1
冬、まだ夜が明ける前に悠馬は浅い眠りから目を覚ます。
そして直ぐにベッドに横たわるブルクへの傍へ行き、自身の指を舐めて湿らせてからブルクの口元に近づけさせる。
微かに感じる息が掛かる冷たさに悠馬は深く短い息をつく。
ブルクが厨房で血を吐いて倒れてから半月。彼はゆるゆると、その命を消そうとしていた。
こちらの世界の米は、日本米と違い水分が少なく粘り気がない。
悠馬は長めに水を含ませた米をたっぷりの水で炊き、裏ごしをして流動食を作る。
それを毎日少しづつ、ブルクの口へと運んでいた。が、それすら出来なくなって二日。もう、辛うじて生を繋ぐ薬すら、ブルクは受け付けなくなっていた。
閉じる力も無く、薄く開かれたままの瞳は光無く白く濁り、ほんの僅か上下する肩で腐った血と肉の匂いを混ぜた呼吸をする。
人の死は、突然であり、緩慢であった。
両親を亡くしているといっても看取ったわけではない。
交通事故での突然の死であったし、当時悠馬はまだ幼くて、身元の確認もすべて祖父が行ったのだ。
そういえばと、悠馬は葬儀の時を思い出す。ぼんやりと覚えているだけだが、両親の最後の顔は見ていなかったように思う。
忘れているだけだろうか? と記憶を探る。
「……ああ、そうだよな、事故死なんだから、子供には見せれなかったんだ」
ただ、浅い呼吸を繰り返す、それすらも、もう出来なくなるだろう、青黒い顔色のブルクを見つめ、悠馬はほうっと重い息を吐き出した。
玄関から明るい声が聞こえ、悠馬はブルクの部屋から顔を出した。
玄関を入った所で、髪や肩に付いた雪を手で払っている見知った女性の姿を見て、悠馬はどうにか笑って手の甲を向けて「いらっしゃい」と言った。
黒茶色の長い髪を一つに結い上げて、毛織物の外套に身を包んだハンナは。
「今日は一段と冷えるわね。そろそろ雪が積もりそうだわ」
と言って、風呂敷を抱えて悠馬に寄った。
その顔に濃い疲労を見てハンナは微かに眉を寄せたが、直ぐに笑顔を向けて抱えた風呂敷を悠馬へと見せた。
「お昼食べたの? 良い鹿肉が手に入ったから煮てきたの」
「えっと。おかず?」
「そ。日持ちもするしね。どうせパンの味見しかしてないんでしょ? ちゃんと食べなきゃ駄目よ」
初めて会った時よりも、明らかに痩せた悠馬にハンナは言う。
やつれるなと、言うほうが無理な状況だと言うことはハンナにも分かっている。それでも。
「ユーマ。暖炉にかけてるお湯下ろして、これ温めるから」
「ああ、うん。あとでたべる。ありがとう」
「駄目。そんな事言って忘れちゃうんでしょ。愛情込めて作ったんだから今食べてよね」
「アダルにおこられるな」
「ちょ、アダルは関係ないでしょ!」
もう! と、頬を膨らませるハンナに、悠馬は本当に久しぶりに笑った気がした。
ハンナもアダルも時間を見つけては様子を見に来てくれている。
頼れる者のいない悠馬にとって、その事は折れそうになる心の支えだった。
***
火を扱う為、板間ではなく石床になっている厨房は、竈に火を入れていない時はかなり冷え込む。
足元に竈の中から燃え残り炭になった薪を火鉢にくべて暖を取り、悠馬はパン生地を仕込んで行く。
小麦をふるい、重曹とでん粉を混ぜ、砂糖と塩、それから卵と油を追加する。
油が馴染むように良く混ぜ合わせ、生地がぽろぽろになってきたらそれを手のひら大に半円型にまとめていく。
固く絞った濡れ布巾を出来上がった生地の上に被せて乾燥を防ぐ。
悠馬は昼から焼き上げるパン生地の下準備を終えると、砂糖と塩を溶かした水を持ってブルクの部屋へと戻る。
乾いて割れたブルクの唇に糖蜜を塗り、水で口腔内を湿らせる。
寝返りが出来ないブルクの為に、悠馬は枕や毛布を使って体の位置を変えてやり、赤くなった部分を軽く叩いてほぐす。頻回に体位交換をしないと栄養状態が悪いブルクは直ぐに床ずれが出来てしまうからだ。
体位を変えたあと、医者に教えられた通り気道を確保する。
いつまで、こうしていられるのか、考える事はただ、怖かった。
悠馬は静かに眠るブルクを見下ろし話しかけた。
「ブルク。もうすぐ医者のせんせいがきます。いい、くすり飲むしてほしい」
気休めにすらならなくとも。
「きょうは、ゆきがたくさんふってるです。にわとりがなかなか卵をうまないので、こまるね」
答えが返ることはなくとも。
「石を焼いて、ぬのでまくして小屋にいれている。うしもあたたかいので、うれしいようです」
部屋に充満しているのは死臭だったとしても。
「――。ブルクの焼いたパンをお客たちは食べたい言うしてます」
それはどこか、故人を偲ぶものだとしても。
「…………」
死なないで。
***
心音を確かめて、脈を取る。
薬はもう、役にたたない。
町医者であるコヒ医師は、枯れたブルクの腕をベッドの上へそっと戻し、上布団を掛けなおした。
瞼をめくり、色のない瞳を確かめる。
自分は医者だ。患者を看取る事は慣れている。感情を込め過ぎていたら医者など出来ない。そんな事をしようなら自分の精神がいかれてしまう。それでも。
コヒはちらっと黒髪の青年を見る。
諦めと、諦めきれない感情を持て余し、硬く引き結んだ口元に、何十年たっても慣れない遣り切れなさを感じ、コヒは鼻を鳴らしてため息をつく。
医者である自分が感情に飲み込まれるわけにはいかない。
コヒは診療鞄を手に取り、悠馬へと近づきその肩に手を置いた。
「熱い茶を入れてくれ、落ち着いて話をしよう。わかるな?」
言われ、悠馬はブルクに目をやり、小さく頷いた。
台所に移動し、火掻き棒で暖炉を弄って薪を足す。
暖炉に掛けたままの鉄鍋から湯を取って茶を淹れ、今朝焼いたパンもコヒの前に並べて悠馬も椅子に腰掛けた。
悠馬は気を落ち着けようと熱い茶を飲む。
話を聞く覚悟から、逃げては駄目だと、悠馬は「話なにですか?」とコヒを促した。
コヒは悠馬を見つめて言う。
「君に分かる言葉で説明するのはなかなか難しい。端的に―― 分かりやすく短く言うから聞きなさい」
そして、聞かされた言葉は理解できない言葉ではなく、それ故に、悠馬は言葉を返せず、歯を食いしばるしか無かった。
――― 深く、雪が降り積もった日。ブルクは息を引き取った。






