザラシの脳天目掛けて、思いっきりドロップキックをかました。

 感触は硬いソファみたいで手応えはあった。女の子は向かってきた私にすぐ反応して、怖かったのか元来た道を走りながら引き返して行った。

 いきなり不意をつかれたアマザラシの方は「ブゴゥ」と低く鳴き、雨を弾きながら勢いよく吹っ飛んでいく。

 私は両手を着いて全身で着地しその様子を見ていた。

 アマザラシが失速しながら跡形もなく消滅してゆく。

 それを見ていた白川君が立ち上がりながら唖然として私の方へ向いた。

「信じられない……」

「姉ちゃんすっげー!!」

 颯は興奮のあまり傘もささず私の前で飛び跳ねた。

 白川君は水溜まりにハマったみたいでドロドロだった。

 私だって制服はもちろん頬からローファーまで体の側面は泥まみれだろう。

 私と白川君はお互いの泥に塗れた顔で見つめあっていた。

 狐につままれた顔をしているのは私も同じだろう。どちらともなく私たちは吹きだした。

 雨の中、傘もささず下着までずぶ濡れのまま私たちは声を出して笑った。颯は私と白川君の周りを飛び回っている。

 雨で張り付いたブラウスや生ぬるく湿った風がなんだか優しく包み込んでいるようで心地いい。

 この清々しい気持ちは何だろう。

 私は雨粒を顔に浴びながら曇天の空を見上げた。

 ……妖精や兄の虚像だとか思いを馳せては何かに頼りたいと考えていた弱い私が、なんだか既に遠くのことに感じた。

 その雨は私を根こそぎきれいさっぱり洗い流していくような、そんな浄化の雨だったのかもしれない。

ヌーボーは昔そんなお菓子あったなと思ってつけました。

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