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身を清めたブルクがそっと、藁が敷かれた土の中へと寝かされる。彼がずっと愛用していたパン作りの道具と共に――。
その上に訪れた人たちが一人、また一人と、藁をかけていく。
最後に、長い松明を持たされた悠馬が、促され、藁へと火を移す。
自分が何をしているのか、分かりたくなかった。
手に持ったままの松明を、傍に付いていたアダルにそっと指を開かされて、土の中へと落とした。
アダルと泣き続けているハンナに悠馬は手を引かれ、抵抗する意味も探せずに、悠馬は半ば引きずられるように、燃える穴の淵から引き離された。
生前のブルクの人柄なのだろう。多くの弔問客に見送られ、ブルクはその身を空と大地へ還した。
冷え切った体に、暖かな手を差し伸べてくれた人は、もう、どこにもいなくなった。
毎日が単調に過ぎる。
太陽が昇り、月が昇り、無数の星が瞬いて、また朝が来る。誰が居なくなろうが、当たり前に日々は過ぎていく。
雪の中、寒さなどお構いなしに子供たちは遊び、女たちは夫や恋人の為に毛糸を紡ぎ暖かな襟巻きを編む。仕事をして家に帰る男たちは熱いスープに目を細めるのだろう。
食べて、笑って、眠って、喜んで、泣いて、怒って、勉強して、恋をして、裏切って、寄り添って、義憤を感じ、哀愁を感じ、愛情を感じ、疲れを知り、安らぎを知り、人々は生を紡ぐ。
取り残されたのは誰だろう? この世界で、たった一人、違う存在なのは、異質なものは誰だろう?
悠馬が倒れたのは、ブルクが他界してから数日たった日だった。
「まったく! 馬鹿か君は?!」
コヒはハンナが用意した桶で手を洗いながら悪態を付いた。
どろっとした不味いとしか言いようのない薬湯を、顔を顰めながら飲み干した悠馬は、曖昧に笑って言葉を濁す。
唇と口の中が痛いが仕方がない。鏡を見たら白くなっていた。酷い口内炎のようだった。
「笑い事じゃない! 餓死する気か! 食べるものがあるのに栄養失調で倒れるなど馬鹿としか言いようがない! いい大人が何をやっとる!」
「はやい言葉は聞きとれない」
悠馬はそう返した瞬間、コヒに拳骨を落とされた。
両手で頭を押さえて唸りながら悠馬はコヒを見る。
顔を真っ赤にして怒っているコヒに、八つ当たりのような口答えをした事を悠馬は恥じた。
ベッドで膝を抱えて蹲る。
「薬のみます」
「薬だけじゃない。ちゃんと食べるんだ。病人でもない君にこれ以上は構えん……!」
「コヒ先生。それ以上は」
「ハンナ。君もだ」
コヒは止めに入ったハンナを振り返り、きっと目を見据える。
「関わるなら関わる。他人事ならその様に。中途な同情で人と関わるんじゃない」
「……っ。中途な同情じゃないわ。ユーマは大切なお友達よ。心配しちゃいけないの?!」
「心配するのは勝手だ。見守るしか出来ないのなら何もしてやれないのと同じだ。明日も往診にくる。食べていなければ病人として無理にでも入院させる」
ユーマと、コヒは膝を抱く青年を見る。
「ブルクは君が一人でもどうにか食べていけるように君を養子にしていた」
ゆっくりと話される、聞き覚えのない単語に悠馬は顔を上げた。
「ようし?」
「ブルクは君を、自分の子供にしていた」
言われた言葉を反芻する。
口を出そうになった言葉を、悠馬は飲み込んで押し黙る。
コヒは唇を噛む悠馬を見下ろして言った。
「食べなさい。どんな悲しい事があっても人はそうして生きなきゃならん」
両肩に乗せられた重い言葉に、悠馬は苦笑して答えるしかなかった。
俺が怖いのはそんなことじゃないと、叫びたかった。
***
ブルクのパン屋をいつまでも閉めているわけにはいかないだろうと思いはしたが、パンを作る気になれなかった。
悠馬は一人、町を歩いた。
思い立ち、以前ブルクと行った高台にある公園へ足を向ける。
天気は良いが、きんと冷えた空気の所為か、悠馬以外に人は誰も居なかった。
手足を投げ出して、枯れた草の上に寝転び目を閉じる。
冷えていく指先を動かすこと無く、悠馬はゆっくりと目を開けて、青い空を見上げる。
自分は何のためにこの世界へ来たのか。
それとも、日本での記憶がただの妄想なのだろうか?
悠馬は右手の中指を強く噛んだ。歯型に沿って、ぷくりと赤い血が流れる。生きている証拠に、この血はなるのだろうか?
怖いと、ただ子供のように喚けたら、少しは楽になるだろうか?
この世界で自分は本当に生きているのか……?
存在の違う自分にとってこの世界の空気は、もしかすれば毒かもしれない。食べるものも、何もかもが、毒かも知れない。
この世界は本当は存在せずに、自分が作り上げた幻想かもしれない。
いや、違う。本多悠馬という人間は存在せずに、誰かが作り上げた幻かもしれない。
自分はなんなのか、なぜここにいるのか、なぜ赤い血を流すのか。
なぜ――。
「ブルクは俺を助けたんだろう?」
亡くなった息子の変わりにも、させきれなかったというのに、なぜ自身の死後もあの場所で生きていけるように取り計らったのか。
日本に残した祖父を想う。
高校に入学した時、正座をさせられて話を聞かされた事がある。
家の、土地の権利書の事や、保険の事、事故死した両親が悠馬に残した物についてだった。
聞くのが嫌で堪らなかった。「何言ってんだよ? 馬鹿らしい」と、聞くのを逃げようとした。それでも祖父は許さずに、悠馬を見据えて話をした。もしも、孫を残して逝った時の為に、独りになった悠馬が路頭に迷うことが無いように、話をした。
話し終えた後、祖父勝則は豪快に笑って言ったのだ「ひ孫抱くまでは往生しねえからな」と。
それに苦笑しつつ「俺まだ十五だっつーの」と言い返した事を思い出す。
冬の空は日本もここも、雲が夏より高かった。と言ってもこちらの世界の夏は経験していなからなんとも言い難いが、凛とした空気の中、青い空を流れる雲は綺麗だと、そう感じた。
冷えた体に力を入れて、悠馬は上体を起こし胡坐をかいた。そして大きく口を開けて深く息を吸い込む。
立ち上がろうとした時、知った男の声で名前を呼ばれた。
アダル? と呼びかける前に左頬に痛みが走る。立ち上がりかけの体制で、バランスを崩して地面に尻を付いた。
「っ痛って……。なにすんだよ!」
思わず日本語が出たが訳す気もなく悠馬は、拳を握って立つアダルを見上げる。
走って来たのだろう。肩で息をしているアダルは、悠馬を見下ろして息の上がった声で怒鳴った。
「なにやってんだ! どこにもいないってっハンナが言いに来た。こんな所で! なにやってんだ馬鹿!」
「日本語で怒鳴れよ! 意味分かんねえだろうがっ!」
「言葉覚えただろ! ちゃんと理由を言え! 俺だってハンナだって、本気で心配してんだ! いつまでそうしてる気だ!」
言葉を覚えたといっても、早口で言われるとまだ半分くらいしか聞き取れない。言葉の分からないもどかしさは、今まで抑えていた分、苛立ちに変わってしまう。
殴られた事にかっとして、悠馬は立ち上がる前にアダルの脛目掛けて蹴りを入れる。
アダルは少しよろけながら悠馬を睨み、声を荒げた。
「おまっ! いつまでもめそめそしてんじゃね!」
アダルは身を起こす悠馬の胸倉を掴んで引き寄せる。反射的に悠馬もアダルの掴み上げた。
手に伝わる冷え切った悠馬の体温にはっとして、アダルはぎりっと歯噛みする。
睨み合った後、お互いに震える息を吐き出して手を離す。
その様子を少し離れた所で見ていたハンナは、両手を腰にあて、二人を交互に見やって言った。
「よろしい。そのまま喧嘩になってたら水かけてたわよ?」
「かんべんして?」
「ごめん」
謝られ、ハンナは大仰に「今回は許してあげる」と、頷いて見せた。
三人で連れ立って家に帰った。
直ぐに暖炉に火を入れて、火を囲った。
今までなら、アダルたちが来た時は何かしら作った菓子を出していたが今日は何もない。
茶葉の残りも、一人分ほどしか残っていなかった。家畜の世話はしていたが乳は採っていない。
「お湯しかない。のむ?」
「俺知ってるぞ。ブルクの秘蔵の酒ある場所」
「ちょっと、飲んでいいの?」
「いいんじゃね?」
と言ってアダルは台所の床にある貯蔵室を開ける。
そういえば何かあったなと、悠馬はアダルが取り出した瓶を見て。
「それつよい。やける」
「温まるぞ。ハンナは湯で薄めて飲めよ?」
「飲まないわよ」
「あらま残念。んじゃ、ユーマと俺だけな」
小振りの椀に注がれた酒を悠馬は受け取り、一口飲んだ。喉と胃が焼けるように熱くなる。
隣で水を飲むように流し込んでいるアダルを呆れ混じりに見る。
「アダル、しごと中じゃないか?」
制服のまま、腰に剣まで付けたままなのだ。
「不良警官」とハンナも呆れて言う。
「まま、内緒内緒。んで、殴られて、どうでしたかユーマ」
なんだか意地の悪い質問のような気がして、悠馬はまたちびりと酒を飲んだ。
「やっぱきついな。あっと、おこるされたのは、しんぱいかけたから、ごめん」
「ちょっとすっきりした顔してんな?」
そ? っと、悠馬は口の端で笑う。
「アダルに、けってすっきりした」
「に、じゃなくて、を、ね」
と、ハンナが律儀に訂正を入れる。
どんな言い方でも俺は蹴られてなんぼかよと、アダルが半眼になった。
しばらく無言で悠馬とアダルは酒を、ハンナは一人分だけ残っていたお茶を飲んだ。
あの時の、自分が死んだ時の為の話をした祖父。
そして、自分が死んだ後の為に行動していたブルク。
二人は同じだ。
二人ともに、悠馬が独りになっても世の中で生きていける様に、暮らしを守ろうとしてくれた。
この世界で、異質な自分がどれだけ生きて行けるか分からないけれど――。
明日はと、悠馬はぽつりと呟いた。
「明日はパン焼くから、したごしらえしないと」
数日使っていなかった竈の様子も見なければいけない。
新鮮な牛乳と卵も必要になるかもしれない。家畜小屋に入れる温めた石の数を増やさなければ。
春になり、この国でも苺が採れるのならケーキを焼くのも良い。
アダルとハンナに悠馬は笑う。
結局、人はどこでいても、どんな存在であっても、こうして酒に付き合ってくれる存在が居れば案外どうとでもなるのかもしれない。
「アダルとハンナには、とくべつ、はちみちゅ使ったパンを焼きます」
ぶっとアダルが吹き出して、ハンナも肩を振るわせる。
言い間違えたのか? と悠馬は首を捻って、もう一度言った。
「ふたりは、とくべつなパンを焼きます。はちみちゅを生地に」
「ぶはっ。ちゅ! はちみちゅ! 駄目だ笑える!」
赤ちゃんかよと腹を抱えて笑い出したアダルを、悠馬は複雑な顔で見る。何が受けたのか、いまいち良く分からない。
「あ、あのねユーマ」と、笑いを堪えてハンナは言う「はちみちゅ、じゃなくて、は・ち・み・つ。つ、だから」
「は、はちみちゅつ?」
「遠ざかったわ」
「だ、大の男の赤ちゃん言葉って笑える! 腹痛え!」
度数の高い酒を飲んでいるせいか、一度笑ってしまうと止まらなかった。アダルは赤い顔をしてげらげら笑い。笑いすぎよと、ハンナにおでこを叩かれた。
アダルの笑いが収まったころ、悠馬はわざともう一度「はちみちゅ」と言って、またアダルを笑わせた。
「アダル。酒むり? えっと、強い、じゃない?」
「弱いみたいね」
仕事、戻れるのかしら? と言ったハンナに、悠馬は「むり思う」と返した。
***
パン生地の上にクッキーの生地を被せていく。
それを竈で三十分ほど焼き上げて荒熱を取り、一つを手に取り半分に割る。外側の生地はさくっと歯応え良く、中の生地はしっとりと柔らかく仕上がっている。
味も。
「よし。メロンパンだろこれは」
悠馬は満足げに頷いて、竈の火を調節し、次に焼くパン生地を並べていく。
メロンパンは籠に並べ、ふと思い立ち、一つを一口大に切り分けて試食用を用意した。
最近知ったことだが、こちらの店には試食が無いらしい。
悠馬が試食用のパンを店の前で配っていたら、物珍しさから結構人が来た。
店がどうなるか不安だったが、食べていけるだけのお客は来ている。
パン屋の扉が開いて常連客が顔を見せる。
「いらっしゃいませ。新作のパンありますよ。はい、味見」
と、悠馬は切り分けたメロンパンを客へ差し出した。
一口食べて「おいしいわね」とにっこり笑った客に悠馬も笑う。
悠馬は今日も、異世界でパンを焼く。